教会で「許しなさい」と言われることがあると思いますが、どうしても許せないことってないですか。
ちょっと喧嘩したとか、ちょっと嫌なことがあったとかなら、まだいいです。
でもひどく傷つけられたり、犯罪まがいのことをされたりしたのに、
「クリスチャンは許さなければなりません」
「許さないと主を悲しませてしまいます」
「許さないとあなたも許されません」
とか言われて、みんなの手前、無理やり許したことにして、笑顔をつくっていませんか。
そして忘れよう、気にしないようにしようと必死になって、余計に苦しくなっていませんか。
でも「許しの強要」は、それ自体が「暴力」です。
あなたの精神の自由を奪い、束縛し、抑圧する暴力です。
「許さないと自分も許されない」とういキリスト教の教義とは別に、「許す/許さない/許せない」はあくまで個人のこと。他人がああしろこうしろと強制するものではありません。
もちろん許して綺麗さっぱり忘れられるなら、それが一番でしょう。でもそれは時間のかかることです。一生かかるかもしれません。それをクリスチャンだから、教会のメンバーだから、ということで強制されるいわれはありません。
私も20代のころ痴漢被害に遭ったことが数回あります(いずれも加害者は男性でしたが)。
もう昔の話ですし、大した被害でなかったので、あまり思い出すこともありません。しかしすっかり許したかというと、微妙です。
たとえばこれで「許していないからあなたは天国に行けない」と言われても、「じゃあ仕方がない」としか答えようがありません。それが事実なのですから。
あるいは「形だけでも許せばいい」という意見があるかもしれません。でもそれは「信じるだけで天国に行けるなら信じた方が得じゃん」みたいな理由でクリスチャンになるのと同じで、功利主義的です。体裁だけ整えても、意味がないのではないでしょうか。
であるなら、「許せないものは許せない」と正直に言った方が、まだ「許し」に近づける気がします。
いずれにせよ、無理して許さなければならないなんてことはありません。自分の心に嘘をついたり、まわりに合わせたりして、本当はしたくないことをする必要はありません。
神様もそんなことは願っていないと私は思います。
許さなきゃ許さなきゃと今までずっと苦しんできた方に、この記事が届きますように。
先日、とある聖書研究会(とある無教会主義の聖書研究会)に参加した。AさんがBさんの発言にえらく絡むので、以前Bさんに「あなたは教条主義的だ」と言われたことを、まだ恨んでいるんでしょ」と言ったら「・・・・」と否定しなかった。
返信削除私はAさんのことを、論理が無茶苦茶な人だと思っている。Aさんが以前「日本の神道は日本誕生から始まっているが、聖書は世界の誕生から始まっている、だから聖書の方が素晴らしいし、キリスト教の方が神道より素晴らしい・・・」等と発言したので「古事記の序、最初似部分は世界の始まりについて記述していて、日本誕生から始まっていない、古事記を一度読んでみたら・・」と言うと、「そんな本読めるか、私はクリスチャンだ・・」と言っておられた。
こういう人は、人を許さない人だなあと思った次第です。
論理でなく、感情や経験が信仰になっている人がいますね。もともと論理がないので、話し合いにならないかと。
削除「許し」というのは、悪を放免することではありません。成された悪や被害を忘れることなど誰にもできないし、すべきでもありません。
返信削除そうではなく、許しは悪に対する別種の戦いなのです。許しは、人間に対する戦いではなく、人間に悪を行わせる「見えない力」に対する戦いなのです。
オウム真理教を絶滅させたところで、第二、第三のオウム真理教がでてくるでしょう。宗教テロリストを死刑にしたところで、また新しいテロリストが生まれてくるのを防ぎはしません。
悪や罪に対する勝利は、悪人や罪人の絶滅ではなく、悪や罪を行わせる「見えない力」、貧困や偏った社会システムとその文化、また幼小期や少年期に受けた虐待やいじめによる虚無や、他の様々な力に対する勝利なのです。その勝利は、悪や罪を犯した人からの「私は間違ったことをした…」という心からの告白をもって果たされる。
その戦いは、たえまのない対話と議論と調査を必要とします。悪人が憎いでしょう。罪人が憎いでしょう。しかし、対話や理解の努力を拒んで死刑にほうりこんでしまえば、気分はスカッとしますが、悪や罪を行わせた見えない力は無傷のまま隠蔽されてしまう。
イエスは「許せ」と言いましたが、イスラエルの罪に対して死にいたるまで対峙し続けました。もし、イエスがイスラエルの罪や人間の罪を許さなかったなら、「もう、お前たちなんか知らない! 勝手に滅びてしまえ!」と言って弟子たちと一緒に遠くに離れて暮らしたでしょうし、十字架にかけられることもなかったでしょう。しかし、イエスはイスラエルと人間の罪に対して死にいたるまで対峙し、関わり、対話を続けました。それが、イエスの「許し」だったのです。
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。 …わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」エゼキエル書18・21‐32
いつも深いコメントをありがとうございます。
削除たしかに「許し」は根本的な「悪」に立ち向かう力なのだと思います。実際には難しいことですが、だからこそ、対峠し続けることが努力が必要なのでしょうね。