クリスチャンになったら祈りが聞かれ、神の御心が分かり、何をしても祝福され、全て益にされ、奇跡や癒しが起こり、毎日が童話のハッピーエンドみたいな展開(「幸せに暮らしましたとさ」)になるのなら、みんなとっくにクリスチャンになっているでしょう。そして地上が「天国」のようになっているはずです。
あるいは信仰生活を送る中で徐々に人間が「変えられ」、「霊的に」成長し、「神との関係」が強くなり、様々な問題が解決されて人生が良くなっていくのなら、信仰歴何十年のベテラン勢はみんな聖人のようになり、地面から10センチくらい浮いたところで、何一つ問題ない神々しい生活を送っているはずでしょう。
かくいうわたしも信仰歴だけは長いです。光り輝くクリスチャンになっていてもおかしくありません。しかし未だにいろいろ失敗しますし、間違えますし、惨めな気持ちになったり苦しくなったりします。なぜでしょうか。
実際には、クリスチャンになっても人は何も変わらないからです。
もちろん聖書の価値観に触れ、教会で同じ価値観の人たちと過ごすことで、考え方や行動が徐々に変わっていくことはあるでしょう(不可逆的な変化でなく習慣的なものとして)。けれど全く別次元の何か、「霊的レベル」の異なる何か、神の特別な庇護によって守られたアンタッチャブルな何か、に変貌することはありません。そういう超自然的なことを期待すべきでありません(そういう話をする教会は一部にありますが、最終的に失望させられることになります)。
その意味で聖職者を信用しすぎると、思わぬ被害に遭うことがあります。何でも批判的に考えてみることをお勧めします。
むしろ信仰生活は(少なくとも日本においては)、地味なものです。今のところ遠藤周作の『沈黙』のようにクリスチャンが激しく迫害されたり拷問されたりすることはありませんが、なんとなく肩身の狭い思いはさせられます。一般の職場で働く人であれば、そこではっきり「クリスチャンです」と言いづらく感じたことがあるのではないでしょうか。
むしろ日本でクリスチャンとして生きることは、自らマイノリティの立場に立つことです。キラキラした生活は送りにくいでしょう(キラキラした信仰者がいないわけではありません)。幸せになれないとは言いませんが、クリスチャンだから幸せになれる、ということではありません(そもそも何が「幸せ」かは人それぞれでしょうけれど)。
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クリスチャン=幸せではない |
そのマイノリティの立場で色々苦労することを「神の民としての特権」と位置付けて、冒頭のように「祈りは聞かれる」「何をしても祝福される」とポジティブにとらえようとするのは、逆説的にクリスチャンとしての生きづらさを表しているようにも見えます。
それが行き過ぎると、本当は苦しいのに「クリスチャンになってこんなに祝福されました」と外面を綺麗に飾る(飾らざるを得ない)ようになり、マルチ商法と同じ構造に陥ってしまいます。それは自分自身を欺くだけでなく、周囲の人たちをも欺くことです。
「クリスチャンであること」と「幸せであること」は、別に考えた方がいいでしょう。むしろ「キリストと共に苦しむ」という聖書の言葉の通り、あえて苦難に身を投じることでさえあるかもしれません。