我慢できる/できない恋愛?

2017年6月25日日曜日

クリスチャンの恋愛

t f B! P L
・「我慢できない」恋愛

最近、某アイドルのこんな発言がありました。

我慢できる恋愛は、恋愛じゃないです

 突然の「結婚宣言」で物議を醸したアレです。私は某アイドルにもそのグループにも関心がないので、好きにして下さいとしか思わないのですが、このセリフは、なかなか名言だなあと思いました。大袈裟な言い方ですが、真理を含んでいると思うからです。

 我慢できる恋愛は恋愛じゃない、ということは、「真の恋愛は我慢できるものじゃない」ということでしょう。地位や名誉や仕事や実績や、そんな全てを投げ打ってでも「真の恋愛」には得る価値がある、というわけです。なかなかロマンチックじゃないでしょうか。いろいろな制約に我慢しながら地道に恋愛している人たちにはケンカを売っているようですが。

 乱暴にまとめると、彼女は仕事より恋愛を取った、ということだと思います。そしてそれ自体は否定されるものではないでしょう。いろいろ批判の声もあり、そちらにも一理あるとは思いますが。
 でもどんなことであれ、最終的には本人の選択が全てだと思います。他人にどうこうできるものではありませんから。その決断が常識的にどうなのか、道義的にどうなのか、というのももちろん大切ですし、その結果にも責任を持たなければならないと思いますが。

 いずれにせよ彼女には、最近トレンドになったこのセリフを私は贈りたいです。
「でも幸せならOKです」

・クリスチャンの若者の場合

 ではクリスチャンの若者の「恋愛」について考えてみましょう。
 これまた教団教派によってイロイロでしょうが、私が属していた福音派・聖霊派界隈では、概ね次のようなことが言われていました。

神にある恋愛は(イロイロな意味で)待つことができるものだ

 クリスチャンの男女交際は、まず結婚が前提としてあるべきだ、という話から始まります。
 次に結婚するまで「きよい関係」を保たなければならない、と続きます。
 何かにつけて「待つこと」が求められます。
 たとえば、ある年齢に達するまで二人きりでデートしないとか、婚約するまで手をつなぐ等の接触はしないとか。その他にもいろいろ。猪突猛進に進みたいところをぐっと堪えてタイミングを待つ、それがクリスチャンの恋愛だ、みたいな感じです(一部の教会だけの話かもしれませんが)。
 上記のアイドルが「恋愛は我慢できるものじゃない」と言うのに対して、キリスト教(の一部)は「我慢するのが恋愛だ」と言います。完全に相容れない感じです。

 知り合いのクリスチャンにも、長年プラトニックな交際を続けた(と思われる)男女がいて、ついに牧師の許可を得て結婚に至ることができた、というケースがあります。彼らは相当「待った」ことでしょう。なんで結婚するのに牧師の許可が要るのか若干意味不明なのですが、まあそこは彼らの「信仰」でもあります。

 彼らのような「清廉潔白な交際」に憧れるクリスチャンの若者も少なからずいるようです。若者たちに「純潔の誓い」なるものを推奨する教会もあります。それらはべつに悪いことではありません。早まって痛い目に遭うより、待って失敗を避ける方が賢いのかもしれませんから。親がクリスチャンであるなら、尚更それを望むことでしょう。まあそこは考え方次第でしょうが。

 一方で、やはりクリスチャンとはいえ「待てない」若者たちもいます。こちらは例を挙げるとキリがない感じですが。でも悪い話ばかりではありません。牧師や教会からしたら「不誠実な」交際を選んだ若い男女が、のちに立派なクリスチャン家庭を築いた、というケースもあります。一概に「待つ」だけが最善ではないのかもしれません。

 その手の話、特に信徒の恋愛話でいろいろ苦労されてきた牧師が、こんなことを言っていました。ものすごい実感をこめて。

本人たちが(恋愛に)盛り上がっちゃったら、もう(どんなに止めても)どうにもならないんですよね

 そうだろうなあと思います。クリスチャンとしての理想がどうあれ、現実はそううまく行くものではありません。もちろん個人差があるでしょうし、恋愛に全く関心を示さない人もいるでしょうから、一概に言うことはできませんが。でも大概の若者は、恋愛の魅力には弱いんじゃないかと私は思います。クリスチャンである前に、彼らも「若者」ですから。そういうケースもイロイロ見てきました。
 というわけで、上記のアイドルの発言が、リアルに迫ってくるわけです。「恋愛は我慢できるものじゃない」と。

・清廉潔白な交際?

 さて、恋愛を乱暴に大別して、「清廉潔白な交際」と「我慢できない交際」とに分けるとします。
 するとクリスチャンの若者たちに求められるのは、たぶん前者の「清廉潔白な交際」になるでしょう。おそらく若者たち自身の多くも、そうあるべきだと考えていると思います。でも実際にはそうできなくて、葛藤することも多いと思いますが。

 私自身は、クリスチャンなら「清廉潔白な交際」でなければならないとは思いません。一方で「我慢できない交際」を推奨する気もありません。こういう話になると「婚前交渉なんてけしからん」という意見が出ると思いますが、べつに婚前交渉を推奨する気もありません。
 ただ状況は人それぞれなので、「必ず○○でなければいけない」「○○でなければ神の御心でない」と断定できるものではない、と思うわけです。たとえば(嫌なたとえですが)、望んだわけではないのに性交渉を持つことになってしまった、という人もいるでしょう。すると彼ら彼女らは、すでに「御心」から外れてしまったのでしょうか。神の愛はもう彼ら彼女らにとどまっていないのでしょうか。

 全ての人が「清廉潔白な交際」でなければならない、と若者たちに押し付けるべきではないと私は思います。そういう交際方法もあると教えるのはもちろん良いですが、選ぶのはあくまで若者たち自身なのです。選択の自由を奪い、清廉潔白さにだけ価値を置くのは、一方的ではないでしょうか。
 もちろん「それは若者たちを守るためだ」という意見もあるでしょうし、それにも一理あるとは思います。けれど無理やり従わせても、若者たちを守ることにはなりません。

 信徒の若者たちの恋愛に介入しすぎる牧師がいました。その牧師は日常的にこんなふうに言っていました。
付き合いたい相手がいるなら連れてこい。ふさわしい相手かどうか見てやる
 つまり、交際するには牧師の許可がいる、ということです。結婚相手を親が決めていた時代ならべつに違和感のない話かもしれません。でも親でも親戚でもない第三者の牧師が信徒の交際相手を決めるというのは、信徒を私物化しているとしか思えませんが。それにこれ、一歩か二歩まちがうと、統○教会と同じようなことになる気がします。

・「神様が決めた相手」って何

 若者たちに積極的に恋愛について話す教会は、よくこんなふうに言います。
あなたには神様が決めた相手がきっといるんだから、祈って待ちなさい」

 つまり恋愛にしても交際にしても結婚にしても、クリスチャンなら「ふさわしい相手」が(神様によって)すでに用意されている、という考え方です。アダムにも神様がエバを用意したでしょう? イサクにはリベカがいたでしょう? というわけです。

 この考え方は、「自分で勝手に決めた相手」と対比されます。神様にうかがわないで、「この人がいいなあ」と自分の一存で交際した相手が、この「自分で勝手に決めた相手」になります。そしてこの相手を選ぶと、絶対にうまく行かないぞ、必ず不幸になるぞ、祝福を逃すことになるぞ、みたいな呪いの言葉を周囲からかけられます。
 それに比べて「神様が決めた相手」は完璧だ、とされます。自分にピッタリで、互いに支え合うことができ、励まし合うことができ、信仰を育み合うことができ、素晴らしい関係を築くことができる、とされます。
 だから若者たちの多くが「神様が決めた相手」を求めて熱心に祈ることになります。

 でもこれはちょっと短絡的だと思います。
 この「神様が決めた相手」をどうやって判断するのか、という問題が前提としてありますが、それを置いておくとしても、交際も結婚もそんな簡単なものじゃないからです。どんな相手であろうと、そもそも「他人」なので、一緒にいればイロイロ擦り合わせたり、譲ったり譲られたり、我慢したりケンカしたり、紆余曲折あるのが普通です。ストレスフルなこともあるでしょう。難しいこともあるでしょう。おそらく「神様が決めた相手」だと確信して交際をスタートしたとしても、どこかで「本当にこの人だろうか」と疑いたくなると思います。
 これは男女交際だけの話でなく、全ての人間関係にも言えることでしょうが。

 だから「どうやって交際相手を決めるか」より、「どうやって交際を続けるか」の方がはるかに重要なはずです。
 クリスチャンの若者たちには、「神様が決めた相手とそうでない相手」について講釈するより、「人とどう付き合っていくか」を詳しく教えてあげるべきではないでしょうか。
 人とどう付き合っていくべきか、すなわち相手を尊重すること、自分自身を守ること、両者にとっての最善を考えること、何を優先すべきか考えること、などを理解していくなら、「清廉潔白な交際」対「我慢できない交際」という対立軸も、「神様が決めた相手」対「そうでない相手」という対立軸も、あんまり意味がなくなっていくと思います。

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