・ありがたく語られる「預言」
「神は言われる」というセリフから始まって、
「あなたは◯◯のような人です」
「あなたはこれまで◯◯のことで葛藤してきました」
「あなたが◯◯から解放される時が近づいています」
「あなたは◯◯になります」
「あなたが◯◯になることを神が願いです」
みたいなことが、神妙な面持ちで語られます。語るのはだいたい牧師か、国内外の「預言の賜物がある器」です。この頃では一般信徒にも「預言できます」みたいな人が増えているようですが。
語られた方は感謝感激です。「神様からの自分宛メッセージ」なのだから当然でしょう。ありがたがって聞かないと、きっと悪いことが起こるんじゃないでしょうか。たとえば「救いから漏れる」とか、「天国に行けない」とか。
それが本当だとしたら、「預言」に否定的な他教派は大変なことになってしまいますが。そのへん「預言推奨派」の人たちはどう考えているのでしょう。
余談ですが高田馬場に「預言カフェ」というのがあります。知り合いも関わっていたことがあるそうで、お客さんにコーヒーと「個人預言」を提供してくれるそうです。具体的なことは聞いていませんが。
実は今度試しに「預言カフェ」に行ってみようかと思っているのですが、興味のある方がいらしたら、ちょっと一緒に行ってみませんか(割と真面目です)(コメント下さい笑)。
・曖昧な「預言」
聖霊派教会で熱心だった頃、私も何度となく「預言」を語ってもらいました。
そんなに頻繁に受けられるものでもなかったので、大切なメッセージとして、生きる指針の1つとして、受け止めていました。
とは言え、そこまで実際的に、具体的に行動を変えるようなレベルで、受け止めていたわけではありません。何故かと言うと、そこまで具体的な内容ではなかったからです。
「あなたは◯◯のような人です。あなたには△△の賜物があります。あなたはその賜物を用いて人々に影響を与えていくでしょう」
みたいに語れらたことがあります。それはそれで「へえそんなんだ」と思いました。けれど、じゃあ具体的に何をしたらいいんだろう、という段階から先には進めませんでした。
「そこから先は自分次第でしょう」とか言われるかもしれませんが、預言ってそもそも「自分次第」なものでしたっけ?
またよく語られたのがこれです。
「あなたは自分自身を暗い穴に閉じ込めてしまっています。穴から出てきなさい」
何となく意味はわかります。私はどちらかと言うと内向的な人間なので、「閉じこもっている」と言われればそうかもしれません。でもそれだと、「内向的じゃダメだから外交的になりなさい」みたいに言われているようです。内向的じゃダメなんですか?
またこれも具体性という点ではほぼ0点です。何をしたらいいのか、あるいは何をしていくべきなのか、具体的な情報が皆無ですから。曖昧すぎじゃないでしょうか。
私は聖書や神学を専門的に研究しているわけではありませんから、厳密なことは言えませんが、聖書に登場する「預言」ってもうちょっと具体的じゃありませんか。誰がどうなる、何がどうなる、ってことがハッキリ言われてませんか。そしてその通りになってませんか。
逆に「ニセ預言」の特徴は、とにもかくにも「言った通りにならなかった」という点でしょう。「あなたは王になる」と言われた人が王にならなかったら、それは「ニセ預言」です。聖書の時代、「預言」はそうやって判定されたようです。
でも私が受けてきた「預言」の数々は、どれも曖昧すぎて、結果判定できないものばかりです。結果判定できない「預言」とは、本当に聖書が言う「預言」なのでしょうか。
知り合いに「あなたは高らかに神を賛美するようになる」と言われた人がいましたけれど、これも相当曖昧だなと思いませんか。クリスチャンならたぶん誰だって礼拝で賛美するでしょう。それとも「高らかに」という点がネックで、つまり「今はまだ高らかに賛美できていない」=「もっと高らかに賛美しなさい」ということなんでしょうか。
あるいは「ゴスペルシンガーになる」という意味なのでしょうか。だったら「賛美するようになる」じゃなくて「ゴスペルシンガーになる」とハッキリ言ってほしくないですか。
いずれにせよ、曖昧すぎてそれ自体に何の意味もない、という「預言」が多いように思います。
それでも語られた人は、「私のために特別に語って下さったのだから」という感謝の心理が働いて、必要以上に感謝感激してしまっているようです。現にかつての私がそうだったように。
・都合よく解釈できる「預言」
というように、その手の教会で語られる「預言」は曖昧なものばかりで、どのようにでも解釈できてしまいます。だから結果判定もそれぞれの解釈次第で、「成就した」と言えてしまうかもしれません。
とにかく具体的でないのだから、「何とでも言える」のです。そしてそれが問題です。
たとえば「あなたに新しい季節がやってきた」と言われたとします。これまた曖昧ですね。「新しい季節」とは何でしょう。転職を考えていた人は、「やっぱり転職すべきなんだ」と思うかもしれません。でももしかしたら、今の職場の環境が劇的に変わるという意味かもしれません。だとしたら「転職してはいけない」という意味にもなります。あるいはキッチンがイマイチ使いづらいと思っていた主婦は、「やっぱりキッチンをリフォームする時期なんだ」と思うかもしれません。恋人と別れるか迷っている人は、「やっぱり別れる時なんだ」と思うかもしれません。あるいは単に「夏が終わって秋がきた」というだけかもしれません(そんな「預言」必要ないですが笑)。
いずれにせよ「預言」がいろいろな風に解釈できるというのは、こんな風にイロイロ問題になるわけです。
・誰にでも当てはまる「預言」
またこういうのは、「誰にでも当てはまる」という意味で、テレビの「占いコーナー」と同じです。
「今日のあなたの運勢は◯◯です。あなたにとって△△な人と一緒にいれば、新しい発見があるでしょう」
みたいなことが毎朝語られていますが、これは誰にでも当てはまります。「新しい発見があるかも」と気にしながら1日過ごせば、誰だって何かしら「発見」するじゃないですか。
私は聖霊派教会に長くいたので、いろいろな人が語られるいろいろな「預言」を耳にしてきました。だから言えますが、「曖昧すぎてほとんど誰にでも当てはまる」という内容が大半です。そして誰にでも当てはまるなら、それはテレビの占いと同じレベルじゃないでしょうか。何が違うのでしょう。「神様からの特別なメッセージだ」とありがたがるなら、テレビの占いも同様にありがたく拝むべきではないでしょうか(でもそれをやったら「偶像崇拝だ」「悪魔崇拝だ」となるのでしょうけれど)。
・続きは次回に
というわけで、昨今の「預言」の問題点をつらつら挙げてみました。皆さんも良かったら考えてみて下さい。そして賛成も反対もいろいろご意見頂けたら嬉しいです。
「預言」について次回に続きます。
個人預言あるあるですね。
返信削除私も数年前にあるカリスマ系教会牧師から、「あなたは、大伝道者になる」と預言されました。
そして、今私はその教会を離れ、信仰は捨てました(笑)
Fuck
大伝道者になる、とはまた大きく出たものですね。成就しなかった責任をどう取るつもりなんでしょうね。取る気なんてないでしょうけれど笑
削除聖書の学習会で、預言に関して、イザヤの預言は素晴らしい、イエスの出現を預言しているとか言う人、創世記に3人の神を見たという記述があるが、あれは多神教のことではなく、神とイエスと聖霊との三位一体の事を記述している預言だとか、新約聖書から旧約聖書を考えると称して語る人が多いのです。旧約聖書では聖霊というのは出てこない、パウロは霊という表現はしていないが、福音書で聖霊という表現が出てくる、パウロは聖霊という意味で霊という表現を使っているのだとか、すべて後付けで説明しているわけですね。預言にしても、ある神父さんに、あたらなかった預言は偽預言と言うことになるのでしょうかと、質問しましたが、回答はあたるあたらないは関係がない、重要か重要でないという事ですと言われたことを思い出す。後世の人が重要だと考えた預言は残り、重要だと考えなかった預言は残っていないと言うことですね。聖書というのも、書物というのが原義で、神聖さを出すために聖書と表現しているわけで、書物の言葉と言うより、聖書のみ言葉という方がありがたみが出るわけですね。神の霊と言うより聖霊という方がこれまたありがたみが出るわけです。重要さというのは、一言で言えばありがたみの有る無しのことですね。預言も要はありがたみがあるかないかと言うことに尽きますね。
返信削除重要だと考えた預言が残った、というのが興味深いですね。あくまで人間の側の判断で「神聖である・神聖でない」が決められるというのは現在のキリスト教信仰のいろいろな場面でも見られますね。
削除コメントありがとうございました。
高田馬場の預言カフェですが、ここは奥では統一教会とのつながりが噂されています。
返信削除預言カフェに行ったことのある人からの情報提供ですが、中年の男性が行くと、必ずと言っていいほど「あなたは人を指導する役割を負っていて云々・・・」というような内容の預言になるそうです。まあ今までなら、その年代の男性ですと、管理職についている人がほとんどですので、人を指導する役割という言葉さえいれておけば、なんとなく当たっているという印象を与えることができるでしょう。
しかしあと十年もしてごらんなさい。これは通用しなくなるでしょう。たとえば新興宗教系プロテスタントの教会に学生時代から通っていた人がいるとしましょう。彼は当然日曜日に休める会社にこだわって就活をしますので、心ならずも派遣社員というケースがよくあるわけです。この人は中年になっても非正規雇用のまんまですので、たぶん人を指導する役割なんか与えられていないと思います。
そんな彼を預言カフェに連れて行って、「人を指導する役割・・・」とやられたら?
さあみなさん、彼の苦笑する顔と、中高年という表面だけを見て、「この年齢ならこうだろう」と、同じセリフを「預言」として口にする間抜け面の預言者を想像してみましょう(大爆笑)
統一教会との繋がりは知りませんでした。聖霊派のイケイケ系の教会がバックアップしていると聞きましたが、なかなかわからないものですね。
削除ますます「怖いもの見たさ」で行きたくなりました笑
ロナルド・サーカという、自称使徒が背後にいます。後の雨につながりのある人物です。
削除field of lily様
削除情報ありがとうございます。
いわゆるラターレイン系の人なのですね。やっぱりという感じですが。
統一教会は、文鮮明亡き後も元気ですね。メディア的にも、教会的にも言いずらい苦い真実として「首謀者なき共同犯罪」的要素を感じます。
返信削除教祖1人の責任にしておけば傷つく人間が少なくて済む。
敵に回す人間が少なく済む。
中堅幹部(企業なら課長レベル)以上になると被害者と加害者が同一人物のなかに「同居」してるなんて要素はないでしょうか?
牧師の悪事が明らかになった、カルト教会でも、実は役員レベルの人間は知っていて黙認していたのでは?っという疑惑もでてますよね。
この辺の問題になってくると「やばい」話になってくるのか急に論調がトーンダウンしてくるのを感じます。
仰る通り、教会の役員や中堅リーダーあたりの人たちは、カルト牧師の片棒を担がされていることが多いですね。だから被害者でありながら、加害者要素も持っていることになります。
削除ただそこには、組織における集団心理が働いていると思いますね。その組織における「正しいこと」に従わないと生きていけないので、結果的に正誤を判断する力が失われてしまう、というような。
もちろん、牧師の不正を黙認したなら話は別なのですが。
私の周りの牧師達の聞いた預言では、アジアの母(女性牧師)になると預言された人、世界の器(そこの副牧師)になる。かれの出したCDを全世界の人が聞くようになる。そうな。。。あれから10年、まだなんの風のうわさも聞かないが、見ものだな。
返信削除そうなんですよね。いろいろすごい「預言」の数々が語られるのですが、いつまで待っても「成就」しないという。そしてそのうち「なかったこと」にでもされるという。「預言」がものすごくいい加減に扱われていると思います。
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