聖書の「無誤無謬」について

2017年1月19日木曜日

聖書の読み方

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 聖書の「無誤無謬」について、クリスチャン界隈で時々議論になっているのを見る。

 聖書の無誤無謬説(誤りがない、正しい、という意味)を主張するのは、だいたい原理主義的な立場の人たちである。それに反対するのが、リベラルな立場の人たちである。多少乱暴な括りかもしれないけれど、私はそんな印象を持っている。

 私は原理主義的な教会で酷い目にあった過去があるので、心情的にはリベラル側を応援したい。ここ数年で考え方もだいぶリベラル寄りになってきた。が、極端に振れるというより、できるだけニュートラルな姿勢で物事を見極めたい、というのが正直なところだ。だから原理主義だからと、何でも噛み付くようなことはしたくない。

 で、聖書の無誤無謬について。私が不勉強なだけかもしれないけれど、聖書を「正しいか誤っているか」で議論するのが、実はイマイチしっくりきていない。
 何故しっくりこないかと言うと、まず第一に、聖書の物語性(文学性)が、「無誤無謬」という概念と噛み合っていない気がするからだ。

■「誤っているかどうか」でないはずの、聖書の文学的表現

 前回の記事「聖書の読み方のススメ」の中の「聖書の物語性に留意する」でも書いたけれど、聖書の記述が必ずしも正しくないのは当然だと思う。たとえば聖書中の人物があるストーリー展開の中で発言したことは、あくまでその人の私見であって、神の啓示とは限らない。それは聖書に書かれた文言ではあるけれど、あくまで一個人の意見であって、普遍的な真理とは限らない。
 たとえばダビデは、詩篇で神に対する愚痴みたいなものを感情的にダラダラと書いている。神はわたしから遠いとか、神は聞いてくれないとか、いつまでも答えてくれないとか、いろいろ。でもそれは、「神様がそういうお方だ」という話ではない。ダビデが苦しい胸中をそのように(文字通り詩的に)表現しているにすぎない。

 だからそれが「正しいか誤っているか」という点で論じられるのも変な話だと思う。厳密に言えば、「神様がどんなお方か」という観点では「誤っている」と言うべきかもしれない。しかしそもそも物語性とはそういうものなので、そういう表現もあって当然である。
 つまり聖書は物語文学でもあるのだから、上記のようなケースが存在するのは至極当然であって、それをいちいち誤ってるだ何だと論じること自体がナンセンスだと思う、という話。

 そういうことをちゃんと理解したうえで聖書を読むならば、「あーこれはこの人物の言葉だ」「これは大切な教理だ」と区別することができる気がする(もちろん、わからないこともあると思うけれど)。

 と考える私は単純すぎるのだろうか。

■現代と合わない、時代背景による記述

 聖書の無誤無謬を考えるうえでもう一つポイントになるのが、「時代や地域に応じた適応」という側面だと思う。

 たとえばだけれど、新訳聖書のパウロの主張をそのまますべて受け入れるべきだとしたら、女性は帽子を被っていなければならないし、教会では沈黙を守らなければならなくなる。また男女とも独身でいることが推奨される。
 あるいは当時のローマは奴隷社会だったけれど、それを前提としたパウロの記述も複数ある。それらを見る限り、奴隷制は肯定されている。
 つまり聖書には、現代の生活様式や習慣と同じには考えられない部分がある。

「聖書がすべて正しい」と主張するならば、上記のような男尊女卑を取り入れ、クリスチャンの婚活などせず、奴隷制反対みたいな人権擁護運動もできなくなる。でもそこまで字義通りに実行している人がいるだろうか。

 一般的な読解力があるならば、これらの記述が当時の時代背景に影響されたものであり、現代には当てはめられない、とわかるだろう。
 でも、だからと言ってこれらの(たとえばパウロの)勧めを「誤り」だとするのも私は違和感がある。繰り返すけれどそれは当時の時代背景の中で書かれたものであり、単に現代とは「合わなくなった」だけであって、べつに誤りでも何でもないからだ。

 話をわかりやすくするために別の例を挙げてみる。
 地域性の問題として、申命記22章8節に、「家の屋上には手すりを付けなければならない」という命令がある。(そもそもの話、律法の細かい規定は新約時代においては履行しなくていいのだけれど)この命令は当時のユダヤの建築物を基準にしている。すなわち平らな屋上があって、人が上がっていける造りになっているのだ。だから手すりがないと、ものすごく危ない。でも、たとえば北欧の雪国だと屋根が尖がっていて、屋上などない。平らな屋根だと雪が積もって危険だからだ。だからこの命令は、屋根が平らな作りの文化にしか適用されない。もし律法が今でも有効だと仮定しても、この命令は、どの地域でも有効になる訳ではない(だからと言ってそれが誤りとはならない)。

■編纂の問題:教典としての聖書

  聖書の無誤無謬を考えるうえで次に挙げたいのは、聖書の編纂についてだ。

 ご存知の通り、聖書はいろいろな書簡の集合体だけれど、プロテスタントやらカトリックやら正教会やらコプト教会やらで、その編纂が異なっている。だからそれぞれ「違う」聖書を使っている。もちろん中心的な教義は同じはずだけれど、簡単に言うと、ある教会で聖書に含まれている書簡が、べつのある教会では存在していない、みたいなことになっている。
 では、どれが正しくて、どれが間違っているのか?

 そのへんを議論しだしたら、多分果てしないことになるだろう。でもどれかが「正しく」て、どれかが「誤っている」としたら、「誤っている」とされた教会なり教派なりは存続の危機に陥ってしまう。なぜならそもそもの教典が「誤っている」という話になってしまうからだ。

 しかし(もしそうだと仮定して)、その責めを現代の我々が負うのも理不尽な話であろう。我々は教典として伝えられてきたものを素直に読んできただけなのだから。信仰歴〇十年となったところで「あ、その聖書、まちがってました!」とか言われたら、あなたならどうするだろうか。

  この問題で私が単純に考えるのは、こうだ。現在聖書が、どの教派のものであれ、今のような形に編纂されて伝えられてきているのは、神の介入によるものだ、ということ。
 もちろん、大勢のエライ人たちが長い時間をかけて研究し、話し合って最終的に決めた編纂なのであろう。だから不完全な人間たちによる、不完全な決定であるのは間違いない。しかしそこにも神の知恵というか、配慮というか、計画というか、とにかく神による介入があったと私は考える。
 もしそう考えないとしたら、教典であるはずの聖書が、教典としての力を失ってしまう気がする。それが間違って編纂されたものだとしたら、私たちの教義理解も教会生活も信仰生活も、全てどこか(部分的であっても)間違っているということになってしまうからだ。であるなら聖書はキリスト教信仰の基礎でなく、単なる自己啓発本とかハウツー本とかになってしまうと思う。

■とりあえず、まとめ

 さて、聖書の無誤無謬説の「しっくりこない部分」について書いてみた。
 結局のところ、私が無誤無謬説に賛成するかしないかと言うと、現在言われているような形の「無誤無謬説」には賛成しない。ということになる。

 しかし私が注目したいのは、もうちょっと根本的なことについてだ。すなわち今まで書いてきたように、無誤無謬説について考えるならば、まず最初に聖書の「誤り」とは何なのか? というところから考えなければならないと思う。そして聖書の物語性、時代性、そして地域性について考えるならば、単純に「絶対正しい」とか「絶対誤りだ」とか、そういうベクトルの話にはならない気がする。

 現在入手できる聖書には神の意思が介入しており、そこに教典としての絶対性がある、ということを認めたいと私は思う。繰り返すけれど、それを認めないならば、そもそも私たちの信仰とは何なのですか、という話になるからだ。

 もう少し書きたいけれど、なんか複雑になってきたので今回はここまで。

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