日本語でなく、英語でもなく、ヘブル語です。
つまり原典を原語のまま読もう、という試みです。
もっともヘブル語で読めるのは旧約聖書の方なのですが(新約聖書の原典はギリシャ語)。
ちなみにカトリック教会は、ギリシャ語の旧約聖書も原典と認めているようです。
以前、知り合いのクリスチャンも、ヘブル語研究会みたいなサークル(?)に参加しているとか言っていました。どれくらい読めるようになったのかは聞いていませんが。
ヘブル語はイエス・キリストも(地上において)使っていた言語です。だからクリスチャン的には「憧れの言語」かもしれません。また「原典を原語のまま読む」というのは、それなりに価値のあることだと思います。だから「ヘブル語を学んで聖書を読みたい」という動機そのものを否定する気はありません。私個人はあんまり興味はありませんが。
・行き過ぎた「ヘブル語信仰」
ただ「クリスチャンならヘブル語で聖書を読むべきだ」あるいは「ヘブル語で読まなければ本当の意味を知ることができない」と言うのは、いささか言い過ぎだと思います。そういうことを言うのは一部の人だけだと思いますが。
もし本当にヘブル語で読まなければ「本当の意味を知ることができない」のだとしたら、そもそも日本語版聖書なんて要らなくなってしまいます。あるいは日本語版だけでなく、あらゆる言語への翻訳が、無駄になってしまいます(なかには文字通り命懸けで翻訳されたものもありますが)。もうヘブル語聖書だけがあって、読みたい人はみんなヘブル語を勉強すればいい、という話になるのではないでしょうか。
もっとも新約聖書はギリシャ語なので、ギリシャ語の勉強も必要になりますが。
でも実際には、そんなことはないと思います。
私の信じるところでは、聖書の「翻訳」にも神様の御旨のようなものが働いていて、どうしても必要なことはそれぞれの言語にちゃんと訳されているはずです。もし翻訳の段階で「教え」が根本的・本質的に変えられてしまったのなら問題でしょう。けれど、そこまで大きな乖離はないと思います。もしあれば、それぞれの言語ごとに「違ったキリスト教」が発生していることになりますから。
でもどの国に行っても、キリストは神の子だし、十字架刑の3日後によみがえったし、愛とゆるしを語ったと認識されています。今までいろいろな国のクリスチャンに会いましたけれど、そのへんが根本的に違うなんて人はいませんでした。
もちろん原語と訳語で、意味が差し替えられている箇所はあります。たとえば(ヘブル語でなくギリシャ語の話になりますが)「教会」という言葉がそうです。あるいは「罪」という言葉もそうかもしれません。他にも種々あると思います。このへんは福音派教会では当たり前に語られていることなので、ご存知の方も多いと思います。
でもそれらの差異は、キリストの教えを根本から覆すものではありません。知っていればより深い理解になるかもしれませんが、どうしても知らなければならないことではありません。
よく「教会は本当はエクレシアという意味だ」としたり顔で言う人がいますが、だから何なのでしょう。「教会」と呼んでも何ら問題ありません。どうしてもエクレシアという字面にこだわるなら、「東京○○教会」を「東京◯◯エクレシア」とでも改名すればいいでしょう。エクレアと間違えられそうですが。
・「原語のまま読む」ということ
もちろん、繰り返しますが、「原典を原語のまま読む」こと自体を否定する気はありません。
しかし「原典を原語のまま読む」というのは、厳密に言うと、かなりハードルの高い作業です。
ヘブル語の辞書を使えば「原語のまま読める」と思うかもしれませんが、それはちょっと違います。
たとえば「日本人が英書を英語のまま読む」という場合。
この場合、英語にものすごく堪能で、ネイティヴ並みの理解があり、もはや「思考が英語になっている」のなら、「英書を英語のまま読む」ことはできます。「英語で読んで英語で理解している」からです。
でもそこまで堪能でなく、辞書をひきながら読む、あるいは英単語や構文を頭の中でいちいち日本語に変換して読む、というのは「英語を日本語に翻訳して読む」ことです。「英書を英語のまま読む」とはちょっと違います。違いがわかるでしょうか。
「原語のまま読む」とは、単に辞書で翻訳しながら読むことではありません。その社会(ここではヘブル社会)においてその単語がどのように使われているか、その背景にどんな考え方があるのか、どんなニュアンスがあるのか、といったことを把握している必要があります。そしてそのように読むならば、逆に日本語に変換しきれない「何か」があることに気づくわけです。「原語のまま理解している」からです。
「原典を原語のまま読む」ことの価値は、その翻訳しきれない「何か」を掴むことにあると私は思います。
つまり聖書を「原語のまま読んだ」からといって、教義が根本から覆されるような大発見があるわけではありません。もちろん有益な発見があるでしょう。「あーこの箇所にはこういう意味もあったんだな」と知ることができるかもしれません。でもそれでキリスト教信仰が根底から変革されるというのは、言い過ぎだろうと私は思うわけです。
・付け足される「救いの条件」
そもそもの話ですが、「ヘブル語で聖書を読まなきゃダメだ」と主張する人は、ヘブル語ウンヌン以前に、信仰観が偏っているように思います。「◯◯でなければダメだ」「◯◯でないと救われない」みたいな言い方が目立ちますから。
ヘブル語(あるいはギリシャ語)で聖書を読むのは、たしかに価値があると思います。でもそれは、「救いの条件」ではありません。
いろいろなクリスチャン(あるいは教会)を見てきましたが、この「救いの条件」がアレコレ付け足されていることが、少なからずありました。たとえば、
「什一献金しなければ携挙されない」
「葬式で焼香したら天国に行けない」
「毎日伝道しなければ救われない」
「日曜礼拝を休んだら救いから漏れる」
「教会批判をしたら地獄に落とされる」
などなど。
「こうした方がいい」ならまだわかります。でも「こうしなければダメだ」となってしまうのはナゼでしょう。よくわかりません。
というわけでヘブル語自体に害はありませんが、その手の人たちにかかると、有害なものになりえます。というわけで気をつけましょう、という話でした。
>「教会は本当はエクレシアという意味だ」
返信削除こういう人達のいく宗教施設は、「エクレシア」ではありません。「やたらと律法主義に走りまくるファリサイ派だらけのシナゴーグ」です。
>「こうした方がいい」ならまだわかります。でも「こうしなければダメだ」となってしまうのはナゼでしょう。よくわかりません。
その理由は簡単です。信者に日曜日ごとに教会に来て席上献金してもらう上に、営業マンになって毎日新たな顧客開拓に励んでもらわなくては、自分が儲からないからです。(ちなみに営業マンの給料ですが、ただ働きどころか営業マンは総収入の一割を払わなくては地獄に落とされるそうです。あな恐ろしや)
また焼香を拒否することで、入信前に持っていた人間関係を断絶させて、交際は宗教の人間のみにしてもらわないと、目が覚めてしまうからです。
コメントありがとうございます。
削除まさに「十分の一」地獄ですね。
日本人に生まれて、日本の大学を卒業しているからと言って、日本語で書かれた文献が理解できるかと言えば?源氏物語、平家物語が原文のままですらすら読んで理解できるか?源氏物語の現代語訳がなぜ次々と出版されるのか。100年前の新聞をすらすら読んで理解できるか?現代の言葉「**さんは、きれる人だ」と言った場合、高齢者は「**さんは優秀な人だ」と考え、若者は「**さんは情緒不安定な人だ」と考えるだろう。旧約聖書のヘブライ語版もなんども改訂されているし、新約に関して言えばネストレは28版の改訂版が出されている。旧約聖書のギリシャ語訳ができたのは紀元前00年頃だと言われているが、ヘブライ語訳旧約聖書が確定したのは紀元100年以降だと言われている。僕がギリシャ人で古典ギリシャ語に堪能だとしても、ギリシャ語聖書を理解できるかどうかは怪しい。田川建三訳新約聖書訳と注「ヨハネ黙示録」が出版されて読んでいる。まともな原著者と、お粗末な編集者による黙示録という解釈はなっとくできるし、訳もそうなっている。まともな日本語訳で聖書を読むと良いのだ。
返信削除Kametani様
削除コメントありがとうございます。
「きれる人」のたとえはわかりやすいですね。日本語訳の聖書を読むのが一番だと私も思います。
釜ヶ崎と福音の本田神父はバチカンに留学し、聖書学を教えていた専門家で、当然ヘブル語で聖書を読むこともできます。
返信削除フランシスコ会の日本管区長の任期を終えて釜ヶ崎に来て、「小さく低くされた人たち」とともに暮らす日々を過ごしつつ、もう一度ヘブル語で聖書を読み直してみたら・・・が、釜ヶ崎と福音や本田訳の聖書になったわけです。
ヘブル語で読んでいると自慢している新興宗教系プロテスタントの人たちの中で、本田神父のような心境になった人が一人くらいいてもよさそうですのに、なぜか一人もいません。なぜなのでしょうか?
コメントありがとうございます。
削除本田神父のことは初めて知りました。ありがとうございます。
たしかにヘブル語で聖書を読んでると何気に自慢している人、いますね。
本田哲郎神父の本は色々出ていますが、一番有名なのが岩波書店から出ている「釜ヶ崎と福音」でしょうか。(もちろんそれ以外にも東京書籍から出ている五木寛之との対談本である「聖書と歎異抄」なんかも有名ですが。)
削除釜ヶ崎と福音ーーー本当に不思議な本です。これはクリスチャンよりもノンクリスチャンのほうが、「感動した」「心の奥底までジーンときた」といいます。
絶望の淵にいてもう死にたいと嘆いていた人ですら、この本を読んで「よしっ、もう少しだけ頑張って生きてみよう」と決意したくらいで、自殺を思いとどまらせることすらあるのです。
この本に深く心打たれるのが、ノンクリスチャンであることをみても、「釜ヶ崎と福音」という本の中には救いがあるのかもしれません。
そしてノンクリスチャンをこれだけ感動させるということはですね、この本にこそ日本のリバイバルのカギがあるのかもしれません。なぜならノンクリスチャンの心をつかむ本にこそ、これからのキリスト教をいかにすべきかのヒントがあるからです。
みなさま
返信削除久しぶりの書き込みをいたします、スマイルと申します。
匿名さま
>ヘブル語で読んでいると自慢している新興宗教系プロテスタントの人たちの中で、本田神父のような心境になった人が一人くらいいてもよさそうですのに、なぜか一人もいません。なぜなのでしょうか?
答えは、誤解を恐れずに、簡単だと申し上げるなら、新興宗教系プロテスタントの人たちが「ヘブル語で(み言葉を)読んでいると自慢しながら一方で本田神父のような心境になった人がいないの」は、自分たちこそ神に忠実だ、正しい信仰だ、神がわたしたちを引き上げて下さる神の国に招いて下さるのだ、という優越感のような信仰だからではないでしょうか。
わたしは耳が聞こえません。ろう者です。ですので手話ができます。手話訳聖書にも関心があります。
けれど手話ができたからといって優越感などもったことはないし、それで優れた信仰だ、神がすぐにもでも天国に入れてくださる、などとは夢にも思ったことはありません。手話は世代によってまた地方や国によって表現が異なります。それらを
いちいち、あれが優れているなどと言い合うなら、バカにされるがオチでしょう。言葉は時代や空間や使っている人たちで異なっていて当たり前です。その多様性を認めないようではコミュニケーションがなりたちません。
それと同じで、新興宗教プロテスタントというひとたちが「へブル語で読もう」と言っているのは、イエス時代のそれと現代のそれをごっちゃにしていてなおかつ自分たちがヘブル語を使えるからというだけでまるで使徒言行録の聖霊降臨のような、異言が語れるかのような錯覚に陥っていることに気づかないのではないかと思います。手話も外国語もヘブル語もみんな、使えるからすごい、すばらしい、でなくて、使えるからお互いを理解しようというものでなくてはならないのではないでしょうか。本田神父のような方こそ、へブル語の使い手以前に、小さいものとされた、という意味を心底から正しく理解しておられるのではないかと思います。
スマイル様
削除コメントありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います。外国語やヘブル語を使える人は、それをどのように使うべきか、いつも問われているのだと思います。自慢のために使うのか、他者の理解のために使うのか。結果は大きく違ってくるでしょうね。