教会と個人のキョリ感

2017年3月18日土曜日

教会生活あれこれ

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 前2回にわたって、『キリスト教のリアル』の書評を書きました。
 同書を読み終えてしばらく経ちますが、今でも考えさせらるのは、「よその教会のことはわからない」というクリスチャンの現状についてです。これについては、前回の記事に書きました。

 もちろん、よそのあらゆる教会について、詳しく知っている必要はありません。それはそれで大変なことになってしまいますから。しかし、教派間の「ちがい」とか、概要については、ある程度知っておいた方がいいと思うわけです。自分の教会のことしか知らなくても、教会生活なり信仰生活なりを送ることはできます。けれど(多少言い過ぎかもしれませんが)「キリスト教」を十分理解しているとは、言い難いのではないでしょうか。

 では、どうしたら良いのでしょう。一人一人が「よその教会(教派)」について知識を得て、一括りにできない「キリスト教」の多様性を知り、「自分の教会(教派)」をある程度客観的にみられるようになれれば、良いのではないかな、と私は思います。そのためには、個人個人の「勉強」が欠かせないのではないでしょうか。

・でも、勉強ならしてますけど・・・?

「勉強」の話になると、「聖書の勉強ならしてますけど」と言う人がいると思います。結構なことだと思います。
 たしかに、毎日聖書を読み、黙想し、礼拝で説教を聞き、教会のバイブルスタディに参加し、方々のカンファレンスに行くような、熱心な人が少なくないと思います。自身のブログやSNSアカウントで、聖書研究を展開している人もいます。

 しかし私がここで言う「勉強」とは、そういうものではありません。

 教会内のバイブルスタディや、教派単位で開かれるカンファレンスは、それはそれで知識を得る機会ではあるでしょう。しかしあくまで教会内(教派内)で統一されている教えなり聖書解釈なりに基づいた知識を得ることになります。自教会への帰属意識を高める効果はあるでしょうが、他教派について知る機会とはなりません。
 個人的な聖書研究にも同じことが言えます。なぜならその研究の仕方が、自教会で教えられている聖書理解に基づいているからです。研究自体が悪いと言っているのではありません。他教派について理解する機会にはならない、と言っているのです。

 このように、「バイブルスタディ」と「キリスト教学習」とは分けて考えられるべきだと思います。前者は(教派的な)主観性を強め、後者は客観性を強める、と言うことができるかもしれません。しかし、しばしば混同されることがあるようです。

・何をもって「間違っている」と言えるんでしょう・・・?

  原理主義的な教会(クリスチャン)に顕著な気がしますが、「自分の教会(教派)こそ正しい」という主張が時々見受けられます。つまり他の教派は全部(どこかで)間違っている、というわけです。あるいは公にそういうことを言わなくても、教会内では(牧師が)明確に言っている、ということがあります。

 個々人のクリスチャンの議論においても、前提として他教派を認めていないんだなあと思わせる発言が見受けられます。
 たとえばですが、福音派・聖霊派あたりには、カトリックを毛嫌いしている人が多いようです。理由は偶像崇拝しているからとか、マリアを拝んでいるからとか、聖人を拝んでいるからとかです。カトリック信徒を罪人だとか、悪魔だとか呼ぶこともあります。でもそれは、古い知識に基づく誤解だと言わざるをえません。カトリックについて少しでも学べばわかることですが、彼らは「象」を記念や象徴として、あるいは視覚的な信仰表現として、使用しているわけです。物体そのものを拝んでいるのではありません。マリアや諸聖人を「神」として拝んでいるのでもありません。そうでなく、言うなれば彼らを信仰の先輩として、尊敬の対象として、見ているわけです。カトリックも時代を経て刷新しているのです。

 そういうことを知らないで、カトリックを前時代的だと断ずるとしたら、その方がよほど前時代的な気がします。

 と、いうのはほんの一例です。ですがこのように、「自分たちの教派こそ正しい、他は間違っている」と思っている人たちには、そもそも他の教派に対する正しい理解がない、という場合があります。実はよく知らないのに、あるいはイメージとか伝え聞いた話だけで、ほとんど盲目的に「間違っている」と考えているのです。

 もし身近に、他教派を批判する人がいるなら、各教派のどこが間違っているのか、何がダメなのか、具体的に尋ねてみて下さい。果たしてどこまで答えられるでしょうか。いろいろ難しそうなことを言って誤魔化すかもしれません。そしてそれ以前に、そもそもの話、「他の教派」と言っても具体的にどういう教派があるのか、ちゃんと知らないかもしれません。

 余談ですが、「批判する人」は2種類に分かれると私は考えています。一つは「その分野に詳しい人」です。詳しく知っているがゆえ、何が問題なのか明確になっており、結果的に批判に至るのです。もう一つは「表面的にしか知らない人」です。ほとんど感覚的な動機で批判をしてしまいます。しかも聞く耳がないという、なんともはやな状態です。

・知ることのメリット

 他教派について知ることは、そのまま自分たちの教派を再発見することに繋がると思います。自分たちの教派が歴史的に、キリスト教界的にどこに位置しているのか、見えるようになってきます。また宗教的儀式、たとえば洗礼や聖餐についても、それらがどのように理解されているのか、どのような変遷をたどって現在に至っているのか、わかるようになります。それは信仰生活にとってプラスとなるでしょう。他教派の良さや、自教派の課題点も見えてくると思います。すると客観性が生まれ、むやみに批判することもなくなります。

「自分たちの教派こそ正しい、他は間違っている」と思っている人は、おそらく教会にベッタリなのだと思います。自分の教会を絶対視し、盲信しているわけです。教会とのキョリ感が、近すぎるような気がします。

 話はこの「教会とのキョリ感」に帰結すると思います。キリスト教についてもいろいろなことを広く知ることで、視野が広くなり、多角的に考えられるようになるでしょう。自分の教会だけ、とか、自分の牧師だけ、とか、そういう一極集中的な見方は、なんとも窮屈ではないでしょうか。

 というわけで次回に続きます。

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