クリスチャンでも許せないものは許せないですよね

2019年3月4日月曜日

教会生活あれこれ

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 教会で「許しなさい」と言われることがあると思いますが、どうしても許せないことってないですか。


 ちょっと喧嘩したとか、ちょっと嫌なことがあったとかなら、まだいいです。
 でもひどく傷つけられたり、犯罪まがいのことをされたりしたのに、


「クリスチャンは許さなければなりません」
「許さないと主を悲しませてしまいます」
「許さないとあなたも許されません」


 とか言われて、みんなの手前、無理やり許したことにして、笑顔をつくっていませんか。
 そして忘れよう、気にしないようにしようと必死になって、余計に苦しくなっていませんか。
 でも「許しの強要」は、それ自体が「暴力」です。
 あなたの精神の自由を奪い、束縛し、抑圧する暴力です。


「許さないと自分も許されない」とういキリスト教の教義とは別に、「許す/許さない/許せない」はあくまで個人のこと。他人がああしろこうしろと強制するものではありません。


 もちろん許して綺麗さっぱり忘れられるなら、それが一番でしょう。でもそれは時間のかかることです。一生かかるかもしれません。それをクリスチャンだから、教会のメンバーだから、ということで強制されるいわれはありません。


 私も20代のころ痴漢被害に遭ったことが数回あります(いずれも加害者は男性でしたが)。
 もう昔の話ですし、大した被害でなかったので、あまり思い出すこともありません。しかしすっかり許したかというと、微妙です。


 たとえばこれで「許していないからあなたは天国に行けない」と言われても、「じゃあ仕方がない」としか答えようがありません。それが事実なのですから。


 あるいは「形だけでも許せばいい」という意見があるかもしれません。でもそれは「信じるだけで天国に行けるなら信じた方が得じゃん」みたいな理由でクリスチャンになるのと同じで、功利主義的です。体裁だけ整えても、意味がないのではないでしょうか。


 であるなら、「許せないものは許せない」と正直に言った方が、まだ「許し」に近づける気がします。


 いずれにせよ、無理して許さなければならないなんてことはありません。自分の心に嘘をついたり、まわりに合わせたりして、本当はしたくないことをする必要はありません。 神様もそんなことは願っていないと私は思います。


 許さなきゃ許さなきゃと今までずっと苦しんできた方に、この記事が届きますように。

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