米大使館のエルサレムへの移転を、クリスチャンはどう考えるべきですか?

2018年5月15日火曜日

キリスト教系時事 時事問題

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敵を愛する? それとも聖絶する?

 イスラエルの首都テルアビブにあった米大使館が、今月14日、ついにエルサレムに移転しました。
  これ自体はただの「大使館の引っ越し」なのですが、その背景にもっと大きな意味があります。すなわちイスラエルの本当の首都はエルサレムだ、とアメリカが(と言うかトランプ大統領が)認定したという意味です。

 同様にエルサレムを自分たちの首都だと思ってきたパレスチナの人々は、当然ながらこの認定に反発しました。そして14日の移転時、抗議デモを行いました。そして一部のパレスチナ人が越境したので、イスラエル軍がこれに発砲、数十人の死者が出てしまいました。

 トランプ大統領の政治的意図は知りませんが、私が気になるのは「イスラエルびいき」のクリスチャンたちの反応です。
 彼らはエルサレムのイスラエル首都認定を「神の御心」だとか「神の計画」だとか言って喜んでいましたが、このようにパレスチナ側に死者が出てもなお、喜ぶのでしょうか。

 であるなら、「あなたの敵を愛せ」という新約のキリストの教えは、彼らにとって一体何なのでしょう。それより旧約の「異教徒を聖絶せよ」の方が大切なのでしょうか。
 新約が旧約に先んじるのがキリスト教だと思うのですが、反対になっていませんか?

もともと住んでいた・・・?

 それでも「イスラエルびいき」の人たちはこう言うでしょう。
「エルサレムはもともとユダヤ民族に約束された土地だったのです」

 かつてユダヤ民族がエルサレムに住んでいたのは、間違いないでしょう。旧約聖書を読むならば、それが彼らの「約束の地」だったこともわかります。でも同時にわかるのは、彼らが堕落したため滅ぼされ、国を追われたという事実です。
 あくまで聖書を読むならばの話ですが、彼らは神に従っていれば国を維持できたのに、そうしなかったのです。だから国を失い、流浪の民になってしまった。

 それから数十世紀後の第二次世界大戦時、イギリスはユダヤ人とアラブ人の双方に独立を約束しました。しかしパレスチナ地域においては、ダブル・ブッキングになってしまいました。アラブ人が住んでいるのにイスラエルを建国した、みたいな感じです。結果、長きにわたる中東戦争に突入してしまいます。

 それでもなお、「イスラエルびいき」は言うでしょう。
「エルサレムにはもともとユダヤ民族が住んでいたのです」

 でも「もともと」の話で言うならば、その前に住んでいたのはアラブ民族です。ユダヤ民族は後から入ったのです。
 それに「もともと住んでいたから」という理屈で居住権を認めるなら、今あなたが住んでいる家に前の住人が来ても、追い払えないことになります。
「ここにはもともと私たちが住んでいた。出て行って下さい」
 そう言われれて、あなたは出て行くのですか?

「神の民」とは

 イスラエルはイエス・キリストの出身民族でもありますから、クリスチャンが特別視したくなるのもわかります。エルサレムに対する憧れみたいなものもあるでしょう。でもクリスチャンであるなら、そういう個人的憧れは一旦脇に置いて、キリストの教えに注目すべきです。

 すなわちキリストは「この山でなく、エルサレムでもない所で礼拝する時がくる」という意味のことを言っています(ヨハネによる福音書4章)。つまり「場所は重要でない」ということです。もっと言うならば、人種も民族も、性別も年齢も、住んでいる地域も暮らしぶりも、その他のどんな差別も区別も関係ない、ということだと思います。全ての人が等しく神に愛されていて、それぞれ尊い存在なんだ、というのがキリスト教の真髄ではないでしょうか。私はそう考えるのですが。

 であるなら、イスラエル民族もエルサレムも、特別なものではありません。一つの民族であり、一つの地域です。それ以上でもそれ以下でもありません。イスラエル民族が「神の民」であるなら、アラブ民族だって私たち日本人だって、「神の民」のはずです。

 そう考えるなら、住んでいた土地を追われたパレスチナの人々にも私たちは同情すべきです。今回イスラエル軍がパレスチナ人を射殺した件にも心を痛めるべきです。それが「キリストの教えに従う」ことだと私は思うのですが、どこか間違っているでしょうか?

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