昨今の「預言」を信じますか・信じませんか(その2)

2017年10月3日火曜日

「預言」に関する問題

t f B! P L
「預言」について、前回の続きです。
 曖昧だったり、都合良かったり、誰にでも当てはまったりする「預言」の問題点について書きました。さっそくコメントを頂きました。ありがとうございました。

・「自信」という落とし穴

「預言」と聞いて思い出すことの1つに、ある牧師のこんな教えがあります。

「預言は自信をもって語りなさい」

 自分が祈っていてこうだと感じたこと、心の中で強く印象付けられたことがあるなら、恐れないで大胆に語りなさい、神からのメッセージだと信じて語りなさい、というような意味です。
 一見それらしい話です。「預言ができるようになりたい」と願うクリスチャンは、これを聞いて勇気付けられるかもしれません。

 でもこの言葉には重大な欠点があります。何だかわかるでしょうか。わからない方は、かなりこの手の「預言」にやられてしまっている可能性があります。小池百合子さんではありませんが、ちょっと頭の中を「リセット」した方がいいかもしれません。

 この「自信をもって語りなさい」の意味するところは、要は「自分が感じたこと」=「神からの啓示」だと信じなさい、ということです。「祈っている間に◯◯と感じたのだから、これは神様からのメッセージに違いない」と信じることです。突き詰めて言えば、「自分は神様からの語りかけを100%キャッチできる。決して間違わない」と断言することです。

 でも単純に考えて、決して間違わない人間などいるでしょうか。いないと思いますが。
 それに「祈っている間に感じたことは神からのものだ」と主張するのは結構ですが、じゃあたとえば祈っている間に「お腹すいたなあ」とか「今何時だろう」とか「お尻がかゆい」とか感じたことはないのでしょうか。怒らないから正直に言ってみなさい(笑)。

 というのは冗談ですけれど、「自分が感じたこと」=「神からの啓示」というのは明らかに言い過ぎだと思います。それはぶっちゃけ、「自分」=「神様」と言ってしまうのと同じだからです。
 何故そんなことになってしまうのでしょうか。大切なプロセスを無視してしまっているからだと思います。

・吟味というプロセス

「預言」について学ぼうと思ったら、とりあえず新約聖書のコリント人への手紙あたりを読まれたらいいと思います。基本的なことは書かれていると思いますから。
 それによると、「預言は吟味されなければならない」とあります。
 つまり1人の人が「預言」として◯◯と語ったら、他の何人かがそれを吟味して、正誤の判断をしなければならない、ということです。だから1人が言った段階ではまだ正式な「預言」とは認められないわけです。

 この一点だけでも、すでに「自分が感じたこと」=「神からの啓示」という論理は成り立たないのではないでしょうか。「預言推奨派」の皆さんはこの点どう考えるのでしょう。

 ひるがえって、現在「預言」を語っているあちこちの聖霊派系教会を見てみましょう。果たしてそれらの教会では「預言」が適切に吟味されているでしょうか。金銭が絡む事柄(たとえば新会堂を建てるとか)ならば、ちゃんと話し合われるでしょう。しかし集会なんかで流れ作業的に語られる「預言」は、それこそ語られっぱなしのはずです。吟味の「ぎ」の字もありません。

 つまりそこで語られる「預言」をチェックする機能は、1つもないのです。口から出せば全「て神の言葉」になってしまいます。これって危険なことじゃないでしょうか。

 そういう「預言」を受けて感謝感激する人は、その語り手をほとんど神様と同列に見ています。「その語り手(牧師など)の言葉」=「神の言葉」と疑問の余地なく信じているからです。神と同列のはずなので、100%信頼できる、ウソをつくはずがない、不正なんかするはずがない、というわけです。

 でもその牧師であれ、誰であれ、神様でなく人間です。今まで多くの司牧がとんでもない犯罪行為を犯してきたことを考えれば、「聖職」だからといって、手放しに信頼することはできません。

 こういう話をすると、「真面目に頑張ってくれている牧師先生を疑うなんてっ」とやたら牧師を擁護する人が出てきますが、吟味することと疑うこととは違います。それにそもそもの話、疑ったっていいのです。キリストの復活を信じなかったトマスの例を考えてみて下さい。彼は疑ったということ自体で、裁かれたり怒られたり貶められたりしませんでした。むしろ彼はキリストの配慮を受けました。
 現代ではちょっとでも疑う信徒を激しく責める牧師がいますが、キリストはそういうことはしません。

 話を戻しましょう。
 そういうわけで、何の吟味もされず語りっぱなしになっている昨今の「預言」は、そのまま鵜呑みにしてはいけないと私は思います。間違っているとは言いません。でもちゃんと吟味なり検討なりしなければなりません。
 今も教会で「預言」を受けている皆さんには、この点についてよくよく考えて頂きたいです。

・すでに固定化されている「預言文化」

 とは言え昨今の「預言」を重視する教会群では、すでに独自の「預言文化」が形成されています。
 牧師や宣教師といったリーダーが信徒1人1人に「個人預言」をし、その内容は一切の吟味なく「神からのメッセージ」として受け止められます。それらを録音したり書き起こしたりして、「預言カード」みたいな形で各人に配布されたりします。そういったカードが年々たまっていき、その人の生きる指針・信仰生活の指針として重視されるようになります。くどいようですが、そこに吟味というプロセスはありません。リーダーが「預言」として語ったことは、イコール神の言葉として扱われます。そういう文化です。

 また「預言」を受ける方も、信仰をもって準備しなければならない、と教えられます。
 ちゃんと「霊的に」準備して臨むなら、相応に「深い預言」が語られる、と教えられます。
 だから「預言」が語られるであろう集会の前には、何日も断食して祈るとか、献金するとか、聖書を沢山読んでおくとか、そういう準備が推奨されます。そういう文化なのです。

 しかしそれらは聖書に根拠があるわけではありません。
 たとえば「預言」は未信者相手にも語られますが、未信者はそんな準備などしません。
 また断食したり献金したりした方が「深い預言」が頂けるというのは、ただのご利益主義です。
 だからそれらは、教会内で時間をかけて形成されてきた、文化に他なりません。そしていつの間にかその文化の方が大切になっていて、聖書が本当に(あるいはシンプルに)何と言っているかが、わからなくなっているのです。そうではないでしょうか。

 だから教会の習慣や伝統を、たまには疑うというか、見直すというか、そういうことも必要だと思います。でないと簡単にズレてしまい、気づくとえらく見当違いなところにいた、なんてことになってしまうかもしれません。

・続きはまた次回に

 というわけで今回は、まったく吟味されない「預言」、教会の文化として独自の変質を遂げてしまった「預言」について書きました。さらに次回に続きます。

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