有名すぎて必要ないでしょうが、一応予告編を貼っておきます。
私は映画愛が強いためか、あるいは単純なためかよくわかりませんが、ある程度マトモな映画なら大抵感動できます。だからディズニー映画ならほぼ間違いなく感動してしまいます。
それは置いておくとして、『美女と野獣』のストーリーには大切な教訓が含まれているなあと思いました。それはクリスチャンなら尚更必要なものだと思います。なのでちょっと紹介していきます。
①外見と内面のギャップ
『美女と野獣』の主要なテーマの一つは、「外見と内面のギャップ」だと思います。
本作に登場する醜い野獣は、実は呪いをかけられたイケメン王子なのですが、彼は野獣に変えられる前、ひどく残酷で自己中な男でした。つまり外見は美しかったけれど、内面がダメだったわけです。しかし野獣に変えられていろいろ失望し、かつベルとの交流を通して、王子は優しい心を取り戻していくのでした。つまり外見はダメだけれど、内面は美しくなったわけです。
この「外見と内面のギャップ」を徹底的に描いたのが、『美女と野獣』なのですね。
もっとも主人公のベル自身は「外見も内面と美しい」という反則キャラなのですが。
しかしこうしうたギャップを持ったキャラは他にも登場します。
たとえば冒頭、イケメン王子のもとを訪れる「貧しい老女」は、実は「強大な力を持つ(かつ美しい)魔女」でした。
また悪役ガストンはイケメンですが、中身は悪のカタマリみたいな人間です(単に自己中なだけかもしれませんが)。
あるいは野獣の家来たちは食器や家具に姿を変えられていますが、どこまでも王子に忠実で、かつ良心に満ちた人たちです。
このように「外見と全然違う内面」を持ったキャラを複数登場させることで、本作はある一つのメッセージを伝えようとしているわけです。そのメッセージとはこれです。
「人の価値は外見でなく内面にあるのだ」
もっともこれは、あくまで子供向けのメッセージだと思います。
私自身はこのメッセージに若干の偽善というか、薄っぺらさを感じました。なぜなら現実的な話、人の印象は外見でほとんど決まってしまうからです。また外見は、結局のところ、その人自身をけっこう的確に現しているからです。
と言ってもこれは、美男美女じゃないと価値がないよ、という話ではありません。そうでなく、見た目の清潔感や服の着こなし方や、表情の柔らかさや凛々しさや、態度や姿勢や物腰などといったものは、その人の内面が如実に反映されている、というような話です。もともとの造形の話でなく、たとえば「できるところは整えておこう」という「意思」の有無が外見をけっこう左右する、というような話です。
一例挙げると、清潔感のある身だしなみを心掛けるか心掛けないかで、その人の印象はだいぶ変わってきます。その意味で、意志は外見に現れるのです。同じような事例は日常生活中にいろいろあるのではないでしょうか。
だから「外見と内面のギャップ」は、実際的にはあまりないのではないかな、と私は思います(もちろん何らかの病気や障害などで外見をまったくコントロールできない、という場合は別です)。
だいいち本作に登場する野獣は、全然不潔でないし、野蛮でもありません。むしろライオンキングみたいに綺麗で荘厳で、凛々しい外見をしています。表情にも優しさがあります。べつに人間の王子に戻らなくてもいいんじゃないかってくらいです(それだと物語が成立しませんが笑)。
とういわで本作のメッセージを私なりに修正すると、こうなります。
「人の価値は外見でなく内面にあるけれど、内面は外見に現れるから、外見は内面を知る手掛かりになる」
なんか禅問答みたいになってしまいましたが、そういうことだと思います。
②「小さい者たち」の扱い方
さて「外見」と「内面」の関係について書きましたが、次に「他者の外見をどう評価するか」という話をしたいと思います。
クリスチャンの方なら、マタイの福音書25章31~46節の「羊と山羊の話」はご存知だと思います。一応紹介するとこんな話です。
キリストが来られると、すべての人が集められる。そして「羊」のグループと「山羊」とのグループに分けられる。「羊」のグループはキリストに褒められる。なぜなら困っている時に助けてくれたから。でも「羊」は「助けた覚えはありません」と言う。そこでキリストがこう答える。「小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」
逆に「山羊」たちは叱られる。なぜなら困っている時に助けてくれなかったから。でも「山羊」は「助けなかった覚えはありません」と言う。そこでキリスト。「小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです」
つまり貧しかったり病気だったり牢屋にいたり等で困っている人たち(小さい者たち)に対する善行は、神に対する善行だ、ということです。逆もまたしかり。
これはあまりに有名な話なので、今さら解説する必要ないと思いますが、クリスチャンにとって大切な行動原理の一つでしょう。「人の外見にかかわらず善いことをしよう」というような。もちろん聖書を引き合いに出すまでもなく、一般的なモラルとしてもそうだと思いますが。
この箇所が重視しているのは、ただの「善行」でなく、「小さい者たちへの善行」です。
ちなみに貧しかったり病気だったり牢屋にいたりするのを「小さい者たち」と呼ぶのも違和感がありますが、聖書がそう表現しているので、ここでは便宜上同じ表現を使うことにします。
金持ちや地位の高い人や何らかの力を持っている人たちに善行をするのは、ある意味で善行でないかもしれません。なぜなら見返りを期待できるからです。何らかのお返しを期待して、「善行」をしているのかもしれません。目的は善行そのものでなく、「お返し」の方にあるのかもしれません。
ちなみにこの「お返し」は、必ずしも金品や何かの権利ばかりではありません。たとえば職場の同僚や先輩や後輩に善行をするのは、今後も仕事を円滑に進めるうえで必要になるからです。そういう「お返し」もあると思います。
しかしこれが前述の「小さい者たち」になると、なかなかお返しができません。できても我々が期待するようなお返しではないかもしれません。そういう相手に対しては、「善行をしよう」という意識がグッと下がるかもしれません。
そこで、「外見にかかわらず」という考え方が必要になるわけです。
ちなみにこの「外見」とは容姿だけでなく、お金持ちだとか地位が高いとかいうステイタスも含みます。
「助けることで何のメリットも得られないけれど、相手が困っているのだから、助けよう」それがキリストのメッセージなのだと私は思います。
また「何のメリットも得られない」と書きましたが、聖書的には「キリストが見ている」というメリットがあります。「小さい者たち」はキリストとイコールで結ばれているはずですから。
というわけで「他者の外見をどう評価するか」という最初の命題に対しては、「外見で評価してはいけない」「外見は関係ない」という解が得られると思います。
これは『美女と野獣』的には、冒頭に登場する「貧しい老女」をどう扱うか、というエピソードに現されています。イケメン王子は老女を邪険に扱い、笑いものにし、助けないという選択をしてしまいます。結果はご存知の通り、醜い野獣に姿を変えられてしまったわけです。聖書の「羊と山羊」で言えば、彼は山羊の方でした。
③問われる選択・資質
クリスチャンである私たちは、この「羊か山羊か」の選択を、ある意味毎日のように問われているのかもしれません。
今困っているあの人に何かすべきだろうか、最近入院したあの人を見舞うべきだろうか、あの人はきっとこれこれで悩んでいると思うけれど大丈夫だろうか、震災に遭ったあの人たちに何かできることはないだろうか・・・。そうったことにどう対処するかが、実は神に対する私たちの態度なのかもしれません。
かと言って、必ずしも大きなことをすべきとか、絶えず人助けに尽力すべきだとか、そういう話ではありません。個人個人にできる些細なこと、わずかな労力や、わずかなコストや、わずかな犠牲でできることを「するかしないか」に、クリスチャンとしての「資質」が現れるのではないかなあと、単純に考えるだけです。
何かの映画でみたセリフに、こんなのがありました。
「嫌いな人間をどう扱うかに、その人の本性が現れる」
これは「小さい者たち」をどう扱うかという話にも通ずると思います。嫌いな人間だから痛めつけてもいい、虐待してもいい、どうなってもいい、と考えるかどうかの話です。聖書がそれにどう答えているかというと、「敵のために祈れ」の一言が一番端的かもしれません。
前回の「人格や礼節」の話に戻りますが、「SNS上の人たち」は、どこの誰だかわからない、素性がわからない、直接的な接触や援助は(一般的には)できないという点において、「小さい者たち」と言えるかもしれません。そういったSNS上の人たちに対する態度も、その人の「資質」を如実に現しているなあと思います。中にはいきなり「こいつ」とか「おまえ」とか「小物」とか言って他者を攻撃したり蔑んだりする「クリスチャンアカウント」がいますけれど、まあ「その程度の人物」なのだと私は思うことにしています。そういう人物が聖書がウンヌンだとかヘブル語的にはウンヌンがとか講釈しても、ちょっと・・・という感じです。
④まとめ
そんなこんなで『美女と野獣』は笑って泣けるだけでなく、人間の「内面」や「資質」についてクリスチャンっぽく考えさせられる、良質な一本でした。
個人的にはルミエールたち家来の皆さんが本当に愛らしくて良かったです。ネタバレは避けますが、最後のルミエールたちのアレには泣かされましたね。子供向け映画とか女性向け映画とかいうイメージがあるかもしれませんが、いやいや大人の男性も十分楽しめるエンターテイメントでした。興味のある方はぜひ、劇場へ。
最後に本作関連の私のツィートを転載しておきます。
『美女と野獣』の主要なテーマの一つは、「外見と内面のギャップ」だと思います。
本作に登場する醜い野獣は、実は呪いをかけられたイケメン王子なのですが、彼は野獣に変えられる前、ひどく残酷で自己中な男でした。つまり外見は美しかったけれど、内面がダメだったわけです。しかし野獣に変えられていろいろ失望し、かつベルとの交流を通して、王子は優しい心を取り戻していくのでした。つまり外見はダメだけれど、内面は美しくなったわけです。
この「外見と内面のギャップ」を徹底的に描いたのが、『美女と野獣』なのですね。
もっとも主人公のベル自身は「外見も内面と美しい」という反則キャラなのですが。
しかしこうしうたギャップを持ったキャラは他にも登場します。
たとえば冒頭、イケメン王子のもとを訪れる「貧しい老女」は、実は「強大な力を持つ(かつ美しい)魔女」でした。
また悪役ガストンはイケメンですが、中身は悪のカタマリみたいな人間です(単に自己中なだけかもしれませんが)。
あるいは野獣の家来たちは食器や家具に姿を変えられていますが、どこまでも王子に忠実で、かつ良心に満ちた人たちです。
このように「外見と全然違う内面」を持ったキャラを複数登場させることで、本作はある一つのメッセージを伝えようとしているわけです。そのメッセージとはこれです。
「人の価値は外見でなく内面にあるのだ」
もっともこれは、あくまで子供向けのメッセージだと思います。
私自身はこのメッセージに若干の偽善というか、薄っぺらさを感じました。なぜなら現実的な話、人の印象は外見でほとんど決まってしまうからです。また外見は、結局のところ、その人自身をけっこう的確に現しているからです。
と言ってもこれは、美男美女じゃないと価値がないよ、という話ではありません。そうでなく、見た目の清潔感や服の着こなし方や、表情の柔らかさや凛々しさや、態度や姿勢や物腰などといったものは、その人の内面が如実に反映されている、というような話です。もともとの造形の話でなく、たとえば「できるところは整えておこう」という「意思」の有無が外見をけっこう左右する、というような話です。
一例挙げると、清潔感のある身だしなみを心掛けるか心掛けないかで、その人の印象はだいぶ変わってきます。その意味で、意志は外見に現れるのです。同じような事例は日常生活中にいろいろあるのではないでしょうか。
だから「外見と内面のギャップ」は、実際的にはあまりないのではないかな、と私は思います(もちろん何らかの病気や障害などで外見をまったくコントロールできない、という場合は別です)。
だいいち本作に登場する野獣は、全然不潔でないし、野蛮でもありません。むしろライオンキングみたいに綺麗で荘厳で、凛々しい外見をしています。表情にも優しさがあります。べつに人間の王子に戻らなくてもいいんじゃないかってくらいです(それだと物語が成立しませんが笑)。
とういわで本作のメッセージを私なりに修正すると、こうなります。
「人の価値は外見でなく内面にあるけれど、内面は外見に現れるから、外見は内面を知る手掛かりになる」
なんか禅問答みたいになってしまいましたが、そういうことだと思います。
②「小さい者たち」の扱い方
さて「外見」と「内面」の関係について書きましたが、次に「他者の外見をどう評価するか」という話をしたいと思います。
クリスチャンの方なら、マタイの福音書25章31~46節の「羊と山羊の話」はご存知だと思います。一応紹介するとこんな話です。
キリストが来られると、すべての人が集められる。そして「羊」のグループと「山羊」とのグループに分けられる。「羊」のグループはキリストに褒められる。なぜなら困っている時に助けてくれたから。でも「羊」は「助けた覚えはありません」と言う。そこでキリストがこう答える。「小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」
逆に「山羊」たちは叱られる。なぜなら困っている時に助けてくれなかったから。でも「山羊」は「助けなかった覚えはありません」と言う。そこでキリスト。「小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです」
つまり貧しかったり病気だったり牢屋にいたり等で困っている人たち(小さい者たち)に対する善行は、神に対する善行だ、ということです。逆もまたしかり。
これはあまりに有名な話なので、今さら解説する必要ないと思いますが、クリスチャンにとって大切な行動原理の一つでしょう。「人の外見にかかわらず善いことをしよう」というような。もちろん聖書を引き合いに出すまでもなく、一般的なモラルとしてもそうだと思いますが。
この箇所が重視しているのは、ただの「善行」でなく、「小さい者たちへの善行」です。
ちなみに貧しかったり病気だったり牢屋にいたりするのを「小さい者たち」と呼ぶのも違和感がありますが、聖書がそう表現しているので、ここでは便宜上同じ表現を使うことにします。
金持ちや地位の高い人や何らかの力を持っている人たちに善行をするのは、ある意味で善行でないかもしれません。なぜなら見返りを期待できるからです。何らかのお返しを期待して、「善行」をしているのかもしれません。目的は善行そのものでなく、「お返し」の方にあるのかもしれません。
ちなみにこの「お返し」は、必ずしも金品や何かの権利ばかりではありません。たとえば職場の同僚や先輩や後輩に善行をするのは、今後も仕事を円滑に進めるうえで必要になるからです。そういう「お返し」もあると思います。
しかしこれが前述の「小さい者たち」になると、なかなかお返しができません。できても我々が期待するようなお返しではないかもしれません。そういう相手に対しては、「善行をしよう」という意識がグッと下がるかもしれません。
そこで、「外見にかかわらず」という考え方が必要になるわけです。
ちなみにこの「外見」とは容姿だけでなく、お金持ちだとか地位が高いとかいうステイタスも含みます。
「助けることで何のメリットも得られないけれど、相手が困っているのだから、助けよう」それがキリストのメッセージなのだと私は思います。
また「何のメリットも得られない」と書きましたが、聖書的には「キリストが見ている」というメリットがあります。「小さい者たち」はキリストとイコールで結ばれているはずですから。
というわけで「他者の外見をどう評価するか」という最初の命題に対しては、「外見で評価してはいけない」「外見は関係ない」という解が得られると思います。
これは『美女と野獣』的には、冒頭に登場する「貧しい老女」をどう扱うか、というエピソードに現されています。イケメン王子は老女を邪険に扱い、笑いものにし、助けないという選択をしてしまいます。結果はご存知の通り、醜い野獣に姿を変えられてしまったわけです。聖書の「羊と山羊」で言えば、彼は山羊の方でした。
③問われる選択・資質
クリスチャンである私たちは、この「羊か山羊か」の選択を、ある意味毎日のように問われているのかもしれません。
今困っているあの人に何かすべきだろうか、最近入院したあの人を見舞うべきだろうか、あの人はきっとこれこれで悩んでいると思うけれど大丈夫だろうか、震災に遭ったあの人たちに何かできることはないだろうか・・・。そうったことにどう対処するかが、実は神に対する私たちの態度なのかもしれません。
かと言って、必ずしも大きなことをすべきとか、絶えず人助けに尽力すべきだとか、そういう話ではありません。個人個人にできる些細なこと、わずかな労力や、わずかなコストや、わずかな犠牲でできることを「するかしないか」に、クリスチャンとしての「資質」が現れるのではないかなあと、単純に考えるだけです。
何かの映画でみたセリフに、こんなのがありました。
「嫌いな人間をどう扱うかに、その人の本性が現れる」
これは「小さい者たち」をどう扱うかという話にも通ずると思います。嫌いな人間だから痛めつけてもいい、虐待してもいい、どうなってもいい、と考えるかどうかの話です。聖書がそれにどう答えているかというと、「敵のために祈れ」の一言が一番端的かもしれません。
前回の「人格や礼節」の話に戻りますが、「SNS上の人たち」は、どこの誰だかわからない、素性がわからない、直接的な接触や援助は(一般的には)できないという点において、「小さい者たち」と言えるかもしれません。そういったSNS上の人たちに対する態度も、その人の「資質」を如実に現しているなあと思います。中にはいきなり「こいつ」とか「おまえ」とか「小物」とか言って他者を攻撃したり蔑んだりする「クリスチャンアカウント」がいますけれど、まあ「その程度の人物」なのだと私は思うことにしています。そういう人物が聖書がウンヌンだとかヘブル語的にはウンヌンがとか講釈しても、ちょっと・・・という感じです。
④まとめ
そんなこんなで『美女と野獣』は笑って泣けるだけでなく、人間の「内面」や「資質」についてクリスチャンっぽく考えさせられる、良質な一本でした。
個人的にはルミエールたち家来の皆さんが本当に愛らしくて良かったです。ネタバレは避けますが、最後のルミエールたちのアレには泣かされましたね。子供向け映画とか女性向け映画とかいうイメージがあるかもしれませんが、いやいや大人の男性も十分楽しめるエンターテイメントでした。興味のある方はぜひ、劇場へ。
最後に本作関連の私のツィートを転載しておきます。
#美女と野獣— fuminaru k (@fumiwriter) 2017年4月27日
エマ・ワトソンもいいけどエマ・トンプソン(ポット夫人)の歌が良かった。基本ミュージカル。最後のシーンはジーンときた。イアン・マッケランが出てるの最後まで気づかなかったよ。吹き替え版も豪華だから観てみたいなあ。 pic.twitter.com/JglZj2TVg4
またディズニーで初めてゲイのキャラクターが登場するって話だったけど、マイルドな演出だったのでわかりにくかったかな。でもディズニーは徐々にその傾向を強めてく気がする。今の子供たちから意識が変わっていけば、将来性的マイノリティを取り巻く環境も変わっていくかもと期待。— fuminaru k (@fumiwriter) 2017年4月27日
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