前回、グノーシス主義についてサラッと触れましたが、今回はこれについて書きましょう。
皆さんはグノーシス主義をご存知でしょうか。
なかなかややこしい思想のようですが、特徴は次のような感じです(私が理解したのがこんな感じ、という意味です)。
ザ・グノーシス主義
→世界(物質)を創造したのは悪魔である(だから悪がはびこっている)。
→人間は肉体に閉じ込められていて、そこからの解放こそが救いである。
→肉体は悪いもので、魂(霊)は純粋なものである(二元論)。
→神秘的知識の獲得によって「神」に近づき、「覚醒」する(内的体験)。
→凡人には知り得ない特別な知識を持っている(エリート主義)。
「ユダの福音書」なる聖書外典がありますが、グノーシス主義の書物と言われています。
この「福音書」によると、キリストの真意を一番理解していたのは、なんとイスカリオテのユダだったと。彼はキリスト自身の密かな指示に従って、やむを得ずキリストを裏切った、ということになっています。つまりユダだけが神秘的知識を得て、誰よりも「覚醒」していた、という話ですね。
他に「マグダラのマリアの福音書」なるものもあり、やはりグノーシス主義の書物とされています(欠損があり、その全容は不明のようです)。これによると、キリストの復活後、マグダラのマリアは女性使徒としてリーダー的立場に就いたそうです。また彼女はキリストに最も愛された女性だった、とされています(ここから、キリスト結婚説とか子孫説とかが出てきます)。
このグノーシス主義は、早くから「異端」と考えられてきました。イスカリオテのユダがヒーロー扱いですから、それも仕方ないとは思いますが。
しかしグノーシス主義は過去の遺物でなく、またどこか「外部」にあるのでもありません。現在も私たちの身近で、口を開けています。
アニメに見られるグノーシス主義
近年の日本のアニメには、グノーシス主義的傾向がしばしば見られるようです。
古くは『風の谷のナウシカ』
オームと深い繋がりを持った主人公ナウシカは、オームたちの暴走を止める唯一の手段として、自らの命を犠牲として捧げます。それは彼女だけが知り得た「神秘的知識」だった、と見ることができます。
また『新世紀エヴァンゲリオン』
厳しい戦いの連続で疲弊しきった主人公シンジは、不思議な精神世界に平安を見出します。これは物質世界=悪、精神世界=善、と見ることもできるでしょう。きわめてグノーシス主義的な展開と言えます。
他にもあるかと思いますが、すみません、あまり詳しくないのでこのへんで(笑)。
いずれにせよ不況が続くなど、希望を持ちづらい社会情勢においてグノーシス主義がよく顔を出すようです。外は悪い世界だけれど、自分の中にだけは神と繋がった神聖な領域がある、みたいな感じで。
やっていることはグノーシス主義?
というグノーシス主義は、現代の一般的なクリスチャンには関係ないのでしょうか。
いえ、私は大いに関係あると思います。
と言うのは、「神秘的知識による覚醒」や「特別な知識を得ているというエリート意識」などは、一部のクリスチャンの方々にも見られるからです。
彼らの表現で言えばそれらは「霊的覚醒」「新生体験」「真理の回復」「特別な啓示」などとなりますが、実態はグノーシス主義的です。さすがに「イスカリオテのユダはヒーローだった」とまでは言いませんが、それに近い奇抜なアイディアを好みます。たとえば「悪魔は水の流れを好む」とか、「日本は5人の巨人に縛られている」とかですね。それらの根拠が何かと言うと、「主からの特別な啓示」ということになります。自分だけは特別な知識を得ているという、まさにグノーシス主義。
だからグノーシス主義が「異端」であるなら、そう言う彼らも「異端」ということになります。でも彼らはそんなこと認めません。むしろ自分たちこそ正しいと主張します。そして他の教派を「目覚めていない」と評します。
でもその言い方こそ、グノーシス主義なんですけどね。
というわけでグノーシス主義は身近なところに隠れています。
私たちは文字通りのグノーシス主義でなくても、「グノーシス主義的な何か」に陥る恐れはあるんじゃないかな、と私は思います。
新約聖書が成立するまでに、いろいろな福音書がつくられたのは事実です。ユダによる福音書、マグダラのマリア福音書、などなどです。ユダに関しても、イエスが裏切りを分かっていた上で、黙認した、または裏切らせた、裏切りではなくてイエスの指示で行った、などなどあれこれ考えられますね。
返信削除イエスほどの人(神の子が)が、ユダの行動、考えが分からなかったはずがないわけですね。イエスがユダを指示して訴えさせたというのは、合理的な考えですね。
マグダラのマリアに関しても、イエスを看取ったのも、イエスの復活に立ち会ったのも、マグダラのマリアとなっているところをみると、イエスの妻だったと考えても不思議はないでしょう。
イエスの死後、教団のリーダーだったと考えてもおかしくないでしょう。そういう言い伝えがあったとしても不思議はないでしょう。
公式見解でない考え方も理解することが大切でしょう。
グノーシス主義に関しても、否定的な見方もあれば、肯定的な見方もあるわけで、2元論的な見方はごく普通の考え方ですよ。善と悪があるという考え方と、悪は善の欠如だという考え方と、どちらが分かりやすいかといえば、善悪2元論でしょうね。
グノーシス主義はどちらかと言うと「考え方」かなと私は思います。
削除自分こそ真理を知らされている、自分の中にこそ聖なる神の臨在がある、みたいな思い込みですね。そしてそれらはそのまま、今日の聖霊派クリスチャンの多くが抱えている問題でもあります。
だから「グノーシス主義」という存在はどこか外部にあるのでなく、実は私たちの中にあるのだ、という今回の記事の主張になっているわけです。
スマイルです。
返信削除「グノーシス主義」という存在はどこか外部にあるのでなく、実は私たちの中にあるのだ、というご主張。もっともなことですね。
信仰はすばらしい半面、思い込みや過信や自己他者絶対かを生みやすい。そして○○先生、△▽師がすばらしい、ということになり、そこには自分というものはないか、逆に自分こそ真理を知らされているという思い込みになる。
だから自分の中のグノーシス主義に警鐘を絶えず鳴らしておく必要があるのではないでしょうか。
人はもともと自分を正当化しようとしますから、それが高じると「自分の教派こそ正しい」「自分が感じることこそ正しい」「自分が示されたことこそ正しい」と強く思い込むことになってしまいます。そうすると排他的、厭世的にもなりますが、それがそのままグノーシス主義ではないかと私は考えていますね。
削除グノーシス主義的な何かにおちいる危険性ですか。
返信削除おそらく、私(たち)だけが特別な知識を持っているという優越感みたいなものへの警告と思って読みました。
私は福祉職ですが、この職業にかぎらず看護職もそうだと思いますが、特にヒューマンサービス業の人はグサリとくる記事ですね。
この手の仕事は、自分は有資格者だからとエラソーにしていては、相手は信頼してくれません。
かといって何の勉強もしないで務まる仕事でもありません。
むしろ、いろんな認定資格が用意されている分、肩書きで判断されてしまう業種でもあります。
そういう肩書き社会でありながら、実際の勉強も必要で、でも現場では利用者に対等な関係を築いて、寄り添うことが求められる、そういう職種です。
なんというか、せっかく勉強して資格をとったけど、だからといって、私(たち)だけが特別な知識を持っているとか、私(たち)の方が優れていると思い込んで仕事すると、絶対うまくいきません。
反対に、相手に寄り添うこと。
自分には専門知識があり、資格もあるけど、それらはいったん横に置いて、相手と対等な関係を築くこと。
これがうまくいくコツなんですよね。
今回はうまくまとまりませんでしたが、強いていうならイエス•キリストはどんな人に対しても寄り添ったんですよね。たぶん。