【書評】『パウロ 十字架の使徒』

2017年3月3日金曜日

書評

t f B! P L
 前回の書いた通り、私はこの3年ほど勤労学生をしていて、この3月で卒業する。だから3年間、ほとんど学校関係のテキストしか読んでこなかった。ずっとキリスト教関連の書籍を読みたいと思っていたけれど、我慢していた(そんな余裕もなかった、というのが正直なところである)。
 それでようやく卒業に漕ぎつけ、重要な試験も終わったので、少し前から読みたかった書籍をさっそく購入した。今回紹介したい、『パウロ 十字架の使徒』(青野太潮著・岩波新書)である。

 本書の魅力は、著者が使徒パウロについて綿密に研究し、その結果としてパウロの神学を「十字架の逆説」であると定義している点にあると思う。どういう「逆説」かと言うと、たとえば「イエスの十字架による殺害」が「神の栄光」と結びつき、「キリストの弱さ」が「強さ」と結びついている、というもの。それはキリスト自身が山上の垂訓で述べている、「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」という「逆説的な」教えとも通じている。つまり、パウロはキリストの教えを正しく理解していた、というのである。

 なかなか目からウロコな本であった。

 ただちょっと難解な部分もあって、私は理解するまで何度か読み直した。それでも正しく理解できているかちょっと不安なのだけれど、その理解を確認するという意味もこめて、ここに内容を(かいつまんで)紹介したい。特に難解だった「贖罪論の危うさ」のくだりを解説してみたい。

 ■贖罪論の危うさ

 本書の第4章に「贖罪論の危うさ」という項目があり、大変興味深かった。しかしこの項目を理解するには、第3章あたりから読まなければならない。要約すると、「贖罪」という概念においては、「イエスの十字架」と「イエスの死」とは厳密に区別しなければならない、ということ。もちろんキリストは十字架にかかって死なれたので、それらは一連の出来事だったはずだ。しかし著者によると、「イエスの十字架」は「イエスの殺害」を意味し、「イエスの死」は「イエスによる贖罪」を意味する。この「十字架」と「死」は交換不能で、つまり「十字架」は「贖罪」とは結びつかない、という。

 どういうことかと言うと、もし「十字架刑」を「贖罪」のための手段と考えるなら、それは旧約聖書的・律法的な解釈である、ということ。つまり律法を守れないユダヤ人が、その罪の身代わりとして動物を「生贄」として捧げたのと同じように、キリストもまた「十字架刑」で「生贄」となった、という考え方になる。
 これのどこがおかしいの? と不思議に思われるかもしれない。私もはじめは不思議に思った。
 でも何度か読み直すうちに、著者の言わんとすることが徐々に見えてきた。
 以下、私の解釈。

 キリストは古い契約(律法)でなく、新しい契約(恵み)を立てられた。その新しい契約は、古い契約に従って立てられたのではなかった。しかし「十字架刑」を「生贄」と考えるとしたら、それは古い契約に従うことになる。この場合「十字架刑」は、「罪」に対する「罰」ということになってしまう。

 しかし「十字架刑」はあくまで「イエスの殺害」方法であった。その意味するところは、「木にかけられた者は呪われる」という律法にある。この段階では、まだ新しい契約になっていない。だから「十字架刑」は「恵み」でなく、「贖罪」でもない。
 十字架刑を受けるキリスト自身は、なぜ自分が殺されなければならないのかわからなかった、と著者は書いている。引用すると、「十字架上のイエスの最期の絶叫は、これから起ころうとしている自らの運命をすべて知り尽くしている者の言葉ではない」(P180)

 つまり、「この十字架刑によって人類が贖われ、自分も復活できる」とキリストがあらかじめ知っていて、そのうえで「自分はみんなのための生贄になるんだ」と達観していたのではなく、むしろ絶望に打ちひしがれていた、ということ。このへんは、ぜひ本書で確かめてほしい。

 そのように、「十字架刑」は「イエスの殺害」であった。キリストは十字架で、律法による「呪われた者」となった。ここまでは、旧約の律法の中の話。まだ「贖罪」はなされておらず、当然ながら「復活」もない。「生贄」は新約聖書的な「贖罪」にはならない、ということ。

 だから「十字架刑」をそのまま「贖罪」「復活」と考えてしまうと、新約時代であるにもかかわらず、旧約的思考をそのまま持ち込むことになる。たとえば「目には目を、歯には歯を」みたいな、「悪いことした奴には罰をくわえろ」という考え方になってしまう。そこに「許し」はなく、「恵み」もない。

 筆者はこれを「ユダヤ教以来の贖罪論」と言っていて、「危険だ」としている。

 どう危険かと言うと、たとえば「天けい論」に発展してしまうことがある。本書の例を紹介すると、「関東大震災は堕落した東京都民に対する適当な天罰であった」という内村鑑三の言葉。「人々が堕落したから、罰を与えられなければならなかった」というもの。それはやはり旧約的・律法的だと私は思う。

■まとめ

 上記は、本書の内容のごく一部である。
 本書は全4章から成っていて、前半2章はわりと容易に理解できる。パウロの生涯と彼の書簡について論理的に考察されていて、大変勉強になった。後半2章はいよいよ「十字架の神学」「パウロの思想と現代」という難解なパートに入っていく。ここはぜひ繰り返し読んでいただきたいと思う。そして私の解釈に誤りがあるなら教えていただきたい。私自身、まだまだ本書の内容をすべて把握できたとは思えていない。

 著者である青野太潮氏は、西南学院大学の名誉教授をされていて、平尾バプテスト教会の協力牧師もされているということ。こういう方がキリスト教界にいらっしゃるならば、キリスト教界の未来は決して暗くはないのではないかな、と私は思う。


QooQ