家族もろとも殉教した牧師の場合
うろ覚えで申し訳ないですが、こんな話を聞いたことがあります。
その昔、キリスト教が激しく迫害された国がありました。クリスチャンは見つかると収監され、拷問されてしまいます。だから彼らは地下で細々と礼拝活動を行なっていました。
しかしある時、牧師の一家が捕らえられてしまいます。牧師ですから一般信徒に比べて厳しい罰を受けます。結果、家族もろとも生き埋めが決まりました。
しかしまだ希望はありました。棄教して、二度と戻らないと誓約すれば、命だけは助けてもらえるとのことです。しかし牧師は「主を否定するくらいなら死を選ぶ」と言います。そして最後までその意志を曲げなかったので、結局、一家もろとも生き埋めにされてしまいました。2人の子供はまだ幼かったのですが。
その刑の最中、徐々に土を掛けられながら、穴の底で、牧師たちは賛美歌を歌っていたそうです。そして完全に埋められるまで、その歌声は続きました。土を掛けた下手人たちは、その殉教の姿を目にして、後にクリスチャンになったとか。
この話を聞いてものすごく感動した人が少なくなかったようです。皆さんはいかがでしょうか。幼い子供までが神様のために死を選ぶなんて、なんて素晴らしいんだ・・・と涙を流されるでしょうか。
その感動に水を差して申し訳ありませんが、これは殺人ではないかな、と私は思いました。
と言っても、下手人たちが牧師一家を生き埋めにした、という意味の殺人ではありません。
生き残るチャンスがあったのにそれを選ばず、助けられたはずの家族をもみすみす死なせた、という意味で、この牧師自身が殺人者なのではないか、という意味です。
ご存知の通り、キリスト教では自殺はタブーとされています。だから生か死か選べるなら、生を選ばなければなりません。その点で牧師は(キリスト教的には)有罪ではないでしょうか。特に子供は、まだ判断力が十分でありませんから、軽々しく死を選ばせるべきでありません。
一方で律法には、神を否定してはならないという意味の命令もあります。その点で、この牧師は死んでまで神を否定しなかったので、褒められるのかもしれません。
そういうジレンマを含んだ話です。どっちを選んでも問題アリという。
でも総合的に、また実際的にみて、やはり死を選ぶべきでなかったと私は考えます。死ぬくらいなら棄教すべきです。幼い子供の命が掛かっているなら、なおのこと。
だいいち棄教と言っても、表立った宗教行為はするなというだけの意味です。本当に信仰心を捨てたかどうかなんて、確認できないのですから。心の中で信仰を保っていれば、それでいいのではないでしょうか。少なくとも神を否定したことにはなりません。もちろん表立って礼拝できないのは不本意でしょう。でもそういう国に住んでいるのだから、それはそれで仕方ありません。
この話を聞いて感動してしまう人は、「神への忠誠」を重視するあまり、人権や生存権といった基本的なものが、見えなくなっているのだと私は思います。
信者のために棄教したロドリゴさんの場合
同じような話を、遠藤周作の『沈黙』に見ることができます。
主人公のロドリゴさんは、棄教した師を探して日本に来たのですが、最終的に当局に捕えられてしまいます。そして選択を迫られます。自分が棄教して他の信者たちを救うか、あるいは棄教しないで信者たちが処刑されるのを見るか、と。
ロドリゴさんは苦しみますが、結局棄教を選びます。そして信者たちを救うのでした。
彼はその後も日本に住み、定期的に棄教の誓約を更新させられます。そして年老いて、死を迎えます。彼の後半生は、完全にキリスト教と無関係なものでした。しかし棺に納められた彼の遺体の手の中には、小さなロザリオが。
彼は生涯口には出さなかったけれど、内に信仰を保ち続け、決して神を否定しなかった、というメッセージですね。
というわけで、ロドリゴさんは前述の牧師と正反対の選択をしたのでした。
ちょっと解説すると、これはキリスト教の教義が抱えるジレンマを物語的に示したものです。
つまりクリスチャンは神を第一としなければならないけれど、同時に隣人愛も実行しなければなりません。その両者がぶつかったらどうするんですか、というジレンマです。
でも常識的に考えて、自己の信仰を表明するために、他者の命を犠牲にすべきでありません。人の命に比べたら、信仰の表明などただの自己満足みたいなものですから。
その意味でロドリゴさんはまっとうな選択をしたと言えます。
一方で冒頭の牧師はどうだったのでしょう。自分の信仰の表明のために、(自分を含む)家族を殺してしまったのではないでしょうか。
家族を死なせてまで守りたかったのは、いったい何だったのでしょう。神への忠誠でしょうか。よく洗礼式なんかで「死に至るまで主に忠実であれ」と言いますが、アレを体現したのでしょうか。でも自分はそれで良くても、他者の命まで取っていいのですか。
また神様ご自身は何を願うでしょうか。命が生きることではありませんか。
キリストが十字架に掛かったのは、他者への愛のためだったはずです。そのために、父なる神との関係が(一時的であれ)断絶されるのを、良しとされたのです。つまり他者の命の方が、自分の信仰心より大切だったということです。
だから冒頭の牧師の話で感動してしまうというのは、人の命より信仰の方が大切になってしまっているのです。良いのでしょうか? 良くありません。
心当たりのある方は、もう一度考え直してみた方がいいと思いますね。
マルティン・ルターが「キリスト者の自由」という小冊子の中で、「キリスト者は、神以外のいかなるものにも服従しない。しかし、キリスト者は愛によって全ての人の僕となる」と述べています。
返信削除ルターはパウロの「わたしは全てのことに自由であるが、みずからすすんで何人の僕となった」という言葉を引用していますが、これは「心と思い生命を尽くして神を愛せよ」「隣人を自分自身のように愛せよ」という律法の要約を言い換えたものでしょう。
神の意志が、「他者への愛」にあるならば、神のみに仕えるという「キリスト者の自由」は、他者への自発的な愛による奉仕となるでしょう。
イエスは「私が好むのは、憐れみであって生贄ではない」マタイ9・13と、ホセア書6・6の言葉を引用しています。
神は、他者を生かすための犠牲をキリストにおいて示しました。しかし、誰も生かさない自己満足の生贄を神は喜ばれるのでしょうか?
パウロでさえ、「自分としては殉教してキリストのもとへ行きたいけれど、牧している信徒のために生きて働いたほうが、神の意志に叶うと思う」と言っているではありませんか。これはパウロの弱さによる言い訳なのでしょうか? それとも、自分の殉教ヒロイズムに信徒を巻き込まないための愛なのでしょうか?
キリスト教には「受肉」という教理がありますね。「キリストは神だったけれども、人間のために神であることを捨てて、この世に降った」という教えですね。ピリピ2・6~が典拠になっていると思います。
この聖書の教理から、こう問うことができるでしょう。「キリストは、人間のために神であることを捨てた。キリストに従おうとするあなたは、他者への愛のためにクリスチャンであることを捨てられるか?」と。
キリストは、人間への愛のために神であることを捨てた。神は、人間への愛のために自身の「ひとり子」を十字架へと捨てた。クリスチャンは、他者への愛のためにクリスチャンとしての信仰、誇り、伝統、天国を捨てられるか?
捨てるときに、逆説的に「神的」となる。これが、新約聖書で語られるところの「死して生きる」の意味ではないでしょうか?
小説「沈黙」での、イエスの「踏むがいい」という言葉は「他者のために自分を捨てる」というイエスそのものでありました。ロドリゴは、他者のために、自分の最も大切なものを捨てて、差し出されたイエスを踏んだのでした。
ありがとうございます。
削除まさに私が言いたかったことを端的に文章にして下さいました。
「キリストは人間への愛のために神であることを捨てた。ではクリスチャンは他者への愛のためにクリスチャンであることを捨てられるか」というのは、全教会の全クリスチャンに尋ねてみたい質問ですね。
「他者のために自分を捨てる=クリスチャンをすてるではないですね
削除言い方の問題ですね。くだらないご指摘ありがとうございます。
削除キリスト教とはちょっとズレるかもだけど、「マサダ要塞」の話を思い出しました。
返信削除アレを初めて聞いた時は衝撃だったな。
ローマ人やら異教徒やらとどうしても仲良く出来なかったんだね…と悲しくなった自分は、ユダヤ人的にはバカもんなのでしょうか。
中学生くらいの頃、教会で「日本がもし万が一、また戦時中の時代の様になったら、その時は(神社や天皇を拝まず)殉教だ!」とか言う人がいて、いや~怖いな私は逃げようと思ってたな。
マサダ要塞の集団自決は壮絶なお話ですね。自死というタブーを犯さないためとはいえ、仲間どうしクジ引きで順番に殺していったそうですが、どういう精神状態だったのでしょう。考えるだけでも恐ろしいです。
削除ところで天皇を拝まず殉教だ! なんて言う人がいるんですね。たしかに昭和天皇が亡くなったとき、後追い自殺をしてしまった高齢者が複数いたそうですが。武士道的なメンタリティが関係しているのでしょうか。
いずれにせよ、生きるチャンスがあるなら生きるべきだと、私は思うんですけどね。