神学的な議論をする前に、これだけは知っておくべき

2018年4月13日金曜日

教会生活あれこれ

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神学論争は有用? 無用?

「神学論争」なる言葉があります。
「神の存在」を巡ってあーだこーだ延々と議論することから、「答えが出ない堂々巡りの議論」を指すようになった言葉です。「鶏が先か卵が先か」みたいな話もこれですね。やったやらない、言った言わない、などと果てしなく言い合う「水掛け論」にも近いと思います。

 この「神学論争」は、キリスト教界隈でもわりと盛んです。
 具体例を挙げるとこんな感じ。

A「聖書は明らかに◯◯と言っているでしょ」
B「いや、そこは本来こういう意味なんですよ」
A「でもヘブル語原典はこうだよ」
B「それは曲解でしょう」
A「曲解してるのはあなたでしょ」
B「どうしてですか」
A「どうしてもこうしても、祈ったらそう示されたんです」

 みたいな感じですね。
 SNSで時々、こんな感じの議論が勃発することがあります。でもだいたいどこにも到達しないで、両者のストレスが溜まるだけで終わります。ものすごく不毛なので、やらない方がいいと思うんですが。

 でも「話し合うことも必要だ」「議論を避けるべきでない」という意見もあります。
 もっともですね。話し合わなければ、理解も歩み寄りもありませんし、何の生産性もありません。しかし上記のような応酬を見てしまうと、やはりやる気が失せますね。「結局話し合っても意味ないじゃん」となりますから。

議論とは

 では、どうすべきでしょうか。
 まずは「議論」について理解した方がいいと思います。

 ザックリ書くと、議論とは「互いの意見を出し合い、両者の違いを知る」ことです。片方がもう片方を論破するとか、結論を出すとか、相手の考えを変えるとか、そういうのは本来目的ではありません(もちろん議論の種類によっては、一定の結論を出すべきものもあるでしょう。たとえば会社の経営に関する時間的猶予のない議論とか)。

 そのあたりを最初に明確にしておかないと、上記のAさんとBさんのようなことになってしまいます。

 時々、ベテランのクリスチャンが「エ◯バの人が来たから論破してやった」みたいなことを言いますが、「一方的な勝利宣言」に聞こえてなりません。たぶん相手の目的は「勧誘」で、ベテランの目的は「論破」だった、というズレがあったんじゃないかと思うからです。

ゴール(目的)はどこなのか

 議論をする上で一番大切なのは、両者が目的を共有することです。

「この話し合いによって、お互いに相手の考えていることを理解しよう」
「相手の話から、何か一つでも学ぶべきことを見つけよう」
「自分の知識の不足している部分を把握しよう」

 みたいな感じで。
 お互いに「ここがゴール」と決めておけば、脱線しても軌道修正できます。お互いゴールを意識しますから、そこに向けて話を進めて行けます。ストレスもあまり掛かりません(むしろ楽しいかもしれませんね)。

 逆にゴールがないと、話がどこに行ってしまうかわかりません。脱線しまくった挙句の果てに、上記のように「論破してやったぜ」と思い込む恐れもあります。

学ぶ姿勢

 議論でとりわけ大切なのが、「相手から学ぼう」という姿勢です。

 自分と違う考え方をする人たちは、べつに「敵」ではありません。「考え方が違う」だけです。だから「自分とは違う」という認識がまず必要です。
 そして「違うことは問題ではない」のも知るべきです。

 相手が間違っているとか、自分が絶対的に正しいとか、そういう決めつけは良くないです。むしろ「この人は自分とは違う景色を見ている。それを教えてもらおう」みたいな姿勢で臨むのが、いいんじゃないかと思います。

議論すべきでない相手

 ここまで書くと、「議論すべきでない相手」が見えてきます。
 すなわち「議論のゴールを共有できない相手」「話すばかりで聞かない相手」です。もう一つ付け加えるなら、「礼儀を守れない相手」です。

 はじめから「こいつを論破してやろう」「自分の正しさを知らしめてやろう」と掛かってくる相手とは、議論しても何にもなりません。時間の無駄なので避けるべきです(まったく付き合わない、という意味ではありませんよ)。
 だから議論に発展しそうな場合は、相手が何を考えているのか、何を望んでいるのか、そのあたりを見極めるのが先かと思います。

 さて皆さん、上記をご理解いただいて、有意義な神学論争(?)をしましょうね(笑)

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