2018年7月30日月曜日

クリスチャン女性は、露出の多い服装をしてはいけないのですか?

 今回はクリスチャン女性の服装のお話です。
 女性でない私が書くのも変かもしれませんが。すみません。

 一部の教会だけかもしれませんが、まことしやかにこんなことが言われています。
女性は露出の少ない、慎ましい身なりをしなさい

 つまり女性は服装について、2つをオーダーを受けるのですね。
 1、露出の多い服装ではいけない。
 2、派手な、あるいはファッション性の高い服装ではいけない。

 誤解のないように書いておくと、これらは聖書からのオーダーでなく、教会からののオーダーです。

 一方で男性には、さほど守るべきオーダーはないようです。あんまりカジュアルじゃなければいいよ、みたいな。さすがに牧師はスーツで着るのがルールのようになっていますが。

 さて、ではどうして女性だけが、厳しいルールに晒されるのでしょうか。

 その理由の一つは、露出の多い服装は男性にとって誘惑になるから、です。
 男性は特に「情欲の罪」に陥ることが多いですから、そういう誘惑になりえるものを見せてはいけない、できるだけ隠さねばならない、というわけです。

 以前、ある牧師からこんな話を聞きました。
 神学生時代のある夏、同級生の女子がよくタンクトップで過ごしていた。自分はそれを見ないように一生懸命避けた。しかし彼女と一緒に活動することが多かったから、思い切ってこう頼んだ。「そういう服装はやめて、袖のある服にしてくれ」
 彼女は渋った。けれど「誘惑になるから」と正直に説明したら、最終的に納得してくれた。以降、彼女は袖のある服を着るようになった。ハレルヤ。

 要は、「誘惑を避ける自分スゴイ」という自慢話です。その裏で女性に我慢を強いている点はガン無視なのですが。

 これと同じような話をあちこちの教会で聞きます。簡単に言うと、女性の服装を制限して男性を誘惑から守れ、という話です。男性牧師が講壇の上からそういう「命令」を発する教会もあります。

 もちろん男性側の気持ちもわかりますよ。真面目に神様に仕えたい、誘惑に陥りたくない、まして罪を犯したくない、それに女性だって露出の少ない服装にした方が「安全」なはずだろう、というような考えですよね。
 それはそれで正論のように聞こえます。

 でも女性の権利を無視していますね。そして「男性は守られるべき」と当然のように考えてしまっています。女性の立場を一切考慮していません。しかもその状態があまりにも当たり前すぎて、そのことにさえ気づかなくなっています。

 まるで「女性は男性に仕えるために存在する」とでも考えているようです。その結果として、厨房の奉仕は女性のもの、お茶出しは女性がするもの、女性が動かないといつまでたってもケーキが取り分けられない、みたいな不文律が出来上がっているのではないでしょうか。

 またそのような価値観を、女性が女性に押し付ける場合もあります。彼女らは露出の多い服装の女性を「ふしだら」と言い、ファッション性の高い服装の女性を「場違い」と言います。

 もちろん礼拝は「典礼」ですから、あんまり浮かれた服装なのもどうかと思いますよ。また教会は一種のコミュニティですから、そこに加わる以上、そこの文化や考え方に沿うのも必要でしょう。なんでも好き勝手にできる、というわけでもありません。

 でも同時に言えるのは、女性は男性に仕えるために存在しているのではない、ということです。
 創世記を引っ張り出して「女性は男性の助け手として造られた」と主張する人もいるでしょうが、だったら男性だって女性を助け、守るべきです(パウロの書簡をよく読みましょう)。なぜ女性だけが一方的に犠牲になって、タンクトップを諦めなければならないのでしょうか。

 男性の「情欲」の問題は、男性側の問題です。女性の責任ではありません。なのになぜ女性にだけ変化を求めるのでしょうか。男性は男性で、女性に迷惑をかけない形で、解決策を探したらいいのではないでしょうか。

 それに「情欲」の問題について、イエスがちょっと遠まわしに、でもとっても効果的な解決方法を教えてくれているのを、皆さんご存知ですか?
 マタイによる福音書5章29節に書いてありますから、どうぞお家に帰ってじっくり読んでみて下さい(笑)。

2018年7月28日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第94話

これまでのあらすじ
「50時間の祈り」のデモンストレーション。礼拝を混乱させてしまったキマジメくんのチームが、溝田牧師に呼び出される。牧師に一方的に説教され、納得できないタタカイ兄弟は、真っ向から反論してしまう。(前回の話はこちら
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 ルツ姉妹とキマジメくんの心配をよそに、タタカイ兄弟が続けた。
「主が秩序を守るお方なら、なおのこと、選曲を急に変更させるなんてこと、しないと思いますが」
 溝田牧師は眉間に皺を寄せ、明らかに険しい顔をしているが、努めて冷静を保とうとしているようだった。「タタカイ兄弟、それは主を人間の手のひらで転がすようなものだよ。非常に危険な考え方だ」
「手のひらで転がす?」とタタカイ兄弟。
「そう。神様はこういう方だから、こうだ。こういう方でないから、こうではないはずだ。という考え方だよ」牧師はふんぞり返ったまま、今やタタカイ兄弟をほとんど睨んでいる。「それは神様を狭いところに閉じ込めて、自分のコントロール下に置くような行為だ。大変不遜な、冒涜的な行為だよ。タタカイ兄弟、気をつけたまえ。君は今、罪を犯すギリギリのところにいる」
 牧師はタタカイ兄弟を何度か指さした。そのまま指からレーザー光線が飛び出して、タタカイ兄弟の胸を貫きそうな勢いだった。
 しかしタタカイ兄弟はまだ諦めていなかった。
「では、主は秩序を守られるとは、どういう意味なのですか? 秩序を守られないこともある、ということですか? であるなら、主は秩序を守られる方だとは言えなくなります。先生は先程から、主は秩序を守られると言っていますが」
 溝田牧師は大きく溜息をつくと、爪の間のゴミを取るかのように指をコシコシ擦った。
「タタカイ兄弟、揚げ足を取るのはやめてくれないかな。そういう言葉遊びを、主は喜ばれない。むしろ悲しんでおられるぞ。信仰とは何の関係もないことだからだ」
「信仰と大いに関係あることです」タタカイ兄弟はあくまで引かない。「主が秩序を守られる方なのか、そうでないのか、と聞いているんです。質問することを主が悲しまれるなんてこと、あるはずがありません」
「それだよ! タタカイ兄弟!」ついに牧師が怒鳴った。「主はこういう方だからこうだ、と決めつけて冒涜するのはやめたまえ! 聖霊を冒涜する罪は許されない! と聖書に書いてあるだろう! それとも君は永遠の地獄に落とされたいのか!」
「これが冒涜だったら、僕たち何も質問できないじゃないですか!」タタカイ兄弟も声を荒げた。「おかしいと思ったことをおかしいと言っているだけです! それのどこがいけないんですか?」
 隣でルツ姉妹がビクッと動くのがわかった。その小刻みな震えが、ソファを伝って、キマジメくんをも震わせた。恐怖に震えるルツ姉妹は気の毒だけれど、どうすることもできない。キマジメくんは身動き一つしないで、自分の両膝を見つめるだけだった。
 牧師はフーッと息を吐いて、今度は声を落として言った。
「タタカイ兄弟、君には自分の傲慢さが見えていないようだ。傲慢とはね、気づかないうちに人を盲目にさせるものなのだよ。タタカイ兄弟、君は今、サタンと同じ傲慢の罪に落ちてしまっている。僕は悲しいよ。万が一にも君が地獄に落ちるようなことがあったら、僕は君のお父上に申し訳が立たないじゃないか。ほら、タタカイ兄弟、お父さんのことを思って、その傲慢の罪を認めなさい。そしてこんなくだらない議論など、もうやめようじゃないか」
 いやに優しい、諭すような口調だった。とても怒鳴ったばかりの人間の口調とは思えない。
 溝田牧師がこんなに丁寧に話す理由が、キマジメくんはわかった気がした。
 タタカイ兄弟のお父さんが、他教会の牧師だからだ。よその牧師からタタカイ兄弟を預かっている立場だから、さすがの溝田牧師も、強く出られないのだ。これがタタカイ兄弟でなくキマジメくんのような平信徒だったら、すでにコテンパンにやられていただろう。
 でもそれは不公平ではないか、とキマジメくんは思った。相手によって態度を変えるのが、クリスチャンとしてふさわしい行為なのだろうか。まして牧師が?
「父のことは関係ありません」タタカイ兄弟がピシャリと言った。「それに、これはくだらない議論なんかじゃありません。むしろ、僕たちの信仰の根幹に関わる大切な問題です。主が秩序を守られる方であるなら、なぜ急に選曲を変えたりするのか? 僕はさっきから、そのことを聞いているんです」
 今度は溝田牧師は、さぞおかしい冗談でも聞いたかのように、笑い出した。
「タタカイ兄弟、熱心なのは認めるよ、ハッハッハ・・・・でもねえ、そんなことを考えすぎたって、仕方ないだろう、ハッハッハ・・・」
 タタカイ兄弟は無言で牧師を見つめている。キマジメくんもついに顔を上げて、笑い続ける牧師を見た。牧師は笑っているが、楽しそうには見えない。むしろ呆れているようだ。
「タタカイ兄弟ねえ、」笑いを一段落させて、牧師は苦しそうに言う。「私たち人間に、神様のことが全部わかるわけないじゃないか。全部わかったら、神様なんて要らないだろう? 人間には計り知れない、偉大なお方だから、神様なんだよ。その神様を、私たちの浅はかな考えでああだこうだと論じたって、意味がないんだよ。わからないものはわからないんだから」
「でも先生は、よく『主に語られた』とおっしゃいますよね」タタカイ兄弟はあくまで食い下がる。「ということは、神様のことがわかるということです。でないと『語られた』とは言えないじゃないですか」
「主に語られたことは語られたことだ」今度は牧師がピシャリと言った。「語られたことであれば、わかる。しかし、それ以外はわからない。主が明かされた真理はわかるけれど、まだ明かされていない真理はわからない。当然だろう? いったい、これのどこがおかしいんだね? ん?」
「ではもう一度聞きますが、」とタタカイ兄弟。「主は秩序を守られる方なんですよね? であるなら、どうして礼拝直前に選曲を変えたりするんですか?」
「もう話にならないな!」また牧師が声を荒げた。懐柔できないと思ったのだろう。「他でもない、タタカイ兄弟だからここまで忍耐したが、もう限界だ! これ以上こんなことを続けたら、僕まで悪霊の悪い影響を受けかねない! 僕はこの教会の牧師だぞ! 神によって油注がれ、聖なる務めに任命され、この群れを守るように遣わされた、神の器だぞ! その僕が悪霊の影響など受けてしまったら、この教会の羊たちはどうなるんだ! 敵に引き渡され、簡単に八つ裂きにされてしまうんだぞ! そんなことになったら君、責任をとれるのか!? えぇ!?」
 牧師はそう怒鳴りながら前のめりになって、テーブルをドンと叩いた。木製のテーブルが跳ね上がって、ガタガタ言いながら着地した。ルツ姉妹もそれと一緒に跳び上がって、「ヒッ」と小さく叫んだ。しかしキマジメくんは何も聞こえないかのように、また俯いて、自分の両膝を見つめるのだった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年7月26日木曜日

カミングアウトとか、アウティングとか

 最初に断っておきますが、今回はキリスト教とは全然関係ない話です(すみません)。

 いきなりカミングアウトしますが、私は吃音症です。ご存知の方もいらっしゃいますが、知らない方が多いはずですので、ここで表明しておきます。

 吃音症とは言葉が詰まって出なかったり、最初の音を繰り返してしまったりと、コミュニケーションに齟齬をきたす障害です。たぶん皆さんの学校にも職場にも、一人くらいはいると思います。統計的には百人に一人くらいが吃音症みたいですから、そんな稀少生物ではありません(笑)。

 なぜここでカミングアウトするかと言うと、今回は「カミングアウト」について書きたいからです。

 カミングアウトとは、「まだ公にしていないことを自ら表明する」ことですね。あるいは「秘密を明かす」と言ってもいいかもしれません。 ちなみに第三者がそれを勝手に暴露してしまうのはアウティングです。

 性的マイノリティの方が友人にアウティングされて、それを苦に自殺してしまった、というケースが以前ありました。アウティングは礼儀としても良識としても、絶対にやってはいけません。

☆ ☆ ☆

 それはさておき、私は物心ついた頃から吃音症でした。

 それが「吃音症」だとわかったのは随分あとになってからですが、たしか小学生中学年くらいから、「自分は何かおかしい」と感じていました。
 しゃべりたいことがしゃべれない。他の子がスラスラ言えることを、自分は言えない。誰もが気軽に発している言葉というものを、自分は気軽に発せられない。

 たぶんはっきり言語化できていませんでしたが、これは重大な障害か、あるいは病気だと認識していました。
 でも身体は健康だし、勉強に付いて行けないわけでもありません。あくまで「言葉が出づらい」だけです(だけ、でもないのですが)。だから何となく弱音を吐いてはいけないような、助けを求めてはいけないような、いやむしろこの障害(病気?)を知られてはいけないような、そんな気持ちでした。
 なので私は「無口な子」になって、できるだけしゃべらないで済むような環境を作ろうと思いました。子供心に。

 だから「自分は吃音症です」なんてカミングアウトする日が来ようとは、夢にも思いませんでしたね。人生とはわからないものです。

☆ ☆ ☆

 ところでカミングアウトするのは「良いこと」なのでしょうか、「悪いこと」なのでしょうか。
 あるいはカミングアウトとは「すべき」ものなのでしょうか。できるだけ「しない」方がいいものなのでしょうか。

 私の場合で言えば、カミングアウトするかしないかは、さほど重要ではありません。カミングアウトしたって、吃音症は変わらないからです。

 もちろん、「カミングアウトした方が気持ちが楽になります」という意見もあるでしょう。それで周囲の理解を得られて、生きやすくなるのかもしれません。

 でも私に言わせれば、理解してくれる人は、私がカミングアウトしなくてもすでに理解してくれています。私のしゃべり方がおかしいのに気づいていて、それでも私を受け入れていて、支えるような気持ちで(すでに)接してくれています。

 逆に理解しない人は、私がカミングアウトしたって理解しません。下手するとはじめから理解する気がなくて、「リラックスしてしゃべればいいじゃん」「なに緊張してんの」みたいな無理解を露呈するだけです。

 あ、すみません。べつに理解しない人が悪いとは思っていません。そういう人はそういう人で、べつにいいんです。

 これにはたぶん、吃音症という障害の特徴も関係しています。
 たとえば同性愛指向の場合、そういう素振りを見せず、黙っていさえすれば、誰にも知られないかもしれません。でも吃音症の場合は、しゃべればすぐにわかります。隠し通すことはできません。一般的な社会生活を送る限り、人前で吃音を晒すのは時間の問題です。

 だから吃音症に関して言えば、カミングアウトとは「秘密を明かす」ことでなく、「改めて確認する」ことかもしれません。
「自分、吃音症なんだ」
「ああ、やっぱりそうだったんだね」
 みたいな。

☆ ☆ ☆

 ただそれでもやはり、カミングアウトすることにはちゃんと意味があると思います。

 たとえば、あくまで私の場合の話ですが、「自分は吃音症です」と表明して相手がどんな反応をするかは、けっこう重要な指標になります。私という人間を理解する気があるかないか、受け入れる気があるかないか、わかるからです。
 あるいはわざわざカミングアウトしなくても、私が吃って仕方がない時にどういう反応をするか、それを見ればいいのですが。

 べつに理解してほしいとか、受け入れてほしいとか、思っているのではありません。
 ただ私の一番晒したくない部分を見た時に、相手がどう反応するか、それが私にとって大きな意味がある、という話です。

 ただこれは、私の吃音症に限った話ではありません。
 たとえば、私たちがまだ公にしていない何か、公にできない何か、秘密にしておきたい何か、絶対に知られたくない何か、にも同様に言えることです。

 つまり、私たちが一番カミングアウトしたくない部分というのは、もしかしたら、本当の友だちを見つける鍵になるかもしれない、ということです。

☆ ☆ ☆

 私の友人の一人に、ゲイの男性がいます。
 付き合っていく中で、私は彼がゲイだと気づきました。と言ってもあからさまな出来事があったのではありません。些細なことの積み重ねで、それとなく気づいたのでした。

 でも彼が自らそのことを打ち明けない以上、私も気づかない振りに徹しよう、と思いました。彼がゲイであるかないかは、私にとって(言い方が悪いかもしれませんが)どうでもいいことだったからです。ただ彼が秘密にしておきたいことなのなら、私もその秘密を守ろう、とは思いました。

 しかし時期ははっきりわかりませんが、気づいていない振りをしている私に、彼の方が気づきました。そして観念したように「実はゲイなんだ」と打ち明けてくれました。でも私は「うん」と言っただけでした(「はい」だったかもしれません)。それ以降も、彼とは変わらず友人のままです。

 彼のカミングアウトは、それはそれで嬉しかったのですが、私にとってほとんど意味のないものでした。なぜならすでに知っていたし、たとえ知らなかったとしても、それで何かが変わるわけではなかったからです。

 カミングアウトについてはまだまだ書くべきことがあると思いますが、友情自慢をさせてもらってキリがいいので(?)、今回はこのへんで終わりにしておきます(笑)。

2018年7月24日火曜日

1頭か99頭か問題

 こちらのツィートを興味深く読みました。

https://twitter.com/37_2_le_matin/status/1021364787773464576

 故・又吉イエスさんの選挙ボランティアをやっていた瑠璃子さんの告白です。

 又吉イエスさんと言えば、「唯一神又吉イエス主義」なるものを掲げて、衆議院選挙などに何度も立候補していた人です。ご存知の方も多いと思います。
 私は聖霊派教会で頑張っていた頃、彼の選挙ポスターを見るたび、「こんな異端信仰の人間が当選するはずがない」みたいなことを思っていました。実際の彼を見たことはありませんが、ポスターから受ける印象を10段階で評価したら、マイナス100くらいでしたね。とにかく忌み嫌っていました。

 しかし上記の瑠璃子さんは、私とは違う印象を持っていたようです。

 上記の連投を要約すると、こんな感じです。
 レイシスト男やDV男に苦しめられていたけれど、又吉イエスさんの選挙ボランティア活動をすることで、世界が広いことに気付いた。自分の生き方は自分で決めていいんだと知った。又吉イエスさんとの出会いは、自分にとってコペルニクス的転回をもたらした。

 つまり私が嫌悪していた又吉イエスさんによっても、救われた人がいた、ということです。
 この「救い」とは、いわゆるキリスト教的「救い」とは違いますけれど。

 しかしそれもまた事実だろうと思いました。

 私の教会も、振り返ればいろいろ問題がありましたけれど、一方でDV被害者を一時保護したり、不登校児をケアしたりもしました。そういう人たちからすれば、教会の方針ややり方が何であれ、「助けられた」のは間違いなかったでしょう。

 傍目におかしな組織でも、そこで救われる人もいる、ということです。
 もちろん、それ以上に多くの被害者を出しているかもしれませんが。

  これは功利主義vs博愛主義の構図かもしれません。
 多くの被害者を出す組織なら、そこで救われるわずかな人を切り捨てでも潰すべきだ、というのが功利主義です。

 わかりやすく具体例で書きますと、こうなります。
 又吉イエスさんの活動は害悪でしかないから、潰してしまおう。その結果、上記の瑠璃子さんがDV被害から抜け出せなくなったとしても、それはより多くの救済のためだから仕方ない。諦めてもらおう。みたいな。

  実は聖書は、このような状況について言及しています。
  100頭の羊を飼ってい、1頭が迷子になってしまった。さて羊飼いはどうするべきか。諦めるべきか。でも神が羊飼いなら、99頭を置いて1頭を探しに行くよ。という話です(マタイの福音書18章)。

 その1頭を探しているうちに99頭が狼の襲撃に遭ったらどうするんですか、というのがこの話のツッコミ所なのですが、もちろん答えはわかりません(笑)。

 1頭か、99頭か。
 さて、皆さんはどう考えるでしょうか。

2018年7月22日日曜日

聖書を「言い訳」に使っていませんか?

 聖書を適切に「引用」するのでなく、「言い訳」に使ってしまうことがあると思います。
 いかにも信仰深そうに見せて、実は自分の我を通したいがために聖書を利用しているだけ、というようなことですね。
 やったことがある人、怒らないから手を挙げて下さい(笑)。

 あるキリスト教関連団体が、存続の危機に陥りました。
 詳しく書きませんが、非常に難しい状況でした。このまま廃止すべきか、それとも頑張って再建を目指すか、意見は真っ二つに分かれました。議論は紛糾し、幾晩も続き、それでも結論に達しません。みんな疲れて、険悪なムードになりました。

 ある人は言いました。
「聖書は見切り発車するなと言っているでしょう?」
 またある人はこう言いました。
「信仰によって一歩踏み出さねばならない時もあります」

 聖書はいろいろなことを言っています。時に相反することも言っています。
 また文脈から切り取りさえすれば、可能性はほとんど無限大に広がります(笑)。

 だからある主張が、聖書から支持されているように見えても、別の箇所を開くと、必ずしもそうでない、なんてこともあります。

 結局上記の団体は、内部分裂しました。
 意見が完全に分かれてしまいましたから、それも仕方なかったと思います。

 しかしこれと同じようなことが、キリスト教会ではわりと普通に起こっていると思います。

 聖書はこう言っているでしょう? なぜあなたはそんなことをするの?
 聖書ははっきり◯◯だと言っています。だから私たちはこうすべきです。

 自分がこうしたい、という願望を、聖書の言葉にうまく乗せて、なんとか通そうとするわけです。
 そこまでして我を張りたいのでしょうか。それはそれで(私個人は)全然構わないのですが、幼いなあと思わずにいられません。

 言うまでもないことですが、聖書は「引用」すべきであって、「言い訳」に使うものではありません。
 教会でバイブルスタディとか聖書の学び会とかするのであれば、まずはそういうこと教えるべきではないかな、と私は思います。

2018年7月20日金曜日

クリスチャンは「聖霊の宮」なのですか?

 前回「悪魔の要塞」の話をしましたので、今回は「聖霊の宮」の話をします。

 私たちの心は「悪魔の要塞」ができてしまったり、それでいて「聖霊の宮」であったりと、いろいろ忙しいようです。皆さんの心の中は、どうなっているでしょうか。

 聖書には「あなたがたのからだは聖霊の宮です」(第1コリント6章19節)とはっきり書かれています。「心」でなく「からだ」と明記されていますが。
 いずれにせよ「私=聖霊の宮」というのは、否定できない事実のようです。

 前回の話によるならば、私たちは油断(?)していると、心に「悪魔の要塞」が造られてしまうようです。ということは、「聖霊の宮」の中に、「悪魔の要塞」ができる、ということです。ロシアのマトリョーシカみたいですね(笑)。

 いえ、笑い事ではないのですが。

 私たちの中で、「聖霊の宮」と「悪魔の要塞」との、熾烈な争いが起こっているのでしょうか。
 よく昔のアニメやドラマなんかに、悩める主人公の左右に「天使」と「悪魔」が立って、それぞれに「こうすべき」と主張し合う、なんてシーンがありました。最近ではガン保険のAFLACのコマーシャルで、良いアヒルと悪いアヒルがそれぞれ「保険に入るべき/入らないべき」を論ずるシーンがありましたね。
 あんな感じで、私たちの心では、いつも「神の側」と「悪魔の側」が対立しているのでしょうか。

 では、私たちの心とは、いったい何なのでしょう。
 いつも「神」か「悪魔」の影響を受けながら判断しているのなら、私たちの「素の意識」とは何なのでしょう。そもそも「素の意識」などあるのでしょうか。

 私の教会ではよく、こんなことが言われていました。
いつも祈り、御言葉で武装し、聖霊で満たされていれば、神の御旨に沿った判断をすることができる。悪魔に惑わされることなどない

 だからいつも聖書を読め、たえず祈れ、聖霊を心に迎えよ、というわけです。
 いかにも信仰的に聞こえる話です。

 でも、ちょっと待って下さい。
 そうやって心が「聖霊に満たされて」いないと、私たちは良い判断ができないのですか?
 いつも悪い判断をしてしまうのですか?
 ではノンクリスチャンの方々は、いつも悪魔的な判断をしているのですか。もしそうだったら、日本なんか大変なことになっていると思いますけどね。なんたって、ほとんど皆ノンクリスチャンなのですから。

「いつも祈っているから神に喜ばれる判断ができる」というのは、裏返すと、「素の自分はそういう判断ができない」ということです。つまり、クリスチャンとして(あるいは人間としても)成長していない、ということです。聖書に照らし合わせて、自分の頭で判断できていないのです。
 神様の願いは、人が自らの意思で判断できるようになることだと思うんですけどね。何かの影響とかでなくて。

 仮に、あなたの心に「悪魔の要塞」ができているとしましょう。悪魔はあなたを最終的に滅すはずですね。ということは、あなたは自殺しようとしたり、仕事であえて大失敗しようとしたり、家族に迷惑をかけようとしたりと、あなた自身にとって「不利」となる何かをしようとするはずです。
 でも、そんなことしますか? しませんよね。そして「しない」のは、「あなた自身」が判断しているからです。

 ということは、いくら「聖霊の宮」だとか「悪魔の要塞」だとか言っても、結局はあなた自身が決めているのです。何かの影響ではありません。何かのせいでもありません。

 繰り返しますが、クリスチャンが「聖霊の宮」であることは否定しません。
 しかし、だからと言って聖人なのではありません。むしろ「聖霊の宮」だとか言いながら悪事を働く人たちがいます。
 大切なのは私たち一人一人がどういう人間なのか、のはずです。それに比べれば「聖霊の宮」であるかどうかなんて全く重要ではありません。

 最後に質問です。
「聖霊の宮」を豪語する不親切なクリスチャンと、親切なノンクリスチャンとがいたら、どちらと一緒にいたいですか?

 私は絶対に後者ですが。

2018年7月18日水曜日

心の中に「悪魔の要塞」が造られてしまうのですか?

 私の教会はよくこんなことを言ってましたね。
「心をよく見張なさい。御言葉で武装しなさい。でないと悪魔が、あなたの心に要塞を築いてしまうから」

 ボケッとしていると、悪魔が心に入ってきて、「悪魔の要塞」をこしらえて、好き勝手にしてしまうそうです。結果、私は罪を犯して、堕落してしまうとか。そうなったら神を信じていても地獄行きなのでしょうか。
 怖いですね。恐ろしいですね。酷くなると『エクソシスト』の女の子みたいに、天井を這ってしまうのかもしれません。そうなったらついでに天井の拭き掃除でもしようかと思いますが。

 聖霊派教会に通ったことがある方なら、「悪魔の要塞」なる話を聞いたことがあると思います。
 心の中は戦場になっていて、「神の側」と「悪魔の側」が対立していて、どちらかが優勢になったり劣勢になったりしている。人間はその結果を受けて「良く」なったり、「悪く」なったりする。
 ジョイス・マイヤーさんの『思考という名の戦場』の影響が、少なからずありそうな話です。

 この話を真に受けると、なかなか大変なことになります。
 とにかく24時間、心を見張っていなければなりませんから。
 でも生きていれば、その時その時でいろいろな「思い」や「考え」が浮かんでくるでしょう。それらをいちいち取り上げて、これは神のものか、それとも悪魔のものか、あるいは自分のものか、と吟味しなければなりませんが、そんなこと本当にできるのですか?

 たとえばある時、「Aさんに対して腹が立った」としましょう。この「怒り」に、どう対処すべきでしょうか。
「これはAさんを戒めなさい、という神様からのメッセージなのだろうか」
「ここでAさんに対して怒ったら、悪魔の思う壺なのだろか」
「単に私自身が(人間的な思いで)腹を立てているだけなのだろうか」

 そんなこといちいち考えていられるでしょうか。それ一つだけならまだしも、浮かんでくる思考全部に対してそういうプロセスを施すなんて、現実にできるのでしょうか。できないと思いますが。あるいはできたとしても、自分のことだけで精一杯になってしまうのではないでしょうか。

 知り合いの1人は、この「悪魔の侵入」を意識するあまり、絶えず「悪魔よ退け。イエスの名によって悪魔よ退け」と呟いていたそうです。職場でも自宅でもずっとです。そうせずにいられないくらい、強迫的になっていたのです。哀れとしか言いようがありません。


 この「悪魔の要塞」あるいは「悪魔との絶えざる戦い」という考え方には、一つ合理的な疑問があります。
 こういう疑問です。

「悪魔の要塞」が原因で罪を犯すなら、そもそも人間は悪くないのでは?

 仮に「悪魔の侵入」を許してしまったとして、それを人間の側の「落ち度」と仮定しましょう。でもその結果として心の中に「悪魔の要塞」ができてしまい、そのせいで罪を犯さずにいられなくなったのだとしたら、それは言わば「操られている」状態なので、人間の「罪」ではありません。悪魔の罪です。「悪魔の要塞」がそれほど抗いがたい影響を及ぼすなら、もはや人間の責任ではないわけです。「思考」を支配されてしまっているのですから。

 これがどういうことか、わかります。
 つまり「性善説」です。人間はそもそも悪くない。「悪魔」の影響で、罪を犯さずにいられなくなってしまう。だから「悪魔」がいなければ、人間は罪とは無縁の存在なのだ、という。

 でも罪って、人間が自ら犯すものではありませんか?

 ヤコブの手紙1章15節はこう言っています。
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。

エレミヤ書17章9節はこうです。
人の心は何よりも陰険で、それは直らない

 聖書は全体的に、人間を「性悪説」としてとらえていると私は思うんですけどね。「原罪」という考え方もありますし。

☆ ☆ ☆

 心の中にできる「悪魔の要塞」という考え方は、そういう人間の悪いところを正当化しようとする、下手な試みのようにも思えます。
 たとえば問題を起こした牧師が、「悪魔の策略にハマってあんなことをしてしまった。でもあれは本意じゃなかった」とか言います。
 あるいは身内が問題を起こしてしまった時、「あいつは心を守る訓練がまだできていなかった。未熟さゆえだから、見逃すべきだ」とか言います。
 その問題で被害に遭った人のことなんて、完全に無視です。自分たちは悪くないわけですから、ロクに謝罪もしません。

 つまり大胆にも「悪魔」を利用しているわけです。そして「神」をも利用しているわけですから、もう怖いものなしです。
 そういう教会で、まともな信仰生活が送れると思いますか?
 身に覚えのある方には、そのあたりをよくよく考えてみることをお勧めします。

2018年7月16日月曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第93話

これまでのあらすじ
「50時間の祈り」のデモンストレーションにて、キマジメくんのチームが「霊的礼拝」を捧げている。しかしメガネ兄弟の強引な選曲変更をきっかけに、キマジメくんはカホンのリズムを崩してしまう。以降、礼拝に戻れず、時間だけが過ぎていく。(前回の話はこちら
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 永遠とも思える時間が過ぎた。
 キマジメくんは顔を上げることができず、ひたすら自分の両手を見ていた。
 みんな自分を見ているだろうか。カホンに座っているのにまったく叩かず、舞台にいるのにまったく何もしていない自分を、みんな奇異の目で見ているのだろうか。あるいはカホンを叩けると思ったけれどやはり叩けなかった、哀れな素人だと嘲笑しているのだろうか。
 胃のあたりがキリキリ痛んだ。早く終わってほしい。そしてまた会衆席に戻って、カーペットの上でいいから横になりたい。
 あるいは今すぐ、舞台を降りてしまおうか。何もしていないのだから、構わないのではないか・・・。
 しかし礼拝途中で舞台を降りてしまったら、タタカイ兄弟たちに合わす顔がないとキマジメくんは思った。もうすでに合わす顔はないのだけれど。

 唐突にギターの音が小さくなり、旗が動きを止めた。タタカイ兄弟が最後の祈りを唱え、それで礼拝は終わった。
 キマジメくんはようやく顔を上げた。ずっと俯いていたから、首の筋肉が硬直してしまって、二度と顔が上がらないのではないかと思った。しかし予想に反して顔はすんなり上がった。
 すでに次のチームが舞台に立っており、タタカイ兄弟のギターが鳴り止むとほとんど同時に、別のギタリストが演奏を始めた。
 ついに解放されたキマジメくんは、立ち上がってふらふらと舞台袖に向かって歩いた。その間、誰の顔も見なかった。このまま会衆席の一番隅に行って、タオルケットにくるまって、寝てしまおう。キマジメくんはそれだけを願った。しかし、いつの間にか近づいてきたタタカイ兄弟に背中を触られた。
「キマジメ兄弟、大丈夫ですか」
「すみませんでした、タタカイ兄弟」
 キマジメくんは早口でそれだけ言うと、速足で舞台袖に入り、まっすぐ出口に向かった。誰とも話したくなかった。
 そして会衆席に続くドアの前まで来た。このドアさえ開ければ。しかしそのドアが、勝手に開いた。
  そこに一番見たくない顔があった。溝田牧師の顔だった。眉間に皺を寄せ、明らかに不機嫌だった。
「タタカイ兄弟のチーム、ちょっと全員集まって。牧師室に」

 2分後、キマジメくんは牧師室のソファの一番隅に、小さくなって座っていた。
 隣がルツ姉妹で、そのまた隣がメガネ兄弟、一番むこうがタタカイ兄弟という並びだ。
 反対側のソファでは、溝田牧師が足を組み、ふんぞり返っている。つま先で、テーブルをトントン蹴っている。
「君たちの礼拝、途中でずいぶん混乱していたね。訳を聞かせてもらおうか」
 溝田牧師が4人を順に眺めながら言った。
 真っ先に口を開いたのはメガネ兄弟だった。「先生、あれは、リーダーの霊的鈍感さが原因です!」
「ちょっと待って、メガネ兄弟」溝田牧師がそれを片手で制した。「まずはリーダーのタタカイ兄弟から聞こうか。何事にも秩序があるんだよ。主は、秩序を重んじられる」
 メガネ兄弟は黙って引き下がった。さすがに牧師には逆らえないようだ。
 タタカイ兄弟は答えあぐねているようだった。あの事態をどう説明すべきか思案しているのが、キマジメくんにはわかった。
 やや沈黙があってから、タタカイ兄弟が言った。
「礼拝を崩してしまって、すみませんでした。リーダーである僕の責任です」
「何があったか説明してもらおうか」と牧師。「謝罪はいいから」
 やはりごまかせないと判断したのだろう。タタカイ兄弟は意を決したように話しはじめた。
「自分が事前に賛美を選曲していましたが、礼拝直前になって、メガネ兄弟が変えたいと言ってきたんです。しかしキマジメ兄弟がまだカホンに慣れていなかったので、急には変えられないと思いました。それで却下しました。礼拝が崩れてしまうのを避けたかったからです。しかし、ご覧になったと思いますが、メガネ兄弟が礼拝中に、勝手に別の賛美を歌い始めたのです。それでキマジメ兄弟が混乱して・・・」
「勝手じゃありません!」メガネ兄弟が興奮して口を挟んだ。「主に示されたんです! あの選曲ではダメだと! そうタタカイ兄弟に言ったのに、タタカイ兄弟が無視したのが悪いんです!」
ちょっと静かにしなさい、メガネ兄弟!
 溝田牧師が、メガネ兄弟の声量をはるかに上回るボリュームで叫んだ。あまりに大きな声だったので、4人ともソファから10センチは飛び上がった。メガネ兄弟は「はい」と言ったらしかったが、キマジメくんには「ひぃ」という喘ぎ声にしか聞こえなかった。
「リーダーが話すのを遮るんじゃない!」牧師はまた大声で言う。「秩序を守れと言っているだろう! 同じことを言わせるな!
 メガネ兄弟は、今度こそ「はい」と返事をした。メガネを直す振りをしながら目を拭ったのを、キマジメくんは目撃した。おそらく涙が出てしまったのだろう。
  溝田牧師はコップの水をグイと飲んで、ふうと息をついた。その一挙手一投足を、4人はじっと見つめていた。次に何を言われるのだろう。自分たちはここから無事に出られるのだろうか。キマジメくんは絶望的な心境でそんなことを考えた。
「まあ、タタカイ兄弟から聞くまでもなく、そういうことだろうと思っていたよ」牧師は冷静な声で言った。「言葉がなくても、霊でわかるんだよ
 じゃあなんで説明を求めたんですか、とキマジメくんは言いたくなった。しかし、当然ながら言えない。

 溝田牧師は続ける。
「まあ、これが礼拝の難しいところだ。事前の選曲や準備も大切だけれど、神様は生きて働いておられるから。今というタイミングで、適切に応答しなければならない時もある。メガネ兄弟はそれを敏感に感じ取ったのだろう。それは『執り成し手』として必要な資質でもある」
 メガネ兄弟が急に顔を上げた。風向きが良くなったと思ったのだろう。目が輝いている。
「でも同時に大切なのは、」と牧師は続ける。「リーダーの権威に従うことだ。そしてこのチームのリーダーはタタカイ兄弟なのだから、君たちはタタカイ兄弟の決定に従う必要がある。それが、主の秩序というものだよ。秩序に逆らったら祝福されない。そのことはよく覚えておきなさい。特にメガネ兄弟は」
 またメガネ兄弟が俯いた。つくづくわかりやすい反応だなとキマジメくんは思った。
「その上で言うけれど、」と牧師。「タタカイ兄弟は、もうちょっと臨機応変さを持ってリーダーシップを取るべきだね。せっかく執り成し手が重要な情報を教えてくれたのだから、その霊の流れを敏感にキャッチして、礼拝に取り入れないと、結局のところ祝福を逃してしまうことになるからだ。いいね?」
 しかしタタカイ兄弟は、その言葉には納得しかねたようだった。
「先生、そんなに重要なことなら、なぜ主は事前に教えて下さらないのですか? 僕たちは何日も前から選曲していたんですよ? 練習だってしてきました。なのになぜ礼拝直前になって、それを変更しろだなんて、主が言われるのでしょうか?」
 その言葉を聞きながら、牧師の顔つきが見る見るうちに変わっていく。眉間に皺が寄り、般若のような恐ろしい形相になっていく。でも色は白でなくて赤だ。隣でルツ姉妹が息をのむのがキマジメくんにははっきりわかった。そんなこと言わないで、とルツ姉妹が心の中で懇願しているのが、キマジメくんには聞こえるようだった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年7月14日土曜日

クリスチャンは「真理」を知っているのですか?

「クリスチャン」と言ってもいろいろな人がいますね。

 どこかの教会に所属している人(教会員)もいれば、私みたいな「お客さん」もいます。

 毎週日曜の礼拝を欠かさない人もいれば、たまにサボる人もいます。中にはサボると地獄に落ちると信じている人もいます。

 頑張って奉仕活動する人もいれば、できるだけ奉仕なんてしたくないと思っている人もいます。中には奉仕しないと牧師に殺されかねない人もいます。

 真面目に収入の10分の1を献金する人もいれば、できるだけ献金したくないと思っている人もいます。中には献金しないと牧師から電話が掛かってくる人もいます。

 カトリックの人もいれば、プロテスタントの人や正教会の人、コプト教会の人などもいます。プロテスタントも中でいろいろ枝分かれしていて、日本基督教団とかルーテル派とか、福音派とか聖霊派とか、いろいろいます。

「クリスチャン」と言ってもいろいろです。中には教派が違うだけで、「本当に同じキリスト教ですか」ってくらい違うこともあります。たぶん知らない人はびっくりするでしょうね。良くも悪くも。

 私個人は、いろいろな種類のいろいろな人がいていいと思っています。いろんな色があった方が面白いですから。聖歌もゴスペルもクリスチャンロックも、私は好きです。どれか一つしかなかったら、ちょっと寂しいでしょうね。

 ただ問題は、自分と違う人たちにダメ出しする、自称「本当のクリスチャン」たちです。
 自分(たち)は「本物」だけど、他の人たちはどこか間違っている、と主張して憚らない人たちですね。

 先日も友人から、そんな人たちの、こんなツィートを教えてもらいました。
 
「わたしは真理を知っている。知らない人たちはかわいそう」

 うーん。キリスト教の「真理」って何でしょう。私もいろいろ勉強してきましたけど、これはちょっと何言っているかわからないですね(←サンドウィッチマンふうに読んで下さい)。

 真面目な話、なんで自分(たち)だけが「真理」を知っていて、他の人たちは知らない、と断言できるのでしょう。その根拠はなんですか。あまたいる研究者たちのこれまでの成果を差し置いて、なぜ自分(たち)だけが「真理」に到達できた、と思えるのでしょう。

 そういう「自称本物」たちは、聖書を熱心に読んで調べているようですが、ある大切な箇所を読んだことがないか、あるいはそのページだけ破れているのではないかと思います。ピリピ人への手紙3章12節に、こんなことが書いてあるからです。

「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(口語訳)

 これはキリスト教の教理体系を構築した、パウロという人の言葉です。
 そのパウロが、「自分はまだ途中だ」「今も一生懸命追い求めている」と言っているのですね。

 でもそう言うのは、パウロの知識が不十分だったからではありません。実際には十分だったと思いますよ。ただ彼は、それでも「追い求める者」でありたかったのでしょう。「到達した」と思って立ち止まるのでなく、「まだ何かあるかも」と探し求めたかったのでしょう。

 だから「真理を知っている」などと、パウロは言わなかったのだと思います。

 であるなら、現代に生きる私たちも同じではないでしょうか。どれだけ勉強し、研究しても、「これで十分」と思ったらそこまでです。「まだまだ知るべきことがある」と思った人が、その先へ進んで行きます。

 だから「真理を知っている」などと豪語して憚らない「自称本物」の皆さんは、少なくともパウロの言葉を正しく理解していません。
 知らないことに気づいていない人たちの方が、「かわいそう」だと私は思うのですけどね。

 私たち宗教を奉ずる人間は、できるだけ視野を広く持つべきです。いろいろな角度から自分の宗教を見つめ直し、検証すべきです。そしてできるだけ物事を決めつけないで、可能性という余地を残しておくべきです。
 でないと狭い部分しか見ないで、「これぞ真理だ」と早まった結論を出してしまって、あとで間違いに気づくことになるかもしれません。

 と、ここまで書いて、ふと気付いたことがあります。
「自称本物」が言った「真理」とは、もしかして Truth でなく、 Mari という名前の女性だったのでは?

「わたしはマリを知っている。知らない人たちはかわいそう」

 あ、やっぱりちょっと何言ってるかわからないですね(←サンドウィッチマンふうに読んで下さい)。

2018年7月12日木曜日

地獄って本当にあるんですか?

地獄はあるのか問題

 キリスト教は一般的に言って、「天国」と「地獄」の存在に賛成だと思います。
 難しい話は抜きにしますが、人は死後に「裁き」を受け、「天国」か「地獄」に割り振られると。カトリックだとこの中間に「煉獄」があるのですが。

 たしかに新約聖書の福音書に「地獄」「天の御国」という言葉が登場します。ヨハネの黙示録には「新天新地」という言葉も出てきます。ですから「天国」と「地獄」はあるんだろうな、と考えるのは自然と言えば自然です。

 ではちょっと、「地獄」について考えてみましょう。
 ちなみに私は、頭から「天国」や「地獄」を否定する気はありませんよ。

 実は「地獄(あるいはゲヘナ)」という言葉は、聖書にそんなに出てきません。主に福音書内でイエスが言っているだけです(正確にはヤコブの手紙にも1回出てきますが)。たとえばこんな感じです。


「地獄(ゲヘナ)では、うじがつきず、火も消えることがない。」(口語訳)(マルコによる福音書‬ ‭9章48節‬)

 これはイエス本人の言葉ですから、じゃあ地獄って本当にあるんじゃないの? という話になるかと思います。

 でもイエスの「地獄」についての言及が、「たとえ」として使われていることに注意すべきです。「たとえ」とはご存知の通り、話をわかりやすくするための比喩表現の一つですね。

 また「ゲヘナ」の語源である「ヒノムの谷」は実在の場所で、エルサレムの近くだそうです。そこは古くはモレクの祭壇があった場所で、イエスの時代は廃棄物処理場として使われていたそうです。死刑囚の遺体もそこで焼かれたそうで、火が消えることがなかった、とか。

 となると、イエスはこれらの言葉を「ヒノムの谷」を指して言ったのではないか、という疑問が出てきます。「罪を犯すとヒノムの谷で焼かれることになっちゃうよ」みたいな、「死後の裁き」の話でなく、あくまで「現世」の話だったのではないか、という疑問です。

 死後に落ちる先としての「ゲヘナ」→罪深い人生を送った結果としての「ヒノムの谷」

 これは旧来のキリスト教からしたらちょっとセンセーショナルな解釈ですが、私は一理も二理もあると思っています。後に挙げる疑問の、答えにもなりますから。
 そしてこの解釈が正しいとすると、「地獄」の存在そのものが揺らぎます。
 もちろん、「解釈の一つ」に過ぎないのですけれど。

地獄についての疑問

 ではここで、私が「地獄」について抱いている疑問を紹介します。
 皆さんもどうぞ一緒に考えてみて下さい。

①「罪の報酬は死」なんじゃないの?

 ローマ人への手紙6章23節に、「罪の支払う報酬は死である」(口語訳)と書いてあります。
 だから人間は、「罪」ゆえに「死ぬ」わけです。
 もっと正確に言うと、「罪」があるあら、「罰」として「死ぬ」わけです。
 であるなら、「死ぬ」ことで私たちの「罰」は終わるのではないでしょうか。「死」が「罰」なのですから、それ以上の「罰」はないのではないでしょうか。

 でも、死んでなお「地獄」という永遠の刑罰が待っているとしたら、それは「罰」の重複ではないかと思います。すでに報い(死)を受けたのに、さらに「地獄」で(しかも永遠に)苦しまなければならないのは、理屈に合わない気がします。

②永遠に苦しむのも、結局は「永遠の命」なのでは?

「地獄」に落ちた人は永遠に火で焼かれ続け、蛆に食われ続けるらしいです。私の牧師によると、それでみんな発狂してしまうとか。

 でもぶっちゃけた話、発狂したらこっちのもんですね(笑)。認識力を失ってしまうのですから、痛いも苦しいもなくなるかもしれません。正常な精神活動を失ってしまいますから、あれこれ考えることもなくなります。

 で、その状態が永遠に続くとしたら、それはそれで(良いか悪いかは別にして)「永遠の命」ではないでしょうか。
 となると、神に従順だった者に与えられるという「永遠の命」を、実は神に不従順な者たちにも与えられる、ということになります。
「天国」に行っても永遠の命、「地獄」に行っても永遠の命。これじゃ「必ずもらえるプレゼント」ですね(笑)。

③天国に行った人たちは永遠に後悔しないの?

「天国」に行った人たちがどういう状態になるか定かでありませんが、おそらく生前の記憶や意識は保持していると思います。つまり「このまま」で天国に行きます(と仮定します)。
 で、「天国」でまわりを見てみます。誰が一緒で誰が一緒でないか、わかりますね。そして一緒でない人は「地獄」に落ちてしまったのだと、知ることになります。

 さて皆さんが「天国」に行ったとして、皆さんの大切な人々が一緒にいなかったらどうでしょう。その人たちが地獄に落ちてしまったと聞かされたらどうでしょう。自分が「天国」でぬくぬく(?)としている間に、彼らは「地獄」の火で焼かれているのです。
「天国」に行けるくらい善良な人ならば、そうした状況を、苦痛に思うのではないでしょうか。

 そしてもしその状態で永遠に生きるのが「天国暮らし」だとしたら、それは拷問みたいなものかもしれません。その人にとって、そこって本当に「天国」?

④パウロはなぜ言及しなかったの?

 四福音書より先に成立し、キリスト教教義の根幹を作ったパウロの手紙が、新約聖書の約半分を占めています。そのパウロがなぜ「地獄」について言及しなかったのか、不思議じゃないでしょうか。

 パウロはもちろん復活を信じていますし、「第三の天」なる概念も示しています。イエスの再臨についても書いています。前述の「罪の報酬は死」というのもパウロの言葉です。しかし、そこまで書いておきながら、「天国」と「地獄」には言及していません。

 これは彼が死後の「地獄」という考え方を持っていなかったからではないかな、と私は考えています。
 つまり、パウロが構築したキリスト教教理においては、「地獄」はそもそも想定されていなかったのではないか、ということです。もちろん、これは推測の域を出ない話ですが。

☆ ☆ ☆

 いずれにせよこうやって考えると、地獄の存在が、ちょっと怪しくなってきませんか?
 と言っても、べつに地獄を全否定しているわけではありません。「地獄」の存在を当然と考えている方々に、ちょっと考えていただけたらな、と思っているだけです。

 さて皆さんは、どう考えるでしょうか?

(→7月8日のメルマガにて、私の教会での経験やユダヤ教的死生観など、更に詳しく書いています。)

2018年7月10日火曜日

死刑が執行されれば、カルト問題は解決するのですか?

 7月6日、オウム真理教の元代表・麻原彰晃含む幹部7人の死刑が執行されました。
 それによって「カルト宗教」がまた注目を集めているようです。様々な人が、(死刑制度の賛否含めて)様々な意見を口にしています。

 カルト宗教の危険性は、もっと広く周知されるべきです。だからこの注目が一過性に終わるのでなく、定期的な「対カルト教育」に繋がってくれればいいなと、私個人は願っています。

 またオウム真理教による一連の凶行の被害に遭われた方々、そのご遺族、その関係者の方々は、今なお苦しんでおられると思います。今回の死刑執行も、何の慰みにもならないのではないでしょうか。心よりお見舞い申し上げます。

 私の教会(すでに解散しています)は酷い教会でしたが、オウムのような「破壊的カルト」ではありませんでした。いろいろ偉そうなことを言っていましたが、あくまで内輪で騒いでいただけです。

 それでもその被害に遭った元信徒や関係者らは、今も傷を抱えたままだと思います。何の解決も見ていませんから。あれからだいぶ年月が経ちましたが、私たち元信徒は多かれ少なかれ、「時が止まったまま」の部分を持っているのではないかと思います。仕事が変わり、生活が変わり、いろいろ変化して「前進」しているのだけれど、ふと気づくと、教会のことであれこれ葛藤している自分を発見する、という。
 カルト被害には、そういう側面があると思います。

☆ ☆ ☆

 おそらく元信徒の中には、「もう何もかも忘れたい」と思っている人がいると思います。全部なかったことにしたい、と。
 でも一方で、「あれが何だったのか、ちゃんと正確に知りたい」と思っている人もいると思います。

 私自身は後者です。
 私の教会が解散する頃、本当にいろいろなものが混乱していました。次から次へといろいろなことが起こり、いろいろな人がいろいろなことを言いました。何が正しくて何が間違っているのか、わからなくなりました。

 だから私はこんなふうに願っていました。
 誰かものすごく詳しい人に来てもらって、ちゃんと説明してほしい。「この教会で起こったことは〇〇でした。その中であなたの立場は△△というものでした。だからあなたは、これから××として生きて行くべきです」みたいに。

 そういうふうに全ての問題を可視化・言語化してくれて、今後の方向性を教えてほしかったです。そんなことは自分で考えろ、と言われればそれまでなのですが。

☆ ☆ ☆

 さて、カルト問題とは、どのようにして解決していくのでしょうか。
 全ての不正が暴かれて、加害者らが法の裁きを受ければ、解決でしょうか。
 今回のオウム真理教のように死刑が執行されれば、解決でしょうか。
 おそらく解決はしないと思います。

 じゃあどうすれば解決なんだ、と言われても、残念ながら私にもよくわかりません。
 ただ一つ言えるのは、教祖が死んでも何一つ解決しない、ということです。特に、彼本人から何の反省の弁も聞けなかったらなら、尚更。

2018年7月8日日曜日

牧師に祈られると倒れるんですか?

 ちょっとこの動画を見ていただきたいです。
 18分くらいの長めの動画ですが、一番注目したいのは11分0秒から11分30秒までです。


 TBSの『モニタリング』という番組で、EXILEグループの関口メンディーくんと白濱亜嵐(しらはまあらん)くんが騙されるシーンですね。
 ニセ気功師が「気」だけで相手を倒す、というのを実演します。EXILEの他のメンバーは「気」を感じたフリをして倒れるのですが、ターゲットであるメンディーくんと亜嵐くんは(当然ながら)何も感じず、倒れません。
 でも事前に「これは重要な収録だ」と言われているし、プロデューサーにずっと睨まれているし、皆ニセ気功師に倒されて「すげー」とか言ってますから、「感じない自分がおかしいのでは」と考えてしまうのですね。

 でもメンディーくんは正直なので、「感じないものは感じない」という姿勢を貫きます。
 一方の亜嵐くんはいろいろ気を遣うタイプなのでしょう。空気を読んで、最終的に「感じたフリ」をします(その最初のシーンが動画の11分0秒から11分30秒です)。そしてそれ以降、亜嵐くんは「感じたフリ」に徹します。ニセ気功師の「気」で動けなくなったり、倒されたり、棒で叩こうとして「気」に阻まれたり。完全に演技なのですが、たぶん本人は「こうしなければならない」と思っているのでしょう。
 その心理がよく伝わってくる「実験」だと私は思いました。

☆ ☆ ☆

 これを見ながら私が真っ先に思い出したのが、聖霊派教会での「聖霊の働き」でした。
「聖霊に満たされて」泣き出すとか、「聖霊の圧倒的臨在」で倒れるとか、喜んで踊り出すとか、「異言」が溢れてくるとかですね。
 ちょっとこの動画も見てみて下さい。気持ち悪いので、4分30秒から4分45秒あたりだけでいいです。


 手を置かれた人たちがどんどん倒れていくシーンが映っています。

 この手の集会では「アッシャー」と呼ばれる奉仕者たちがいます。倒れる人をうしろで支える係ですね。そのまま倒れると危ない場合に、よく配置されます。
 つまり「祈られて倒れる」というのが、習慣や文化になっているのです。「倒れるのが当たり前」「倒れるのは聖霊に敏感な証拠」みたいな感じで。

 私もそういう教会にいましたから、同じような経験を何度もしています。でも私はメンディーくんと同じタイプだったので、倒れたことがありません。何も感じなかったし、倒れる理由がなかったので、倒れなかっただけなのですが(笑)。

 でも周りの人たちは、やはり次々と倒れていくのでした。
 今思うと、あれは亜嵐くんと同じような「演技」だったのではないかな、と思います。

 ちなみに周りの皆が倒れているのに、自分だけ残って立っているのは、なかなか辛いものがありましたね(笑)。

 では何も感じないのにどうして倒れるかと言うと、たぶん「聖霊の働きを感じたい」からです。または「自分の信仰レベルはそれを受けるにふさわしい」と思いたいからです。あるいは「周りの皆が倒れているから、きっと自分も何か感じて倒れるはずだ」と思い込んでいるからです。

 こんなことを言う私は、「不信仰」なのでしょうか。
 聖霊派教会でバンバン倒れている人たちはきっとそう言うでしょう。
 でも冒頭の動画で亜嵐くんが「感じたフリ」をしなければならなかった心理は、たしかに存在します。それを否定することはできません。 そして亜嵐くんの「感じたフリ」と聖霊派の人たちの「感じたフリ」を明確に区別する根拠は、何もありません。

☆ ☆ ☆

 さて前述の通り、私はいくら按手されても祈られても倒れない口でした。牧師も無理に倒そうとはしませんでした。当たり前ですが。
 しかし長い年月が過ぎて、牧師にも変化がありました。按手の時に、明らかに力を加えて、私を倒そうとするようになったのです。押されれば、そりゃ倒れますよ。
 でも私はやっぱり素直でしたので、「人に押されて倒れても、それは聖霊によるものではない」と思いました。だから牧師に押されても、何気に抵抗していました。踏ん張って倒れないようにしていたのです(笑)。

 これ、傍から見ると面白い光景かもしれません。一見「按手の祈り」なのですが、実は互いに押し合っているという。
 何やってんだって感じですね(笑)。
 

2018年7月6日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第92話

これまでのあらすじ
「50時間の祈り」のデモンストレーションにて、キマジメくんのチームが「霊的礼拝」を捧げている。順調に進んでいたが、メガネ兄弟が無理やり選曲を変えてしまった。キマジメくんらは混乱しながらも、何とか礼拝を続ける。(前回の話はこちら
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 タタカイ兄弟の気持ちが、キマジメくんにはよくわかった。あのまま演奏を続けても混乱するだけだから、仕方なくメガネ兄弟に合わせたのだ。メガネ兄弟が強引なのは明白だけれど、かと言って礼拝の最中に張り合うわけにも行かない。タタカイ兄弟はそう判断して、曲を急遽(メガネ兄弟の希望通りに)変更したのだろう。
 それ以外に選択の余地はなかっただろうと、キマジメくんは思った。メガネ兄弟もそれがわかっているから、あんな手に出たのだ。なんて卑怯なのだろう。
 しかし、キマジメくんがそう考えられたのはほんの一瞬だけだった。それより重大な事態に直面してしまったからだ。『主の栄光 宮に』のリズムでカホンを叩いていたのに、いきなり『イエスは勝利をとられた』に変わったせいで、リズムを見失ってしまったのだ。
 ようやく理解しつつあったエイトビートの「トン、タン、トントンタン」というリズムを、どうやって合わせればいいのか、完全にわからなくなっていた。ズレているのはわかっている。けれど、どう合わせればいいのかわからないのだ。キマジメくんは全身から一気に汗が吹き出すのを感じた。頭が急にクラクラしだして、うまく考えられない。
 形成が完全に逆転してしまった。今やメガネ兄弟の歌とタタカイ兄弟のギターがぴたりと一致していて、キマジメくんのカホンだけがズレている。ルツ姉妹は澄ました顔で旗を振っている。
 会衆席の信徒たちの視線を感じる。「何やってんだ」という声が聞こえた気がした。皆が自分を責めている。そんなふうに思えて、いよいよ焦った。
 そしてキマジメくんはついに、エイトビートのリズム自体を見失ってしまった。「トン、タン」とすべきなのに、「タンタン、タントン」などと奇妙なリズムを打ってしまっている。そんなつもりはないのだけれど。
 タタカイ兄弟が振り返って、キマジメくんを見た。その目にあるのは・・・よくわからない。しかし瞬間的に、昨夜のタタカイ兄弟の言葉がよみがえった。
「リズム楽器は、バンドの心臓と同じなんです」
(これじゃ完全に心臓がおかしくなってる!)
 キマジメくんは足下の床が崩れ去り、宙に浮いているような感覚を覚えた。世界がグラグラ回っている。目の前が暗くなった。
 そして気づくと・・・キマジメくんはカホンを叩くのをやめていた。見おろすと、カホンの打面から離れた両手が、小刻みに震えている。
 汗が一筋、脇から腕へ伝い落ちた。
 しかしカホンを叩かないことで、世界は正常に戻ったようだった。タタカイ兄弟は『イエスは勝利をとられた』をギターで弾き、落ち着いたテノールで歌っている。メガネ兄弟も声を合わせて歌っている。ルツ姉妹は、まるではじめからそうだったように、リズムに合わせて優雅に旗を振っている。カホンがおかしなリズムで叩くのをやめたから、やっと礼拝が安定したのだ。
 3人の背中が、これでようやく集中できる、と思っているようにキマジメくんは感じた。
 リズムが安定したことで、会衆も安心したようだった。キマジメくんを見るのをやめて、それぞれまた座ったり、横になったり、聖書を読んだりしはじめた。
 溝田牧師は横になったまま、片肘をついて上半身だけ起こして、こちらを見ている。明らかに不機嫌そうな眼差しだ。自分だけを見ているわけではなさそうだけれど、キマジメくんは胃をがっちり握り締められるのを感じた。また背中から汗が吹き出してきた。手の震えが激しくなった。牧師の表情は暗くてよく見えないが、キマジメくんはそれ以上見ていられなくなり、俯いた。目頭が熱くなっていた。
 このあとどうしたらいいか、キマジメくんにはわからなかった。
『イエスは勝利をとられた』はいつの間にか終わっていて、次の曲に移っていた。予定していた曲ではない。メガネ兄弟が持っていた楽譜のどれかだろう。聞いたことはあったけれど、キマジメくんにはよくわからない曲だった。
 もちろん落ち着いてエイトビートを叩けば、今からでも合わせられるかもしれない。昨夜、タタカイ兄弟はこうも言っていた。
「大抵の曲は4拍子か、4拍子と考えていいものばかりです。だから単純なエイトビートを叩けば、だいたい合うんですよ」
 今演奏している曲も、たぶん4拍子だとキマジメくんは思った。これなら自分ができる最も単純なエイトビート(トン、タン、トントンタン)で合わせられるだろう。落ち着いてやれば、難しくないはずだ。しかし・・・しかし、どうしても叩けない。
 キマジメくんはまた3人を見た。ちょうど曲が終わったところだった。タタカイ兄弟は流れるようなアルペジオを弾き、ルツ姉妹は旗を高く掲げ、直立の姿勢でしばらく静止している。メガネ兄弟は聖書をパラパラめくり、マイクを持ち直し、流暢に祈りはじめた。
「オー主よ。感謝します。この素晴らしい霊的礼拝の時間を感謝します・・・」
 3人でうまく連携し、調和しているように見えた。キマジメくんは一人取り残されたように感じた。考えてみればそうだ。タタカイ兄弟はギターに熟練しているし、ルツ姉妹は旗振りと踊りに熟練しているし、メガネ兄弟は執り成しの祈りに熟練している。なのにこの自分だけは、何にも熟練していないのだ。パソコンの操作が少しできるくらいではないか。それでこの「霊的礼拝」に参加しようだなんて、そもそも無謀だったのだ。
 キマジメくんはそんな考えに取り憑かれると、ますますカホンを叩けなくなった。自分は何の役にも立たない。カホンを少し練習しただけで、一丁前に奏楽奉仕ができるなんて、傲慢なことだったのだ。
 キマジメくんは俯いたまま、ただ時間が過ぎるのを待った。次々と曲が変わって行った。時々タタカイ兄弟が自分の方を振り向いた。けれど気づかない振りをした。ルツ姉妹もチラチラとキマジメくんを見ていた。これにも気づかない振りをした。メガネ兄弟だけは一度も振り返ることなく、賛美や祈りに集中していた。しかし今のキマジメくんには、それが不思議とありがたかった。
(早く終わってほしい)
 キマジメくんはひたすらそう願いながら、自分のまだ震える両手を固く握った。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2018年7月4日水曜日

日曜礼拝のメッセージ(礼拝説教)、長すぎませんか?

 前回は「知的で霊的なメッセージ(礼拝説教)に見せるテクニック」というふざけた話でしたが、今回はもうちょっと真面目な視点から、「メッセージ(礼拝説教)」について考えてみたいと思います(以下、礼拝説教は「メッセージ」と表記します)。

 私の教会では、日曜のメッセージはやたら長かったです。平均して1時間とか1時間半とか掛かっていたでしょう。その後の「招き」の時間も加えればもっとですね。2~3時間だったかもしれません。
 礼拝が終わると、もう日曜は終わったようなものでした(笑)。

  メッセージの流れはだいたいこんな感じです。

・先週の日曜から昨日までにあったこと(牧師が参加したイベントや、牧師の個人的なことなど)。
・最近の日本の「霊的状況」について。
・本題(平均3~4個のポイントがある)。
・以上を踏まえての祈り(ものすごく長い祈り)。
・そのまま「招き」に突入(待ち時間がやたら長い)。

  終わってからまた賛美や祈りがあるので、もうグッタリです。でも牧師に言わせれば、それは疲労感でなく「霊的充足感」らしいです。疲れすぎてハイになっていただけのような気もしますが。

 しかし多くの信徒が、メッセージの内容をしっかりメモに残していました。私もだいたいそうしていました。正直言うと寝落ちしていたこともありましたが(笑)。
 でも真面目な話、メモに残しておかないと大変なことになります。というのは翌週のメッセージの冒頭で、「先週のメッセージは何だった?」と聞かれることがあるからです。もちろん毎回ではありませんが、もし聞かれて満足に答えられなかったら大変です。特に私のようなスタッフ(献身者)が答えられなかったらシャレになりません(笑)。
 牧師は「先週をメッセージを誰も覚えていない」と嘆いていました。だから、聞くようにしたのでしょうね。

☆ ☆ ☆

 ところで「先週のメッセージを誰も覚えていない」というのは、もしかしたら多くの牧師さんが持っている悩みかもしれません。
 実際、どれくらいの信徒の方が、先週聞いたメッセージの内容を覚えているでしょうか。

 牧師さんが土曜日丸一日かけて、あるいは数日とか一週間とかかけて準備したものが、信徒の記憶に少しも残っていないとしたら、それは確かにショックだったり残念だったりすると思います。ご同情申し上げます。

 ただこれ、私が思うに、(はっきり言いますが)メッセージの方にも問題があります。
 一つは「長すぎる」という問題です。そしてもう一つは「(長いわりに)何が言いたいのかわからない」という問題です。
 人間、5分くらい話を聞いてもポイントが見えてこないと、嫌になるものです。
 牧師さんはもしかしたらいろいろ準備している中で、あれも言わなきゃ、これも言わなきゃ、と膨れ上がってしまうのかもしれません。それで明瞭簡潔さが失われてしまうのではないでしょうか。

 私はカトリックのミサに時々参加させていただくのですが、カトリックは儀礼的な流れが中心で、神父さんは5分か10分くらいしか話しません。それがいいですね。「あ、もうちょっと聞きたいな」と思うくらいです。どんな話だったかもよく覚えています。
 でもこれがプロテスタントになると、良心的なところでも最低30分は話します。私はついつい時計を見てしまいます。いつ終わるんだろうなと(もちろん、何を言いたいのだろうかと一生懸命聞きますよ)。

 たぶん長く教会に属しておられる信徒さんも、メッセージの後半になると「早く終わらないかな」と思うのではないでしょうか。そういう我慢が習慣的になっていると思うのですが、違いますか?

「いやいや、メッセージは信徒を霊的に養うのに重要なのだ。そんな軽んじてはいけない」という意見もあると思います。
 でもその「霊的養い」とは、具体的に何ですか。どういうメッセージでどれくらい養われて、どういう効果があるのですか。そのメッセージを聞かないと、どうなるのですか。

 たとえばメッセージの時間、お腹が痛くなってトイレに行って、終わった頃に帰ってきたとします。友達に聞きます。「どんな内容だった?」
 その友達が優秀な人で、要点をサクッとまとめてくれます。
 するとあなたは「ああこういう話ね」と合点して、なんだかメッセージを聞いたような気にさえなります。
 これでは、「霊的」に養われないのですか?

 よく若手の牧師さんや神学生さんは、「◯◯先生の説教テクニックから学ぶ」みたいなことを言いますね。
 でも私に言わせれば、説教にテクニックなんて要りません。簡潔にわかりやすく話してくれればそれでいいです。しかも5分とか10分とかで十分です。
「それじゃ短すぎるよ。聖書のことが学べない」という意見があるかもしれません。では、先週聞いたメッセージを思い出してみて下さい。そして要点をまとめてみて下さい。そんな膨大な量になりますか。ならないと思いますが。

 だいいち礼拝に十年も二十年も参加していても、聖書についてほとんど知らない人々がいます。
 これは、典礼としてのメッセージと、聖書の「勉強」は違う、ということではないでしょうか。
 そのあたりを混同しているから、長々とメッセージしてしまって、結果「誰も先週の内容を覚えていない」という事態になっている気がします。

☆ ☆ ☆

 と、メッセージについてだいぶ文句を言ってしまったようですが、ついでなのでもう一つだけ(笑)。

 一部の牧師さんはメッセージを「命がけで作った」とか「全身全霊を込めて語った」とか言いますけれど、そういうのは(事実だとしても)自分で言うことじゃありません。厚かましいです。
 それ、感謝しろってことですか? 心して聞けってことですか?
 そういう「苦労アピール」をするくらいなら、メッセージなんかしなくていいです(笑)。

 たぶん信徒の方も、司牧に命がけでメッセージしてくれなんて思ってませんから。

2018年7月2日月曜日

【悪用厳禁】知的で霊的なメッセージ(礼拝説教)に見せるテクニック

あってあるもの? あってないもの?

 ちょっと面白い動画があったので貼っておきます。↓
TEDxで賢そうにプレゼンする秘訣」です(設定で日本語字幕を付けられます)。
 5分くらいなので、良かったらどうぞ。普段TEDを見ている方は特に笑えると思います。


 この人、5分くらいずっと話し続けていますが、内容は「何もない」です。
 大袈裟なジェスチャーをしたり、メガネを直したり、歩き回ったり、意味ありげな画像やデータ(実は何の意味もない)をポンポン出したりして、とっても知的なプレゼンをしているように見えますが、実は「何も話していない」のですね。話し方次第で賢そうに見えるんだよ? という話です。

 ちなみにこの動画を紹介して下さったのは @miha_kobe さんです。ご自身のブログで、私のブログを時々引用して下さる方です(いつもありがとうございます)。逆に私が @miha_kobe さんのブログを紹介する機会があまりありませんでしたので、ここで紹介させていただきたいと思います。↓

一キリスト者からのメッセージ
  とっても知的な、研究者タイプの内容を書いておられます。良かったらどうぞ。

 知的で霊的なメッセージ(礼拝説教)に見せるテクニック

 さて私がこの動画を見て真っ先に思い出したのが、エンタメ系牧師のメッセージ(礼拝説教)です。

 エンタメ系牧師とは、主に聖霊派教会で牧師をやっている、「ドラマチック」で「エキサイティング」な礼拝が好きな人たちのことです。飛び跳ねて踊る賛美、大声で泣き叫ぶ祈り、しょっちゅう歓声が上がるメッセージなどが、大好きな人たちです。

 彼らのメッセージが、まさに上記の動画の感じなのですね。
 深い意味がありそうな、何か「霊的」な啓示に満ちていそうな、神秘的な神の働きに溢れていそうな「感じ」のメッセージです。でもふと振り返ってみますと、「あれ、どんな内容だったっけ?」と頭を抱えてしまいます。つまり、実は中身がないのです。「ある」ようで、「ない」のですね。

 出エジプト記で神は御自身を「あってあるもの(口語訳)」と言っていますが、これらの牧師のメッセージは、「あってないもの」(笑)。

 では、これらエンタメ系牧師はどんなテクニックを使って、「知的」「霊的」「意味ありげ」に見せているのでしょう。ちょっと思いつく限り、以下に挙げてみます。あ、悪用厳禁ですよ。

・主を拍手で歓迎する
 メッセージの冒頭で、1分間くらい、全員で拍手します。「主をここにお迎えする」ためですね。これは聴衆の気持ちを高揚させるのにとっても効果的です。ただし毎回やると飽きられるので、注意しましょう。


・声に緩急をつける
 大声でまくし立てる時と、聞こえないくらいの小声で囁く時との緩急を付けます。特に大声で話している最中に突然声を落とすと、聴衆は「ここが大事なポイントなんだ」と思ってくれます。

例)
(大声で)主は十字架にかかられました! 血を流し! 壮絶な苦しみに耐え! 辱められ! それでもひたすら天の父を見上げ続けたのです! なぜか!? それは! それは!
(急に小声で)あなたを(一人一人指さして)愛しているから・・・です・・・( 最後の方はほとんど聞こえないくらい小さい)
 ちょっと演技力が要求されるテクです。

・質問する
  聴衆は聞きっぱなしになることが多いですから、いきなり質問してみると緊張が走っていいかもしれません。

・聴衆の誰かをいじる
 いじりやすい信徒がいたら、積極的にいじります。てっとり早く笑いを取ることができます。

・聴衆を話し合わせる
 これはイントロ部分で有効かもしれません。
「この1週間に何回イエス様について考えたか、二人一組になって話し合ってみましょう」みたいに指示をします。
 自分のことについて話したい人が多いですから、きっと盛り上がると思いますよ。その間メッセージしなくていいですから、時間稼ぎにもなります(笑)。

・「悔い改めの祈り」を使う
 これも時間を稼ぐうまい方法です。
「皆さん、この一週間の中でも悔い改めるべきことがあったと思います。今主の前に跪いて、それぞれ悔い改める時間を持ちましょう」

・「良い話」を引用する
 どこかから仕入れた良い話、泣ける話、笑える話などを紹介します。
 内容は本筋と関係なくても大丈夫です。本筋とどう関係するのか、聴衆自身がいろいろ考えてくれますから。

・間を空ける
  ずっと話し続けるのでなく、時々、意味ありげに沈黙します。そして聴衆を見回し、微笑んでみせます。聴衆は「どんな意味があるんだろう」といろいろ勘繰ってくれます。

・目を閉じて唸る
  これは沈黙でなく、「今、神様からのメッセージを受信中です」というアピールです。話を切って、目を閉じて、「おー主よ」
とか言うといいですね。でもちょっと演技力がいるので、高難度のテクです。

・画像をふんだんに使う
 名前は言いませんがある牧師が、これをよく使います。
 ある時、「主が創造された世界はこんなに美しいのです」と言いながら、大量の風景や動物の画像をポンポン映していました。あんまり反応は良くありませんでしたが(笑)。

・「十字架に戻りましょう」でリセットする
 ある程度話したところで、「ここらでちょっと十字架に戻りましょう」と言います。そうすると、聴衆に「いろいろ難しく考えてしまったけれど、やはり基本であるイエス様の十字架が大切なんだ」と印象付けることができます。「自分には大切なポイントがいつも見えています」というアピールにもなります。

 さて、こんなもんでしょうか。また思いついたら書きます。
 信徒の皆さんは、これらのテクを使う牧師には注意しましょう。内容のなさをごまかしているだけかもしれませんから。