・打ち上げ花火のような、イベントごとの「決心」
さて8月に入りました。
8月というと、教会関係のキャンプとかカンファレンスとかコンベンションとかセミナーとか(呼び名はどうでも)、わりと大きめな、数日にわたって行われるイベントが多い月です。学校の夏休みとか職場のお盆休みとかがあるのも関係あるでしょうね。以前に比べて、超教派的な集まりは減ったように思いますが。
今回はそういう「季節のイベント」に参加するうえでの注意点みたいなものを書きたいと思います。
たぶん教会企画のキャンプとかで、これから海や山へ行く予定の方もいらっしゃると思います。最近はクラゲやハチだけでなく、アリとかヘビとかの害虫・害獣被害が話題になっていますから、そのへんの対策も必要みたいですね。まさか「パウロがヘビに噛まれても大丈夫だったから自分も大丈夫だ」みたいな勇者はいないと思いますが(たぶん)。
ところで、この手の大きなイベントで毎回、何かの「決心」をする人が少なからず見受けられます。私が知っているケースでも、
「キャンプを通して洗礼の決心が与えられました」
「このカンファレンスでディボーションの重要さを知りました。これからは毎日します」
「今回の学びを通して、毎日30分賛美するよう導かれました」
「これから毎日最低1人に伝道していきます」
みたいなのがあります。
でも季節のイベントで「毎日〇〇します」と決心して、一ヶ月後にまだ続けている人は、ほぼ皆無です。「毎日〇〇」している人というのは、もともとそういうイベントと関係なくやっています。
「洗礼の決心」にしても、結局どこ吹く風、みたいになる人が少なくありません。
いずれにせよ、「決心」が続かない、ということが非常に多く見られます。打ち上げ花火みたいに、上がって落ちて、それで終わりです。
私のこういう指摘に「そんなことはない」と反論した人がいましたが、なるほど全員が全員そうなのではないでしょう。その人自身は続かない部類でしたが。
なぜでしょう?
私が思うに、それらのイベントが「日常生活を離れた環境」「特殊な環境」で行われるからです。
・「特殊な環境」で起こること
「特殊な環境」というのは、なにも海や山などの大自然だけではありません。極端な話、教会に3日間寝泊りするだけでも「特殊な環境」になります。あるいは寝泊りしなくても、(セミナーならセミナーで)3日間それ「だけ」に集中するなら、「日常生活を離れた環境」になります。
要は、普段していること(仕事や家事や学業など)を「しない」で、ある一つのこと「だけ」に集中する環境です。
海辺でのキャンプを例に考えてみましょう。
ある都会の教会が、夏の海で2泊3日のキャンプをするとします。学生は夏休みで、大人は仕事を休んで参加します。専業主婦の方は家を3日間空けるためにアレコレ片づけてやってきます。
さてキャンプが始まると、そのプログラムに沿って行動します。礼拝やセミナーが何度かあり、その間に食事とか自由時間とかあると思います。自由時間は海に行ってもいいでしょうし、ゴロゴロしててもいいでしょう。普段できないおしゃべりに花を咲かせるのもいいですね。食事は宿泊施設によりますが、ここでは上げ膳据え膳ということにします。すると主婦の方々は普段の家事からほぼ完全に解放されます。小さいお子さんがいたらその世話があるとは思いますが。
というような環境ですと、普段できないことができるようになります。たとえばお風呂にゆっくり浸かるとか、昼寝するとか、クリスチャン的なことで言えば聖書をじっくり読むとか、「ディボーション」にありえない時間をかけるとか、海辺を散歩しながら賛美するとか、そんな感じです。
礼拝もセミナーも、他のことを気にせず集中できます。日常的でない環境なので、特別力が入るかもしれません。礼拝が遅くに終わったとしても、それから家に帰る手間がなく、ただ部屋に戻るだけです。
だからイロイロなこと一つ一つに、普段かけられない時間をかけ、普段できない集中を注ぐことができます。
私が言う「特殊な環境」とは、そういうものです。
くどいようですが、これは夏の海でなくても起こります。
その中で、たとえば「やっぱり聖書っていいなあ。これから毎日3章ずつ読もう」とか、「ディボーション最高だ。毎日1時間はやろう」とか決心するかもしれません。あるいは礼拝の中で、牧師に「毎日1時間祈れば人生変わります」とか言われて「その通りだ」と思うかもしれません。
でもそれは全部、「特殊な環境」だからこそです。
その「毎日〇〇しよう」という決心をもって、日常生活に戻ります。また普段通りの、仕事や家事や学業が待っています。すると忙しくなり、余裕がなくなり、気分が変わってきます。キャンプでたしかに体験したはずの「感動」も、徐々に(あるいは急速に)消えていきます。すると「毎日〇〇」なんて無理だなあと気づくわけです。たとえば聖書を毎日3章読むなんて、どれだけ暇人なんだって話です。
というわけで、あるイベントを通して決心したことが、一ヶ月後にはもう忘れられている、という状況になります。
でもそれは誰が悪いのでもありません。ただ「そういう特殊な環境にいた」だけです。
・日常生活に持ち込めない特殊さ
キャンプやカンファレンスやコンベンションやセミナーそのものが悪いわけではありません。それはそれで良い機会になるでしょうし、何かのキッカケになるかもしれません。ただそれが「特殊な環境」であり、そこでの感覚をそのまま日常生活に持ち込むことはできない、と知っておくべきです。両者は時間の流れが違い、集中の度合いが違うのです。
あるクリスチャン・キャンプで「徹夜祈祷会」なるものを体験した人がいました。夜の10時から皆で礼拝したり祈ったり話し合ったり、というのを朝の6時くらいまで続けたのです。それはそれで特殊な、良い経験だったようです。「ぜひ自分の教会でも月に1回くらいやりたい」と言い出しました。でも結局、断念しました。一晩徹夜するには、どこかでその分の睡眠を確保しなければならず、しかし普段の生活にそんな余裕はない、と気づいたのです。当たり前と言えば当たり前ですが。
だから何かのイベントに参加して「これは素晴らしい」「これは毎日やりたい」と思ったことがあっても、しばらくグッと堪えて日常生活に戻り、その中で本当にできるのかどうか、やるべきなのかどうか、改めて考えてみた方がいいと私は思います。
でないと「決心したのに続かなかった」「言うだけ言ってやらない」みたいなそしりを受けることになってしまいますから。それは本人も辛いですし、まわりの人間もなんだか居心地が悪くなってしまいます。
これからキャンプなどのイベントに参加される方には、そのへんのことをちょっと考えて頂けたらなと思います。
・関連記事
ちなみに去年も同じようなテーマで書いた記事があったので、下記にリンクを貼ります。
若干きつい言い方をしていますけれど、内容的には本記事より突っ込んで書いています。
・クリスチャンの「キャンプ」の弊害
ヤマギシからみると、新興宗教系プロテスタントは商売が下手だなあと思ってしまいました(笑)。これならまだ自己啓発セミナー(これもカルトの専門家からは商売が上手な方ではないと評されています)のほうが商売上手ですよ。
返信削除きっと「決心」というのが、せいぜい「ディボーション一時間やろう」程度でしかないから、こんなものでもまあ合格ということになっているのでしょうね。
ヤマギシですと、一週間の特講のあとは、会員となってムラの生産物等を買い、時折同じ会員の家に行って(その人の家に入るときは「ただいま」といい、迎える側は「おかえり」というらしいです)、疑似家族作りをやっていますよ。娑婆でも洗脳状態が解けないように保ち、その流れでゆくゆくは二週間の研鑽学校を経て参画となり、晴れてヤマギシの村人というコースです。
新興宗教系プロテスタントの大半は、出家コミューン型ではありませんので、洗脳状態を保つために四苦八苦をすることがないというのが、「すぐにさめてしまう」理由の一番大きなものだと思いました。