負の感情をひたすら覆い隠して、無理にでも喜んだり感謝したりするのが「信仰」や「クリスチャンらしさ」だと言われて育った人も多いと思う。でも結局取り繕ってるだけの(言葉が悪いけど)偽物で、それに対するカウンターがネット世代や若い世代に起こっているのではないだろうか。
ある時、明らかに不幸な目に現在進行形で遭っているクリスチャンが、教会の皆の前で「証」をした。その内容は「神様にいつも感謝です」とか「こんな私も神様に愛され、祝福されているので嬉しいです」とかのポジティブワードで満ちていた。詳しいことは何も語らずに。その人の葛藤を知るわたしは、なんて空虚な言葉の羅列だろうと思った。
なぜそこまで耐えて、綺麗な言葉を無理やり吐かなければならないのだろう。なぜ正直な葛藤を口にしてはいけないのだろう。雰囲気が悪くなるから? 不信仰に思われるから?
そうやって見映えを取り繕うだけの律法学者たちを、パウロが「白く塗った壁」と評したことをリマインドしたい。あなたは空虚な「白い壁」になっていないだろうか。
ネットやSNSの恩恵の一つは、「自分だけじゃなかった」という発見だと思う。誰にも言えずに1人で抱えてきた葛藤が、実は自分だけのものではなかった、という発見だ。そこに共感や連帯感を得て救われた人も少なくないはず。
そしてそれはキリスト教信仰に限った話でなく、様々な分野やレベルの「自分だけじゃなかった」「1人じゃなかった」があると思う。あなたは1人ではない。もう「白い壁」など演じなくていい。