宗教被害者の苦難の道のり

2023年6月12日月曜日

宗教被害

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 宗教被害の話になると「そんな酷い教会さっさと辞めればいいのに」とか「信じるも信じないも自由なんだから離れればいいのに」とかたまに言われる。そういう人たちは「辞めたら天国に行けない」とか「教会批判は罪だ」とかずっと教えられ続け、信じ切っている人間の心理が分かっていないと思う。宗教の場で被害に遭っている人たちは全然「自由」ではないのだ。「辞める」とか「離れる」とか、発想自体できないようにされている。

 さらに「宗教2世」は教会だけでなく、親からも宗教的な圧力を掛けられることが多い。だから本来逃げ場であるはずの家庭が避難所にならない。彼らが宗教から脱するには、文字通り家出をして、親を捨てる覚悟が要る。そんな過酷な状況に対して「さっさと離れればいいのに」などと言えるだろうか(それに未成年が家を出るのは事実上不可能だ)。


 宗教被害の難しい点は、それが被害であると認識しづらいところだ。周囲の人間だけでなく、本人さえもそれが被害だと思っていないことが多い。むしろ信仰に必要な「訓練」だとか、神からの「試練」だとか思わせられている。通らなければならない「苦しみ」に耐えている、という認識なのだ。


 その意味では、第三者には「自ら選んで信仰している」と映るかもしれない。それゆえ宗教被害は証明されにくい。どこまでも被害者に不利に働き、加害者に有利に働くのだ。そこをどうにかして離れることができた被害者が次に何に遭遇するか、分かるだろうか。外部の人たちの、終わらない無理解だ。


 被害者が被害を訴えると、「いつまで被害者ヅラしてるんだ」とか「宗教アンチ」とか「許さないとあなたも解放されない」とか、似たようなことを第三者から延々と言われたり、説教されたり、責められたりする。完璧な二次被害だ。だったら黙っていた方がいい、と考える被害者が多くなるのは当然だ。結果、被害の声が少なくなり、余計に証明が難しくなる(かと言って、被害者に頑張って声を上げてくれ、とは言えない。むしろ無理しないで心を休めてほしいと思う)。

 宗教被害は閉鎖的な組織内、ドアを閉めた牧師室の中、家庭内などの閉鎖的空間で起こるのが多数だ。だから被害に至るプロセスが第三者に見えないし、分かりづらい。被害者はその状況を一生懸命説明して、証明しなければならなくなる。その過程で従属的な立場に置かれる。第三者がそれを「上から」ジャッジする形になる。詳しく知らない人たちが、詳しく知っている人たちの話をジャッジするのだ。なんて不公平で、無慈悲な構造なのだろうか。被害者は宗教を離れた後も苦しまなければならないのだろうか。これはなんの地獄なのだろうか。そう思ってしまう。

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