「洗脳の10の手口」のキリスト教会版(後篇)

2016年5月13日金曜日

カルト問題

t f B! P L
 前回に引き続き、「洗脳の10の手口」のキリスト教会版。
 今回は後篇(→前篇はこちらから)。

⑤告白強要による思考・行動操作

「あなたの信仰を告白しなさい」「宣言しなさい」と言う牧師がいる。
「口に出すことによって、その信仰は実現するのです」という聖書から来ているのか来ていないのかよくわからない理屈で、信徒に人前で「告白」するよう強要する。信徒は講壇に上らせられたり、大勢の前に立たせられたりして、私は○○になります」みたいなことを言わせられる。
 嬉々として「告白」する人もいれば、嫌々言う人とか、あるいは思ってもないことを言って皆の喜ぶ反応を楽しみたいだけの人とか、まあ信徒の方はいろいろだ。

 そういう「告白」自体が悪いという話ではないけれど、その程度によっては、問題にもなる。

 あくまで本人が信じていること、信じたいことを「告白」させるならいいかもしれない。けれど、牧師がある人をつかまえて、たとえば「あなたには実は賛美の賜物がある。シンガーとして献身しなさい」みたいなことを言うとする。その信徒は歌が苦手で、人前に立つのも嫌な人だ。シンガーなんてとんでもない。でもそこで、「告白して、この召しをあなた自身のものにしなさい。それが神の御心です。勇気を出しなさい」みたいに迫られる。まるで、神の求めに逆らう不従順な人、弱くて信仰に立てない人、みたいに扱われる。苦手なことをいきなり言われて戸惑っているだけなのに。でも周りの目もあるし、牧師に執拗に迫られるし、確かに自分が不従順で悪いのかもしれないとか思ってしまって、やむなく「私はシンガーになります」と「告白」してしまう。

 すると、次の日からさっそく、
「シンガーとして頑張ってね」
「祈ってます」
「賛美のチームに入りなさい」
 みたいに周りから言われて、どうにも逃げられなくなる。ああ無情。

④ラブシャワー

 これはもはや説明不要かと思うけど、新しく来た人を熱烈に歓迎し、皆で好意的に接し、あれやこれやとお世話し、手厚くケアすること(初めのうちだけ)。
 愛されて嬉しくない人はいない。これをやられた人は居心地が良くて、進んで教会に来るようになる。「居場所」を感じるからだ。承認欲求も満たされる。するとその教会の教理や聖書解釈ややり方が、無条件に正しくて思えてくる。そして教会のために一生懸命になる。

 そうやってガッチリ心を掴まれたところで、シャワーは止まる。あとは想像通りだけど、「クリスチャンは教会に全力で仕えるものですよ?」という話とともに、搾取が始まる。

③奇跡による操作

 現代も奇跡は起こるのか、現代も癒しは起こるのか、という論争がキリスト教界にあるけれど、ここでその論争をするつもりはない。あくまで「カルト化教会で使われている手口」としてこれを紹介すると、こんな感じ。

世界中で奇跡や癒しが起こっている。重病人がどんどん癒され、死人がボンボンよみがえっている。

しかし日本は霊的に「開かれていない」から、そういうことが起こりにくい。

日本で奇跡や癒しを見られるかどうかは、あなたの信仰生活にかかっている。

だから熱心に祈り、沢山捧げ、精一杯奉仕しなさい。

なに、それでも見られない? おまえの信仰が足りないんだ!

 という訳で更に祈り、更に捧げ、更に奉仕するようになる。回転車の中のハムスターみたいに決してゴールに達しないのに走らされる。
 でもそれだといつまでもは続かないから、時々、牧師がアメを与える。たとえばこんな感じ。

「この前、台湾の〇〇に奉仕に行ったら、××という奇跡を目の当たりにした。いやー素晴らしかった」
 すると信徒らは目を輝かせて、なんの証拠も提示されていないのに、ハレルヤ―とかアーメンとかなる。 それで「よしっ、自分も奇跡を見るぞ」みたいなことを言って更に頑張ってしまう。
 でもそれはそれでおかしい。それはいったい何の為の祈り? 神様の? 奇跡を見る為? 

②脅迫による離脱困難

 これもよくある手口。
「この教会を離れたら、神の罰が降るぞ。地獄に堕ちるぞ」みたいに信徒を脅して、離れられなくする。あるいはそこまで脅迫的でなく、たとえば聖書の「はかりなわ」の箇所なんかを引用して、「ここはあなたが植えられた教会だ。あなたのゆずりの地だ。離れるのは神の御心に反する」とか言って、結果的に離れられなくする。それでも信徒が離れたいと言うと、「それは教会批判だ。ただちに役員会を開いてお前の処遇を決める」とか、あからさまに脅してくる。そこまできたら信徒の方もおかしいと思うだろう。たいへん傷つくけれど。

①思考停止させる為の決まり文句

 すべての反論や議論をピシャッと止める「決まり文句」が、それぞれのカルトっぽい教会にあると思う。共通するのは、「それを言ったら一切の議論がやむ」という点。たとえば、

 「神が確かに〇〇と語られた。何度も確認したが、やはりそうだ」

 みたいなもの。この「霊的」で「奇跡を沢山経験している」牧師先生が言うんだからそうなんだ、というまったく根拠のない思考経路でそれが「神の御心」と断定され、それ以外は御心でない、とされる。そして教会全体がそこに向かって進むことになる。本当にそれ御心ですか? という議論はとっくの昔に終わっている。いや、実ははじめから議論などない。「牧師が言ったこと=神の御心」という図式が強固に条件付けされていて、誰もそこに触れることができないからだ。仮に触れたとしたら、②のような目に遭って教会を追われることになる。

 以上、カラパイアの記事を再構成して、キリスト教会向けに書いてみた。何かの参考になればこれ幸い。 

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