tag:blogger.com,1999:blog-295707364324746106.post7120089639998175202..comments2024-01-31T22:29:56.710+09:00Comments on ふみなるのブログ: 神の「召し」を誰がどうやって確認するか、という話・その3fuminaru kawashimahttp://www.blogger.com/profile/06644023616804614026noreply@blogger.comBlogger4125tag:blogger.com,1999:blog-295707364324746106.post-86722690488397402532015-04-14T21:56:27.328+09:002015-04-14T21:56:27.328+09:00│プロテスタントに行く前に正教会やカトリックで基本的なことをしっかり学ぶことがなかったのが最大の原因...│プロテスタントに行く前に正教会やカトリックで基本的なことをしっかり学ぶことがなかったのが最大の原因ではないかと思うのです。<br /><br />カトリックもオーソドックスもアングリカンも近くにないことがありますよね(苦笑)<br /><br />新興宗教系プロテスタントしかなくても、その気になれば正しく判断できるほどの社会にしていかなければなと思うのです。<br />Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-295707364324746106.post-17953895206416719702015-04-13T21:59:41.224+09:002015-04-13T21:59:41.224+09:00神でない牧師を神聖視したり、それを許す信徒にも大いに責任があります。
あなたは間違っていません。神でない牧師を神聖視したり、それを許す信徒にも大いに責任があります。<br />あなたは間違っていません。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-295707364324746106.post-79145784604995478242015-04-13T19:34:57.595+09:002015-04-13T19:34:57.595+09:00この場合は信者の側にも確かに責任はないとは言えないと思いますが、もちろん一番悪いのは聖職者の側である...この場合は信者の側にも確かに責任はないとは言えないと思いますが、もちろん一番悪いのは聖職者の側であるといえましょう。どちらにせよ共通して言えることは、プロテスタントというものがどういったものなのかが、全然わかっていないということにあるのではないでしょうか。<br />新興宗教系のプロテスタントは反知性主義が特徴なのですが、反知性主義ゆえにしっかりとキリスト教の基本的な部分を学ぶということをしていません。<br />この教会は聖職者も信者も、たぶん初めて足を踏み入れた教会が新興宗教系のプロテスタントで、たぶん正教会やカトリックでしっかりと学んだ経験のある人は一人もいないのではないかと思います。<br />プロテスタントの中にいると、プロテスタントというものがどういうものなのかがわかりにくくなってしまうのではないでしょうか?外から客観的に見る機会がないからです。<br />プロテスタントというものがどういうものなのかがわかっていないのであれば、当然プロテスタントの聖職者というものがどういうものなのかもわかることはできません。<br />この教会の聖職者の主張のおかしさに気付かないのは、プロテスタントに行く前に正教会やカトリックで基本的なことをしっかり学ぶことがなかったのが最大の原因ではないかと思うのです。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-295707364324746106.post-45169727546867400452015-04-13T12:49:14.394+09:002015-04-13T12:49:14.394+09:00うちの主任牧師が言うには 中国・韓国・日本はひとつになると 示されたらしい。そして、彼女は(女牧師)...うちの主任牧師が言うには 中国・韓国・日本はひとつになると 示されたらしい。そして、彼女は(女牧師)アジアの母になると召しをうけたらしい。聖書にないので確認のしようがない。うちの先生はすごい先生なんだーという構図ができた。<br />ちなみに副牧師は世界に出て行く器らしい。何処何処の大統領が彼を招く迄になるらしい。<br />彼は世界にでて行く器なのだから、と甘やかし続けている。<br />これもまた、ほんとかどうか確認のしようがない。<br />もはや ここの信者を含め、「このすごい牧師に仕えている私」に陶酔状態で、誰も止める者がいない。2次、3次軍はというと、いつか自分がそこの座につけるかも知れない自分に敬礼しているようにも見える。召しって言葉だけで 奴隷にもなりうるキリスト教徒。<br />牧師という、冠がついただけで、間違っている事を間違っていると言えない状況。指摘も裁きとして責められる環境。それを許す信徒にも責任がなかろうか。Anonymousnoreply@blogger.com