ヘブル語で聖書を読むということ

2017年8月31日木曜日

雑記

t f B! P L
 クリスチャンの中に「ヘブル語で聖書を読もう」という人がいます。
 日本語でなく、英語でもなく、ヘブル語です。
 つまり原典を原語のまま読もう、という試みです。
 もっともヘブル語で読めるのは旧約聖書の方なのですが(新約聖書の原典はギリシャ語)。
 ちなみにカトリック教会は、ギリシャ語の旧約聖書も原典と認めているようです。

 以前、知り合いのクリスチャンも、ヘブル語研究会みたいなサークル(?)に参加しているとか言っていました。どれくらい読めるようになったのかは聞いていませんが。

 ヘブル語はイエス・キリストも(地上において)使っていた言語です。だからクリスチャン的には「憧れの言語」かもしれません。また「原典を原語のまま読む」というのは、それなりに価値のあることだと思います。だから「ヘブル語を学んで聖書を読みたい」という動機そのものを否定する気はありません。私個人はあんまり興味はありませんが。

・行き過ぎた「ヘブル語信仰」

 ただ「クリスチャンならヘブル語で聖書を読むべきだ」あるいは「ヘブル語で読まなければ本当の意味を知ることができない」と言うのは、いささか言い過ぎだと思います。そういうことを言うのは一部の人だけだと思いますが。

 もし本当にヘブル語で読まなければ「本当の意味を知ることができない」のだとしたら、そもそも日本語版聖書なんて要らなくなってしまいます。あるいは日本語版だけでなく、あらゆる言語への翻訳が、無駄になってしまいます(なかには文字通り命懸けで翻訳されたものもありますが)。もうヘブル語聖書だけがあって、読みたい人はみんなヘブル語を勉強すればいい、という話になるのではないでしょうか。
 もっとも新約聖書はギリシャ語なので、ギリシャ語の勉強も必要になりますが。

 でも実際には、そんなことはないと思います。

 私の信じるところでは、聖書の「翻訳」にも神様の御旨のようなものが働いていて、どうしても必要なことはそれぞれの言語にちゃんと訳されているはずです。もし翻訳の段階で「教え」が根本的・本質的に変えられてしまったのなら問題でしょう。けれど、そこまで大きな乖離はないと思います。もしあれば、それぞれの言語ごとに「違ったキリスト教」が発生していることになりますから。
 でもどの国に行っても、キリストは神の子だし、十字架刑の3日後によみがえったし、愛とゆるしを語ったと認識されています。今までいろいろな国のクリスチャンに会いましたけれど、そのへんが根本的に違うなんて人はいませんでした。

 もちろん原語と訳語で、意味が差し替えられている箇所はあります。たとえば(ヘブル語でなくギリシャ語の話になりますが)「教会」という言葉がそうです。あるいは「罪」という言葉もそうかもしれません。他にも種々あると思います。このへんは福音派教会では当たり前に語られていることなので、ご存知の方も多いと思います。
 でもそれらの差異は、キリストの教えを根本から覆すものではありません。知っていればより深い理解になるかもしれませんが、どうしても知らなければならないことではありません。

 よく「教会は本当はエクレシアという意味だ」としたり顔で言う人がいますが、だから何なのでしょう。「教会」と呼んでも何ら問題ありません。どうしてもエクレシアという字面にこだわるなら、「東京○○教会」を「東京◯◯エクレシア」とでも改名すればいいでしょう。エクレアと間違えられそうですが。

・「原語のまま読む」ということ

 もちろん、繰り返しますが、「原典を原語のまま読む」こと自体を否定する気はありません。

 しかし「原典を原語のまま読む」というのは、厳密に言うと、かなりハードルの高い作業です。
 ヘブル語の辞書を使えば「原語のまま読める」と思うかもしれませんが、それはちょっと違います。

 たとえば「日本人が英書を英語のまま読む」という場合。
 この場合、英語にものすごく堪能で、ネイティヴ並みの理解があり、もはや「思考が英語になっている」のなら、「英書を英語のまま読む」ことはできます。「英語で読んで英語で理解している」からです。
 でもそこまで堪能でなく、辞書をひきながら読む、あるいは英単語や構文を頭の中でいちいち日本語に変換して読む、というのは「英語を日本語に翻訳して読む」ことです。「英書を英語のまま読む」とはちょっと違います。違いがわかるでしょうか。

「原語のまま読む」とは、単に辞書で翻訳しながら読むことではありません。その社会(ここではヘブル社会)においてその単語がどのように使われているか、その背景にどんな考え方があるのか、どんなニュアンスがあるのか、といったことを把握している必要があります。そしてそのように読むならば、逆に日本語に変換しきれない「何か」があることに気づくわけです。「原語のまま理解している」からです。

「原典を原語のまま読む」ことの価値は、その翻訳しきれない「何か」を掴むことにあると私は思います。

 つまり聖書を「原語のまま読んだ」からといって、教義が根本から覆されるような大発見があるわけではありません。もちろん有益な発見があるでしょう。「あーこの箇所にはこういう意味もあったんだな」と知ることができるかもしれません。でもそれでキリスト教信仰が根底から変革されるというのは、言い過ぎだろうと私は思うわけです。

・付け足される「救いの条件」

 そもそもの話ですが、「ヘブル語で聖書を読まなきゃダメだ」と主張する人は、ヘブル語ウンヌン以前に、信仰観が偏っているように思います。「◯◯でなければダメだ」「◯◯でないと救われない」みたいな言い方が目立ちますから。

 ヘブル語(あるいはギリシャ語)で聖書を読むのは、たしかに価値があると思います。でもそれは、「救いの条件」ではありません。

 いろいろなクリスチャン(あるいは教会)を見てきましたが、この「救いの条件」がアレコレ付け足されていることが、少なからずありました。たとえば、
「什一献金しなければ携挙されない」
「葬式で焼香したら天国に行けない」
「毎日伝道しなければ救われない」
「日曜礼拝を休んだら救いから漏れる」
「教会批判をしたら地獄に落とされる」
 などなど。

「こうした方がいい」ならまだわかります。でも「こうしなければダメだ」となってしまうのはナゼでしょう。よくわかりません。
 というわけでヘブル語自体に害はありませんが、その手の人たちにかかると、有害なものになりえます。というわけで気をつけましょう、という話でした。

QooQ