久しぶりに、記事の詰め合わせ。
■「素人」解禁ですが
熊本地震の被災地で、ボランティアの登録と派遣が始まった。多くの老若男女が集まっている様子が先日報道されていた。さて、
「素人は引っ込んでろ」
「今は祈りながら様子をみて、落ち着いてから何か考えるべきです」
と言っていた方々、出番ですが?
当然祈る「だけ」はもう終わりですよね?
今度は自分たちの活動の様子をアップしてくれますよね?
■「教会の病」紹介
村上密先生の最近のブログ記事「教会の病」はぜひ読んでほしい。短い記事だけれど、よくポイントを掴んでいる。
聖書でキリストが、当時のユダヤ教徒をこう評している。「神の言葉より、人の言い伝えに聞き従っている」
それで当時のユダヤ教徒の奴らはわかってない、神の言葉より人の言い伝えを優先するなんて愚かだ、と現代のクリスチャンらは思う。けれどそういう自分たちが、単なる「言い伝え」に目を奪われている可能性について考えていない。
たとえば「異言」について、聖書は何と言っているか? 初めは赤ちゃんみたいな喃語で、言っているうちに開発されていく、なんて書いてある? はじめは人の真似をすればいい、なんて書いてある? それこそ人の「言い伝え」なんだけど?
■あるハシゴクリスチャン
ある女性クリスチャンがいた。所属教会はあったと思うけど、毎週、方々の教会の礼拝や集会に顔を出していた。いわゆる「ハシゴクリスチャン」である。ある時私の教会に来て、「今日は、ここで思いっきり神様を賛美するよう、導かれました~」と意気揚々と最前列に座った。そして礼拝開始早々、彼女は「ハレルヤ~!」とか「アーメーン!」とか、叫んで踊っての大盛り上がり。さほど若くなかったと思うけど、髪を振り乱しの、汗を飛ばしの、スリッパを飛ばしの、ちょっと「目立つ」姿だった。もともと私の教会は賛美が「元気」な方だったけど、彼女のハイテンション振りが群を抜いていたのは言うまでもない。
という訳で「思いっきり神様を賛美した」彼女だったけど、それから数か月後、再び姿を現した。けれど今回は、打って変わってどんよりムード。まるで生気がなく、グッタリした様子で、最後列に座った。「神様に・・・神様に・・・取り扱われました!」という話し声がなんとなく聞こえてきた。そして礼拝が始まると、彼女は賛美の初めから終わりまで、ずっと泣きっぱなしである。後半の方で静かな曲になると、その嗚咽や鼻をすする音がよく聞こえてきた。みんな気になって仕方なかったと思うけど、たぶん誰も何も言わなかった。
さてそれからまた数か月後、再び彼女がやって来た。今回は特にハイテンションでもなくローテンションでもない。そして礼拝前、賛美奉仕者が集まっているところにツカツカとやってきた。「今日はこの礼拝の為、賛美奉仕の皆さんに按手して祈るよう、神様に導かれています。だから順番に祈ってあげます」そして有無を言わせず、片っ端から、頭に手を置いて祈り始めた。「異言」で。アラララララララ・・・とかいう大声で。さすがに聞きつけた牧師がやってきて、ちょっと揉めたのだけど、彼女の堂々としたこと。「こうするように導かれたのです。御心に反することはできません!」
まあここで話すのもアレだから・・・という訳で牧師室に連れて行かれて、その後どうなったかは知らない。
彼女がそれ以降来ることはなかった(当たり前か)。けれど大きな会場での集会とか、渋谷の超教派的な集まりとかで、彼女を見かけることがあった。 相変わらず、浮き沈みの激しい様子だった。けれどいつの頃からか、彼女を見なくなった。そして今に至っている。どこか地方や、あるいは海外にでも行ったのかもしれない(海外での「弟子訓練」の様子をよく自慢げに話していた)。知りたくもないけれど。
べつにハシゴが悪いとは思わない。むしろ見識が広がって良いとさえ思っている。けれど賛美は気分で捧げるものじゃない。「今日はどこそこで礼拝しなさい」と神様が指定するはずもない。自分が「按手」しないとその日の礼拝がどうにかなってしまう、ということもない。ちなみに無意味な単音は「異言」じゃありません(苦笑)。
という訳で、決して悪い人じゃないと思うけど、「痛い系クリスチャン」に見られるイロイロな間違い・勘違いの集大成みたいな人だったなあと、ふと思い出してみた。
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