夏の怪談みたいですが、「子供を教会に取られる」現象について、今回は実際に見たことを紹介したいと思います。
ただこれは(たぶん)極端な例なので、これをもって「教会」を語るべきでもないと思います。多くの教会はこんな状態でなく、真っ当に頑張っていることでしょう。だから反面教師的に読んでいただければと思います。
・「若者育成」のワナ
とにかく若者向けの活動が満載でした。日曜は礼拝以外にも終日いろいろなアクティビティがあり、土曜も平日も、若いクリスチャンを集める集会やミーティングが用意されています。遊具類も充実していました。そのぶん大人の信徒たちは放置されていましたが。
その若者育成の中心を担うのはA牧師で、言い方は悪いかもしれませんが、十代後半の子供たちにベッタリでした。良く言えば「次世代育成に重荷がある」ということになりますが。
A牧師はいつも若者たちをまわりに置いて、笑い話に花を咲かせていました。個人的な相談にもよくのっていました。一人一人のことを気にかけて、よく声をかけていました。だから親身になってくれる先生、良くしてくれる先生、楽しい先生、という印象が皆にあったと思います。当然ながら、若者たちからは大人気でした。
そんなA牧師に心酔する子たちもいました。牧師の言うことなら間違いない、ということで彼ら(彼女ら)は何でもかんでも言われるままに従っていました。もちろん彼らは、それで神様に従っているつもりだったのですが。
そのうちA牧師は、「従順な」若者たちを礼拝奉仕で重用するようになりました。楽器や歌を練習させて毎週ステージに立たせ、ダンスを披露させ、証(あかし)をさせ、代表で祈らせました。
いつの間にか、礼拝奉仕の大半を、彼ら若者たちが担うようになっていました。
そんなA牧師に心酔する子たちもいました。牧師の言うことなら間違いない、ということで彼ら(彼女ら)は何でもかんでも言われるままに従っていました。もちろん彼らは、それで神様に従っているつもりだったのですが。
そのうちA牧師は、「従順な」若者たちを礼拝奉仕で重用するようになりました。楽器や歌を練習させて毎週ステージに立たせ、ダンスを披露させ、証(あかし)をさせ、代表で祈らせました。
いつの間にか、礼拝奉仕の大半を、彼ら若者たちが担うようになっていました。
・幅をきかせる子供たち
すると、若者たちに徐々に変化がみられました。「自分は重要な立場にいる」という意識があったのでしょう、態度が尊大になっていきました(もちろん全員ではありません)。たとえば奉仕に行った先の教会が「異言を語らない教会」だと、「あーこの教会の人たち、異言わからないんだー(苦笑)」と平気で言います。礼拝奉仕をしていない大人の信徒を見下して、言うことを聞きません。まあこれは若者らしいと言えばそうかもしれませんが。
しかしもっと深刻な問題は、それぞれの若者が、「A牧師の言うことなら聞くけれど、親の言うことは聞かない」みたいな状況になったことです。その親というのもクリスチャンで、同じA牧師の牧会を受けているので、簡単に言うと親も子も同じ信徒なわけです。しかし子供の方が牧師のそばにいるし、礼拝奉仕なんかでも目立っているので、どちらかと言うと「親より上」みたいな意識になったのでしょう。「自分は親より霊的だし、いろいろわかっている。親は何もわかっていない。だから自分に指示する資格はない」みたいに考えるようになったのだと思います。親からしたら困った事態でした。
もっとも年頃の若者が親に反抗するのは、自然なことです。むしろ反抗心が見えてこない方が問題かもしれません。 でもその反抗は親だけでなく、大人全般とか、社会全般とか、権威全般に対して起こるものです。その中で親が一番反抗しやすい相手だというだけです。
すると、若者たちに徐々に変化がみられました。「自分は重要な立場にいる」という意識があったのでしょう、態度が尊大になっていきました(もちろん全員ではありません)。たとえば奉仕に行った先の教会が「異言を語らない教会」だと、「あーこの教会の人たち、異言わからないんだー(苦笑)」と平気で言います。礼拝奉仕をしていない大人の信徒を見下して、言うことを聞きません。まあこれは若者らしいと言えばそうかもしれませんが。
しかしもっと深刻な問題は、それぞれの若者が、「A牧師の言うことなら聞くけれど、親の言うことは聞かない」みたいな状況になったことです。その親というのもクリスチャンで、同じA牧師の牧会を受けているので、簡単に言うと親も子も同じ信徒なわけです。しかし子供の方が牧師のそばにいるし、礼拝奉仕なんかでも目立っているので、どちらかと言うと「親より上」みたいな意識になったのでしょう。「自分は親より霊的だし、いろいろわかっている。親は何もわかっていない。だから自分に指示する資格はない」みたいに考えるようになったのだと思います。親からしたら困った事態でした。
もっとも年頃の若者が親に反抗するのは、自然なことです。むしろ反抗心が見えてこない方が問題かもしれません。 でもその反抗は親だけでなく、大人全般とか、社会全般とか、権威全般に対して起こるものです。その中で親が一番反抗しやすい相手だというだけです。
でもその教会の若者たちは、A牧師には決して反抗しません。「牧師に対する絶対の従順」 が、「神に対する絶対の従順」と同列になっているからです。だから親には大々的に反抗しても、A牧師に対しては素直で従順な「子供」であり続けるわけです。
たとえばですが、奉仕の準備などで若者たちが遅くまで教会に残ることがありました。親からすれば、10時になっても11時になっても子供が帰ってこない、という状況です。もっと早く帰ってきなさい、と子供に注意します。するとこう反論されます。
「神様のための奉仕なんだから仕方がないだろ」
「これをやらないとA牧師が困るんだから」
「自分には責任があるんだから」
子供が一生懸命やっていることだし、牧師が絡んでいることでもあるので、親は何も言えなくなります。
こういう状況を指して、ある親がこんなふうに言いました。とても印象に残る言葉でした。
「子供を人質に取られているみたいです」
・教会から離れない子供たち
やがて若者たちが卒業する頃になると、「進路」が問題となりました。
A牧師は大勢の若者が卒業するタイミングに合わせて、新規事業を立ち上げることにしました。若者たちをそこで働かせるためです。彼らがどこかに進学して(たとえそれが神学校や宣教訓練校であっても)教会を一時的にでも離れると、それきり帰ってこない可能性があります。そのリスクを冒すよりは、「楽しそうな就職先」を用意してあげて、ずっと若者たちを囲っておこうと考えたのでしょう。中心的な子たちがそれに同調すると、大勢が続きました。
それを見る親たちは複雑でした。我が子が高卒で、先行きのわからない「事業所」に就職すると言い出したからです。必ずしも学歴が重要ではないでしょうし、教会がバックアップするとはいっても、不安は拭えなかったと思います。教会に入り浸りだった子供が他の世界のことなど知らずに下した決断だったのも、気がかりだったでしょう。
かと言って、上記のような状態にあるので、子は親の助言や忠告など聞きません。しかも牧師はこんな大きなことを言います。
「この事業を通して、世界に出て行くんだ」
「世界中のクリスチャンとネットワークをつくるんだ」
「壮大な神の事業を成し遂げていくんだ」
子供たちが夢を見るには、十分な謳い文句でした。
というわけで、言葉は悪いかもしれませんが、「子供を教会に取られる」みたいな話になるのでした。
子供たちはどこか遠くに行くわけではなく、だいたいいつも教会にいるので、「取られた」というのは言い過ぎかもしれません。でもその心においては、親からすれば、ものすごく遠くに失われてしまったように感じるのもまた、事実なのでした。
この子供たちの祖父母にいわせれば、ハーメルンの笛吹男にとられたのは孫たちだけではありません。子供たちの親、つまり祖父母にとっては自分の子供たちまでとられていることになるわけですが。
返信削除キャンパスカルトとして名高い新興宗教系プロテスタントの教会はもちろん、KGK(キリスト者学生会)に入ると、必ず通うようにと紹介される教会もやはり新興宗教なのです。新興宗教系プロテスタントは、キャンパスで子供たちを勧誘して、カルトの国に連れ去ってしまうハーメルンの笛吹男といえましょう。
キマジメ君もまた、そのハーメルンの笛吹男に連れ去られた子供たちの一人であります。
そうですね。たしかに親自身も「教会に取られた」人かもしれません。キマジメくんは言わずもがなですね。
削除笛吹き男と言えば、学生時代に関わったキャンパスクルセードのスタッフを思い出します。巧みな話術で学生を扇動、洗脳し、勧誘された学生は、学業怠業による留年・中退で、就職の機会を逸し、ますます新興宗教への依存を深めていました。
返信削除スタッフのしていたことは、その団体名が示す通り、少年十字軍へのリクルートです。
親や、学生課の職員は、さぞかし嘆いたことかと思います。
私が知っていたスタッフは、今はキャンパスクルセードを離れ、別組織で笛を吹いています。額に汗して働くという考えはないようです。
そして、当時のハーメルンの子らは、弟子訓練を経て、今は各地を遍歴し笛を吹いているようです。
コメントありがとうございます。
削除たしかに教会から教会へ、組織から組織へ、渡り歩きながら笛を吹き続ける人がいますね。学歴なんて意味がない、就職なんて意味がない、と巧みに話して若者たちの人生を狂わせておいて、うまく行かなくなると知らん顔、といういい加減な人たちです。本当に罪深いと思います。
キリスト者学生会といい、キャンパスクルセードといい、新興宗教系プロテスタントの団体は、あちこちのキャンパスで今日も人狩りに忙しい日々を送っていることでしょうね。
削除彼らを見ていると、ねずみ講とそっくりだと思いません?騙された側が今度は騙す側になるのですから。
もっともこれは創価学会でも同じことがいえますので、新興宗教はどこもみんな同じものといえるのかもしれませんが。
そういえば戸田城聖二代目会長は、折伏された人は今度は折伏する側にまわらなくてはならないといつも教えていました。いつまでたっても折伏する側になろうとしない人を「びっこ」と呼んだのだそうですよ。
困ったのは大学のカルト対策です。統一教会やオウム真理教(現アレフ)に対しては、キャンパスに入らないように注意するようになりましたので、一時はキャンパスカルトとして有名だった新興宗教でも、学生部が全然ふるわないということもあるのだそうで。
しかし大学側も、創価学会を学校の正規の部(仏教研究会)として認めていたり(注 創価大学ではないし宗教系の学校ですらない)、キリスト者学生会やキャンパスクルセードには、まったく警戒心を抱かないので困ります。現にこうしている間にも、「仏教研究会で仏教を勉強してみませんか?」「聖書研究会で聖書を学んでみませんか?」と、ハーメルンの笛吹男がキャンパスで・・・
若者向けの団体だとどこも似たような感じですね。
返信削除Hi-○aも「自分で考える」ことより「大人のクリスチャン受け」する高校生を育てていると思います。
MIWA様
削除コメントありがとうございます。
そうですね。クリスチャンの若者かくあるべし、みたいな理想があって、一人一人の個性や自由意志はあまり顧みられない印象がありますね。そうでない良いスタッフの方もいるとは思いますけれど。全体的にはステレオタイプな「生き生きした若者」が求められていると思います。
新興宗教系プロテスタント純粋培養コースって知っていますか?
削除CSK(中学生聖書研究会)→Hi-ba→KGK&CCC(現在はCru)ときて、卒業して大人になるとFGBMFIになるそうで。
CSKからKGKとCCCはまだ子供ということで、「生き生きした若者=よい子」という感じですか。学生時代から徹底的に「新興宗教系プロテスタントのよい子」を嫌でも演じ続けなくてはならないようです。(このあたりヤマギシの子の「ハレハレ」と同じです)
で、大人になって加入するFGBMFIですが、やはり新興宗教系プロテスタントの常として、やたらノリのよいワーシップを何かにつけて歌います。
バンドをやってドラムをたたいたりギターを弾くのは、ハゲ・デブ・皺・シミ・白髪ですが、歌うほうもハゲ・デブ・皺・シミ・白髪です。
ハゲ・デブ・皺・シミ・白髪が、自分と同じような外見の人に、谷村新司のコンサートみたいに「ハイ、手をあげて~」という感じです。ビートたけしなら「俺は幼稚園児じゃないんだ!バカヤロー!」といいたくなるでしょう。
そういえばFGBMFI日本支部は分裂したと聞いていますが、どうして分裂したのでしょうか?分裂の事情をご存知の方がいらしたら、ぜひ教えていただけるとうれしく思います。
ブログ主様
削除そう、個人を見てくれるスタッフももちろんいるのですが、
そういう方はけっこう早々にいなくなることが多いように思いました。
結果的に、「大人からみた理想のクリスチャンの若者」を育てるスタッフばかりが出世(?)しているような。
匿名様
FGBMFI、知らなくて検索したのですが、なんだか気持ち悪いですね・・・