クリスチャンの「熱い祈り」は必ず聞かれる?

2017年9月15日金曜日

「祈り」に関する問題

t f B! P L
・映画『ダンケルク』

 今回は、現在公開中の映画『ダンケルク』の話から始めます(日本では9月9日に公開されました)。
 第二次世界大戦中に実際にあった「ダンケルクの戦い(ダイナモ作戦)」を題材にした、クリストファー・ノーラン監督の戦争映画です。


 ナチス・ドイツの攻勢によりに、英仏軍はフランス北端のダンケルクまで追い詰められ、包囲されました。ダンケルクはドーバー海峡に面していて、もう逃げ場はありません。40万の兵士があわや全滅か、という場面でした。
 そこでイギリス軍が考えたのが、ダイナモ作戦でした。イギリスのありったけの船舶(民間船も含む)をダンケルクに派遣して、海路で兵士をできるだけ多くイギリス本土に帰還させよう、というプランです。

 映画は1人の若いイギリス兵を中心に、市街地から海岸へ、海岸から船へ、その船が沈没してまた海岸へ、そしてまた別の船へ、という逃避行を緊迫感マックスで描いています。秒針がチクタクする音がBGMになっていて、なんだかとっても疲れました。ちょっと大袈裟かもしれませんが、自分も戦場に投げ出されたような感覚、と言えるかもしれません。

 で、これは史実なので結末はわかっているのですが、結果的に約36万の兵士たちが無事帰還を遂げます。作戦成功だったわけです。ちなみに先の若いイギリス兵も、ギリギリのところで助け出され、無事帰国しました。戦争映画でこう言うのもアレですが、いわゆるハッピーエンドです。

・クリスチャンの「熱い祈り」のおかげ?

 ところでこの話ですが、以前あるキリスト教会で、こんなふうに聞いたことがあります。
「ダンケルクに包囲された兵士たちのため、イギリスのチャーチル首相が、奇跡を祈るよう国民に呼びかけた。イギリス国民は断食して神に祈った。すると不思議なことにナチス・ドイツの攻勢が止み、兵士たちは全員無事に助け出された。ハレルヤ!」
 だいぶ端折ってますが、こんな感じでした

 その教会によると、ダイナモ作戦の成功は、イギリスのクリスチャンたちの「熱い祈り」による奇跡だった、というわけです。自分の船を差し出した多くの民間人の熱意や、実際に現地で戦った兵士たちの勇気でなく。

 当時はダンケルクのことなんて全然知りませんでしたから、私は「へえすごい」と単純に思いました。あまりにも無知でした。
 でもこうして映画を見てみて、いろいろ調べてみると、「説明不能な奇跡が起こった」と考えるのはさすがに無理があるのがわかります。実際ドイツ軍が全然攻撃しなかったなんてことはないですし、イギリス兵は3万人くらい捕虜になっています。亡くなった兵士たちも大勢います。おそらくイギリスのその手のクリスチャンたちは「熱く祈った」のでしょうが、ちょっと話を盛りすぎじゃないでしょうか。

 そういえば同じような例が他にもあります。たとえば1989年の「ベルリンの壁崩壊」については、同じ教会で、こんなふうに聞きました。
「ベルリンの壁の崩壊を願い、あるクリスチャンが祈り始めた。すると本当に崩壊が実現した」

 なんとなく、こう言っているように聞こえます。
「歴史上の偉業の背後には、いつもクリスチャンの熱い祈りがあるのだ」=「私たちクリスチャンが歴史を動かしているのだ」=「実は私たちが世界の中心なのだ」
 たぶん当人たちはそこまで意識していないでしょうが、要はそういうことだと私は思います。

 あるいはもしかしたら、本当に「クリスチャンの熱い祈り」がダイナモ作戦を成功に導き、ベルリンの壁を崩壊させたのかもしれません。それを否定する明確な根拠は、ありません。
 しかし同時に言えるのは、それを肯定する明確な根拠もない、ということです。

 祈ったから成功した、祈ったけど失敗した、というふうに言うのは、祈りを定量化することに他なりません。すると、◯◯を成功させるにはコレコレだけ祈ればいい、という一定の基準を設けることになります。そういう基準がないと、「祈ったから◯◯できたんだ」と断言できませんから。でもそんな基準も表現も、聖書のどこにもありません。

 たとえばですが、私があなたに、こう言うとします。
「あなたが今日、何のトラブルもなく1日無事に過ごせたのは、この私があなたの無事を祈ったからです。私の祈りであなたは今日1日無事だったのです。ハレルヤ!」
 さて、あなたはこれが私の妄言だと、どうやって証明できるでしょう。あるいはそれが私の妄言でないと、どうやって証明できるでしょう。

 厳密には、どちらも証明できません。

・「感動」や「ドラマ」で盛られた教会生活

 そもそも、本当にクリスチャンの「熱い祈り」が「実際的に」世界を動かしてきたのなら、世界はもうちょっとマシになっているんじゃないでしょうか。
 ナチス・ドイツの大軍を奇跡的に抑えることができたのなら、ホロコーストだって止められたはずでしょう。世界各地の数々の大虐殺だって止められたはずでしょう。現在進行形で起こっている悲劇だって、「熱い祈り」で止められるんじゃないでしょうか。

 北朝鮮問題を取り上げて、「朝鮮半島の統一のために」現地に祈りに行った人たちがいます。あるいはアメリカに、「火の裁きが下る」と預言しに行った人たちがいます。あるいは日本の「分断された東西の和解のために」祈りの旅に出た人たちがいます。でもその結果は? 彼らが関係者から注目され、賞賛され、いい気分になっただけです。実際には何も起こっていません。

 その手の「クリスチャン」の話は、成功例だけ取り上げて、「我々が祈ったからだ」と「後付け」しているだけだと思います。その証拠に、何の根拠も提示できません。ただ言い張っているだけです。

 また、上述のダイナモ作戦にしても、「奇跡的にドイツ軍が止まった」とか「全員救出された」とか、話が脚色されています。なぜ脚色するのでしょうか。それはクリスチャンの祈りを、あるいは教会活動を、感動的でドラマチックなものに仕立て上げたいからです。地道な活動ではつまらないのです。彼らにとっては。いつも劇的な何かが起こって、笑ったり泣いたりしていないと、「命のない教会」「死んだ信仰」になってしまうのです(彼らに言わせると、オーソドックスな教会は「いのちのない教会」になってしまいます)。

・「熱い祈り」などと自分で言うものではない

 というわけで、「熱い祈り」が必ず歴史的偉業を達成すると断言することはできません。でもそれを平気で断言する教会や牧師がいますので、本当に注意が必要です。

 そもそもですが、「熱い祈り」などと自分で言うものではありません。何をもって「熱い」とするのか、誰それの祈りはなぜ「熱くない」と言えるのか、自分の祈りだけはなぜ「熱い」と言えるのか、そのへんが全然わかりませんから。

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