マザーテレサの列聖をめぐるアレコレ

2016年9月16日金曜日

キリスト教系時事 雑記

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■マザーテレサの列聖

 微妙に旬を過ぎた話題だけど、去る9月4日、マザーテレサがカトリック教会により「列聖」された。

「神の愛の宣教者会」の創立者である彼女は、カルカッタでの貧しい人々のための救済活動で有名である。1979年にノーベル平和賞を受賞し、1997年に87歳で亡くなった。6年後の2003年、カトリック教会から「福者」に認定された。そして2016年、今度は「聖人」認定され、「列聖」されるに至った。

 彼女の「列聖」には一部で批判の声が上がった。どんな批判かと言うと、私がみたところ大別して2種類あった。

批判①
「彼女は皆がイメージするような善人でなく、心に深い闇を抱えていた。彼女のイメージは、教会が意図的に作り出したものに過ぎない。カトリック教会の自作自演だ」

批判②
「立派なことをした人かもしれないけれど、私たちと同じ人間を『聖人』と認めるなんておかしい。偶像崇拝や個人崇拝に繋がって危険だ。信仰の対象は神のみのはず」

 ①は一般の人々、とくに宗教を奉じていない人々にもみられる意見であろう。一方②は、おもにプロテスタントのクリスチャンが持ちやすい意見だと思う。
 さて、これらの批判は妥当なのだろうか。

■カトリックにおける「聖人」

 この場合、カトリック教会が行う「列聖」の意味をちゃんと知っておかないといけない。知らないでいろいろ言うのは、批判でなく単なる中傷になってしまう。

 とくに②の批判には、多分に誤解が入っていると思う。
 これに関しては私もツィートしたけれど、カトリックの「聖人」とは、神のごとく神聖視される存在ではない。完璧とか完全とかを意味するものでもない。また信仰の対象でもない。祈りと信仰の対象となる「守護聖人」みたいな考え方は、今でも一部の地域で習慣的に続いているかもしれないけれど、少なくとも現在はカトリックの教義ではない。
「列聖」とは、存命中に大きな功績を残した信仰の先輩である故人に、尊敬すべき存在として「聖人」という称号をつけ、信者のみんなでこれからも敬っていこう、という「取り決め」みたいなものだ。
 だから「聖人」ということでマザーテレサが神の位かそれに近いところに昇格させられたとか、弱い者のために戦うクリスチャンの「守り神」にされたとか、そういうことではない。単に、「こういう信仰の先輩がいたんですよ」と代々語り伝えていくための、(教会内の)手続きに過ぎない。と私は理解している。

 もっとも、「聖人」という言葉に過剰に反応して、いろいろ邪推してしまう傾向はあるのかもしれない。確かにカトリックの専門用語は、ちょっと仰々しいところがある気がする。たとえばプロテスタントで言う聖餐式は「聖体拝領」と言うし、洗礼とかの諸々の儀式は「秘蹟」と言う。べつに難しいことを言っているのではないけれど、なんとなく難しく聞こえる。知らない人には誤解を与えるかもしれない。とは思う。

 しかし用語の難解さはさておき、そういう事情を知らないで②のように言うのは、見当違いと言わざるを得ない。知らない土俵に乗っかって、ルールも知らないのに勝負を仕掛けるようなものではないだろうか。つまりカトリックにはカトリックの文化や習慣や考え方がある、ということ。プロテスタントにもあるように。そのへんを配慮しても、罰は当たらないと思う。

■列聖と関係ある?

①の批判については、真偽のほどは知らない。決定的な証拠を見たこともない。けれどその批判が真実であれ虚構であれ、今回の「列聖」とは直接関係ないように思う。何故なら前述のように、「列聖」とはカトリック教会内の手続きに過ぎないからだ(もっともカトリック信者は世界中に何億といるから「一組織内の話」といっても世界規模の話になってしまうのだけれど)。
 つまりマザーテレサが「聖人」であるのは、カトリック内でだけだ。べつに世界人類に対して「聖人」として認めろと言っているのではない。押し付けているのでもない。カトリック教会の偉い人たちが組織内のいろいろな事情を鑑みつつ決定したことであって、べつに神の「語りかけ」とか「導き」とかでもないはずだ。

 だからそもそもの話、マザーテレサ列聖について、カトリック信者があれこれ言うならわかるけれど、そうでない外野がとやかく言うのはお門違いではないかと思う。べつにカトリック教会を庇うつもりはないんだけど、それはたとえて言えば、よその会社の人事にあれこれ口を出すようなもんじゃないだろうか。

 もし仮にマザーテレサが存命で、現在進行形で貧しい人々を虐げ、病人に薬を与えず、適切な看護をしないで私財を貯め込んでいるとして、それが明るみになったとしたら、当然ながら批判は避けられない。聖人認定もないだろう。けれど、彼女はすでに故人だし、彼女自身が列聖を望んだわけでもない。望んだのはカトリック教会だ。だからこの際になって(列聖が決まったからといって)彼女のことをあれこれ言っても、何の意味もないのではないかと私は思う。

 それでも彼女の「心の闇」について調べたり論じたりしたいなら、列聖と関係なくできるはずだ。列聖前に盛り上がるだけでなく、列聖が終わった今でも続けることができるはずだ。列聖が終わってその話題から関心が失せるとしたら、その動機はそもそも何だったのか。と疑問に思う。

■イメージと実像
 あるいは第3の批判として、こういうのがあるかもしれない。

批判③
「それはイメージの問題なのです。彼女が列聖されたら、偉大な修道女として、善人として、歴史に名を残すことになってしまいます。本当の彼女は、全然そんな人ではなかったのに」

 それは可能性の話としてならあり得る。マザーテレサが実は極悪人で、教会が長きに渡って彼女を庇い、「善人のイメージ」を維持させていただけなのかもしれない。その可能性はまったくゼロではないかもしれない。しかしそういう可能性を言い出したら、何とでも言えるので、キリがない。そして確かな証拠があるなら、そういうイメージや可能性の話にはならないし、そもそも列聖されなかっただろう。ノーベル平和賞もなかったはずだ。

 ただ「イメージと実像」という部分で書かせてもらうなら、マザーテレサだけでなく、誰しも光に照らされた部分と、陰に隠れた部分とがあるのではないだろうか。まったくない人もいるかもしれないけれど、そういう人は多くはないだろう。特に聖職者で、大きな活動をする人なんかは、遅かれ早かれそういうギャップを抱えることになるかもしれない。そして活動の中で作られていく「イメージ」と、実際の自分自身とが、掛け離れていくこともあるかもしれない。

 プロテスタントで「不良牧師」を自称する人がいて、ハーレーを乗り回してあちこちに出没しているけれど、私はあるキリスト教書店で、たまたま本人に遭遇したことがある。彼は講壇では胸を張って「ジーザス最高!」とか言ってるけれど、書店では担当者にひいこらして「僕の本、宣伝して下さいねっ」とまるで怪しげな営業マンみたいだった。まあそういう例を挙げたらキリがないんだけど。

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