権威に服従させられた信仰と、その見分け方

2016年5月5日木曜日

信仰に見せかけた…

t f B! P L
 権威性についてのこんな社会実験があった。

  実験者は街角に立ち、道行く人にランダムに声をかけて、アンケートに答えてくれるようお願いする。この声の掛け方が2種類あって、

①〇〇大学△△学部の××研究室の者ですが・・・と前置きする(身分証などは提示しない)。
②簡単なアンケートに協力していただけませんか・・・といきなり本題に入る。

 両者で、アンケートの協力率が変わるか、変わらないか、という実験。ちなみに実験者は同じ人で、見た目などの印象は変わらない。

 答えはたぶん皆さんの想像通りだと思うけれど、①の方が高かった。考察として、身分を明示している点と、その身分にある程度の権威性が備わっている点が影響している、と分析された。まあそうだろうと思う。

 で何が言いたいかというと、人は権威に弱いということ。
 たとえば警察官が「ちょっといいですか」と声をかけてきた場合と、同じ人が非番で私服で「ちょっといいですか」と声をかけてきた場合とで、たぶん反応は全然違う。おそらく大多数の人が前者に対して「ハイ何でしょう」となり、後者に対して「何コイツ」となる。
 まあそうだろうと思う。自分もそうだ。 警察官の制服を着て、それらしく振る舞っている人に対して、警察手帳やバッジを見せろとはなかなか言えない。だから身分を確認するまでもなく、警察官だと信じてしまう。

 ちなみに身分の確認について、個人的にこんな体験がある。
 ある朝、住宅街をランニングしていた。すると住宅の壁に張り付いて、向かいのマンションを眺めているジーパンの男性を見かけた。最初はあまり気にしなかったけれど、走って戻ってきた時にも同じ格好でいて、さすがに怪しかった。下着泥棒かもと想像して、思い切って声をかけてみた。「何してるんですか」
 するとジーパン男はTシャツを少しめくって、ズボンに挟んであるバッジを見せた。私は瞬間、刑事だと思った。そしてこう考えた。

 刑事→張り込み中→邪魔しちゃいけない

  だから「ああすみません」と言って立ち去った。うまく言えないけれど、その表情といい姿勢といい、なんかリアルに刑事だと思ったのだ。職場で本物の刑事を度々見ているのも影響したと思う。刑事というと背広にネクタイという印象があるかもしれないけれど、私が知っている刑事たちはだいたいTシャツにジーパンだからだ(冬はそれにMA-1とか羽織っている)。

 なので一瞬見たバッジが本物かとか、そういうことは全く考えなかった。やはり人間は権威に弱いんだと思う。意識的にも無意識的にも。ちなみにその男性が本当に刑事で、本当に張り込み中だったかどうかはわからない。

 はじめに権威を示されると少なからず威圧され、その権威の正当性を確認することが躊躇される。そして結果、何も確認することなく、その権威に従ってしまう。ということがあると思う。それは人間の性質の一つであろう。しかしその権威が偽りだったとしたら、どういうことになってしまうだろうか?

■同じ内容の話でも

 身近な例で考えてみても、同じようなことが言える。
 たとえば、
「聖書のこの箇所には、実は〇〇という意味もあるのです」
 という話を、有名教会の有名牧師が言った場合と、SNSでどこの誰だかわからない人が言った場合とで、反応が全然変わることがある。前者に対して、
「そうなんですね! 今すごく霊の目が開かれました! ハレルヤ!」
 となる人が、後者に対して
「は? 何コイツ?」
 とかなる。怖いくらいに違う。
 違いはやはり、相手が知っている人であることと、それが権威を備えた人であるということだ。

 カルト問題で有名な村上密先生は、自身のブログでいろいろ発信している。その主張に反対する人もいるだろうけれど、だからと言って公然と先生を中傷することはまずない。しかし、先生と同じような内容の話を私がSNSで発信すると、「は? 何コイツ?」となったりする。たぶん私がどこの誰だがわからないから、何を言ってもいいと思っているのだろう。
 これでもし私が有名教会の有名牧師の隠しアカウントで、彼らの尊敬を集めている人物だとしたら、という「遠山の金さん」的な想像をしてみるのもまた面白いけれど。

 いずれにせよ、権威はそのものがバイアスであり、人の判断力に影響を与えている。

■キリストの場合は

 以上のことを踏まえて、イエス・キリストがどういう方法で福音をアプローチしてみたか考えてみると、興味深い。

 彼はユダヤの田舎町に生まれ、30年くらい一般的なユダヤ人の暮らしをして、一介の大工として働いていた。今でいうとその辺の製作所の現場労働者みたいなものかもしれない。 つまりこれといった権威のない、地位も高くない、金持ちでもない、中流の人。それが30歳を過ぎたあたりで急に「悔い改めなさい。神の御国が近づいたから」と言いだした。前述の話を踏まえれば、「何コイツ」という反応をもらってしまうような状態だ。

 つまり、何の権威ももたないで伝道を始めた。

 だから彼の勝負のポイントは「話の内容」だったはずだ。もちろん行った奇蹟の影響も大きかっただろう。けれどハッキリ言えるのは、権威を利用しなかったこと。それはたぶん、権威の弊害を避けるためだったんだと思う。

■権威に服従させられた信仰

 一方で、有名教会の有名牧師が、豪華な講壇に立ち、眩しいライトを浴び、多くの尊敬の目を受けながら「神は・・・」と語るのと、ただの現場労働者が「神は・・・」と語るのとでは、印象が全然違う。あるいは路傍伝道の場で、上等なスーツを着た牧師が優しい笑顔で「神様はあなたを愛してますよ」と声をかけるのと、汚い作業着の男がいきなり「悔い改めなさい」と話すのとでは、印象が全然違う。後者に反発する人はきっと多い。

 ここに権威の弊害がある。つまり「話の内容」の前に、「権威」をボーンと置くことになる。その権威越しに話を聞かせることになる。すると、聞きづらさや反発をある程度封じ込めて、従わせることができる。前述の社会実験や警察官の話と同じように。純粋に「話の内容」、つまり「福音」で勝負することにならない。あるいは「権威をたっぷり含んだ福音」を伝えることになる。そしてもしそういう方法で信じたとしたら、やはりその信仰には権威が少なからず含まれていることになる。「この権威者が言うことだから信じよう」みたいな。

  あるいはその傾向は信じた後、教会生活を送る中で、顕著になるかもしれない。
 たとえば「クリスチャンは奉仕をして当然だ」と牧師が言う。すでに信徒になっていて、牧師をリーダーと認めている人(つまり牧師を自分に対する権威者と認めている人)は、それに対して反対しづらい。むしろそうかと納得する。あるいはそういうものだと信じて、後輩や未信者に対して同じようなことを言うようになる。そして過重な奉仕や異常な忙しさが、「神への奉仕」とか「信仰熱心」とかになってしまう。

 でもそれは、自分で聖書を読んで納得したことと言うより、「牧師がそう言ったから」ということの方が大きい。権威ある人が言うんだからそうなんだろう、と安易に考えてしまっている。 つまり「聖書に書かれている事実」より、「人の言い伝え」の方を優先してしまっている。

 これは特定の個人や集団にだけ言いたいことではない。人間が普通に持っている感覚や性質の話であり、全ての人に少なからず起こり得ることだ。もちろん私自身にも。だから一歩引いたところで、冷静に、周囲や自分自身を見てみることが大切だと思う。そして自分自身にいろいろなフィルターがあることを少しでも意識して、可能な限り、そのものの本質を見ようとすることが重要だと思う。

 つまり話をする相手がどういう人かでなく、その話がどんな内容か、ってことに集中すること。それがブレないための効果的な方法。

QooQ