クリスチャンって「勝利」しないといけないの?(クリスチャン勝利論について)

2017年2月25日土曜日

雑記

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 ◼️「すごく真面目な人たち」が陥りやすい苦しみ

クリスチャンにもイロイロな人がいるけれど、中には「すごく真面目な人たち」がいる。大概どこの教会にも、一人や二人いるような気がする。

 彼ら「真面目さん」には共通点がある。基本的に真面目で、几帳面で、律義である。そして個人的な悩み事について、悩んだり祈ったり相談したりした挙句、だいたい次のような結論(信仰の態度)に達する。

「この件は神様に委ねます」
「もう悩みません」
「ただ主だけを見上げます」
「聖書にある通り、強く雄々しくあります」
「もう決して揺るがされません」

 なんか優等生っぽい言い回し。
 そして教会で祈って、「勝利感」を得て、清々しい顔で、教会を出て行くのである。まわりの人たちからは「良かったね」とか言われる。
 でも次の週、その真面目さんの顔から清々しさは消えている。先週と同じような重苦しい顔をしてやって来るのだ。そして「委ねたつもりでしたが、まだ委ねきれていません・・・自分はまだまだ未熟な者です」みたいなことを言う。

 つまりこういうこと。
「委ねます(嬉)」→「でもまだ委ねきれていません・・・(悲)」
「ただ主だけを見上げます(嬉)」→「でもまだ問題を見てしまいます・・・(悲)」
「強く雄々しくあります!(嬉)」→「でもまだ・・・

 みたいなことが毎週毎週、繰り返される。形はイロイロ変わっても、根本的なところは一つも変わらない。その悩み事が解決される様子はなく、気付くと何年も続いている。

 そんな真面目さんはそのうち、「すでに解決したと信じます」みたいなことを言い出して、まるで問題なんてはじめから「なかった」みたいに振る舞いはじめる。妙に笑顔だったり、妙に元気だったりする。けど、なんかアンバランスな雰囲気がある。無理して気丈に振る舞っているんじゃないかなあ・・・と思わせる何かが。

 こういう話は、一部の教会群では「クリスチャンあるある」みたいに多いと思う。そしてそこに陥りやすいのが、の真面目さんたちなのである。私の感覚では。

 たぶん真面目な分だけ、思い詰めてしまうんじゃないかなあ・・・と思う。無理して気丈に振る舞っても、問題が根本的に解決しないと意味ないと思うんだけど。

◼️判断しない? 判断する?

 それと同じような文脈で、こんな風に言う人たちがいる。

「神様の導きに従うのみです」
「神様に語られるままにします」
「神様が教えて下さると信じます」

 なんか受胎告知のマリアさんみたいな敬虔な物言い。
 何事も自分の希望や願望でなく、ただ神様に導かれるままに生きたい、みたいな心情なのであろう。それはそれでわかるし、否定しない。
 けれどこういう主張の一番の問題は、「それが神の導きだとどうやって確認するのか」に尽きると思う。ある行動を「これは神の導きだ」と主張しても、それが自分の思い込みや、自分の密かな願望や、勝手な解釈で「ない」とどうやって証明するのか、という話。

 ここで、こんな反論が、荘厳なオーケストラと眩しい照明を背景に語られるかもしれない。
「信仰とは、理屈でなく、ただ信じることなのです(ドヤッ)」

 でも私が問題にしているのは、「ただ信じる・ただ信じない」という話でなく、「何を」信じるのか、である。そしてその「何を」がどこから湧いてきたのか、である。

「神様の言うことに従います」とはつまり「自分で判断しません・できません」ということのはず。だから「神様に言われるままにします」という表現になるのであろう。だけど、それは同時に、何が「神様の言うこと」なのかを判断しなければならない、ということでもある
 すなわち「自分で判断しない。でも何が神様の言葉かは自分で判断する」という状態。すごい矛盾なんだけど、当の本人たちは、残念ながら気づいていない。

◼️真面目な信徒ほど苦しむ「クリスチャン勝利論」

 話を戻す。
「すごく真面目な人たち」の「主に委ねます」というセリフにも、これと同じような矛盾がある。
 つまり、ある問題に対して「委ねよう」「信頼しよう」「悩まないようにしよう」「強くあろう」「揺るがされないようにしよう」と頑張っているけれど、もはやそれ自体が苦行になってしまっている、ということ。問題そのものとは別に、「委ね難いけど委ねなければならない。委ねないとダメなんだ。でも委ね切れない。どうしうたらいいんだろう」という部分でも苦しんでいるのである。

 完全に本末転倒だと思う。苦しみを回避しようとして、余計な苦しみを負っている。
 ではどうすればいいのか。私の答えはシンプルだけど、「そんな無理しなくていいんじゃないの」

 この矛盾の主要な原因は、教会の教えにあると私は思う。すなわち、

「クリスチャンは逆境にあっても強くあらねばならない」
「クリスチャンはどんな状況でも勝利しなけばならない」
「キリストが強かったように、勝利されたように、クリスチャンもそうでなければならない」

 みたいな「クリスチャン勝利論」にあると思う。
 でも、人間生きていればイロイロな状況に直面する。良いこともあれば悪いこともある。生きていて一度も苦しんだことのない人なんていないであろう。むしろ継続的な葛藤を抱えている人の方が多い気がする。

 それはクリスチャンも同じでしょ。

「クリスチャンは困難なことがあっても、神様がいるから幸いです」
 みたいなことを言う人がいるけれど、私に言わせればそんなのキレイゴトなんだよね。たとえば映画『沈黙』を観てもそれがわかるんじゃないの。あれ自体はフィクションだけど、ああいう迫害は現実にあったわけで、実際多くのキリシタンたちが惨たらしい最期を迎えた。彼らは沢山苦しんだけれど、神は沈黙された。なぜ? カトリックだから? プロテスタントは違うの? いやいや歴史をみれば、プロテスタントだって散々迫害されてきたからね。

 時々教会で、「神様に劇的に助け出された人」の偉人伝を聞くけれど、身近なところでそういう人、います? 苦しんでいる人が劇的に、偶然とかじゃなくて、神様の介入としか考えられない方法で、助け出されてハレルヤ! なんて事例あります? あるなら詳しく教えてほしい。事実確認するから。
 ちなみに私は教会歴ウン十年で、イロイロな地域のイロイロな教会に行ったし、たくさんのクリスチャンに会ってきたけれど、そういう人は見たことがない。「劇的な救出譚」は全部、伝え聞いた話でしかない。しかもその話がどこの誰のことで、いつのことで、みたいなディティールは、まるでわからない。

◼️キリストって、クリスチャンって、「強い」の?

 私が思うに一部の教会は、「強いイエスさま」とか「強いクリスチャン」とか「教会常勝」とかを強力に信じてしまっている。「強い」から決して負けない、弱々しくない、みっともなくない、みたいなことを強調しすぎていると思う。
 でも現実的に考えてみて、キリストが(実際に強いかどうかは別として)強い態度でいたら、あんなふうに十字架にかけられただろうか。十字架上で悠然と、余裕な感じで死んでいったなら、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」みたいな泣き言を言っただろうか。そしてそれ以前に、ゲツセマネであんなに苦しみ悶えただろうか。

 この点では青野太潮(あおのたしお)氏による『パウロ 十字架の使徒』という書籍が詳しいので、興味のある方には是非読んでほしい(記事の一番下にリンクを貼ります)。
 内容の一部を紹介すると、パウロは自分の書簡において「十字架につけられたままのキリスト」という表現を使っている。それはキリストの「殺害」と、その正反対にある「神の栄光」とを結びつける言葉で、いわば「十字架の逆説」である。つまり十字架上にいるのは「強くて自信に満ちたキリスト」でなく、「弱くてみじめなキリスト」なのだ。という感じ。ごく一部だけれど。

 私自身、苦しいことや悲しいことはもちろん嫌だし、できるものなら避けたい。誰もがそう願うだろう。でも現実にはそうはいかない。そして神様が私たちをそこから劇的に助け出されるかというと、現実的にも経験的にも歴史的にも、確認できていない。その意味を、私たちは考えるべきだと思う。

 もし神様が苦しむクリスチャンをいつも劇的に助け出されるとしたら、そういう事例が西暦1世紀からあちこちで、それこそ膨大な数が(しかも詳細な内容で)確認されているはずだ。先の『沈黙』のような出来事は起こらなかったはずだろう。しかし現実には、その逆の残酷な迫害の数々が、ずっと確認され続けている。それが何を意味するかと言うと、理不尽に苦しめられる多くのクリスチャンたちが、助け出されることなく死んでいった、ということに他ならない。十字架上のキリストと同じように。

 私は信仰を否定しているのでなく、神の力を否定しいるのでもない。
 クリスチャンは必ず勝利しなければならない、という信仰観を問題視しているだけ。

 そういう「クリスチャン勝利論」が、先の真面目さんたちを苦しめているんだと思う。問題を神様に委ねなければならない、悩んではいけない、強くなければいけない、勝利しなければならない、という教会の教えが強迫的に彼らに迫るのである。結果、個別の問題は解決せず、解決しないという事実がまた二次的な問題となって、彼らにのしかかっているのである。

 そういう真面目さんたちにこそこの記事を読んでほしい。そして苦しいことや悲しいことに「神様」や「信仰」や「勝利」をやたら引っ張ってくるのでなく、それらに正面から直面してほしい。そして「悩んではいけないけど悩んでしまう」みたいなことで悩まないでほしい。

 あなたの問題が解決するかどうかはわからない。長い期間悩まされることになるかもしれない。既に長い期間、悩んでこられたかもしれない。けれど一つ確実に言えるのは、キリストもまた苦しまれ、しかも一切救われなかった、ということ。何の励ましにもならないかもしれないけれど。

■書籍の紹介

 文中で紹介した書籍、青野太潮(あおのたしお)氏の『パウロ 十字架の使徒』のリンクを以下に貼ります。興味のある方はどうぞご覧ください。

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