「礼拝エクスタシー依存」に陥っていませんか?

2018年4月1日日曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題

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『キマジメくんのクリスチャン生活』第83話に「霊的エクスタシー」なるものが登場しましたが、あれは私の勝手な創作でなく、現に一部のプロテスタント教会で言われていることです。あるいは「霊的エクスタシー」という言葉でないかもしれませんが、現象として同じようなものが認知されています。

「霊的エクスタシー」とは、要は賛美や礼拝や祈りの中で「気持ちいい」と感じることです。あるいはトランス状態と言ってもいいかもしれません。すごく気持ちよくてボーッとしたり、前後不覚になったりするくらいの「快感」を伴います。
 そんな頻繁ではないかもしれませんが、その手の教会の人なら、経験があるかと思います。

 さて、「霊的エクスタシー」はなぜ起こるのでしょうか。

 溝田牧師が言うように、聖霊が与えて下さるのでしょうか。「よし、この信徒は霊的な礼拝をしているな。では霊的エクスタシーを与えてやろう。ほら、気持ちよくなれっ!」とか。若干サディスティックな気もしますが(笑)。
  あるいは閉鎖空間の中で引き起こされる、集団ヒステリー(集団妄想)の一種でしょうか(キマジメくんの83話においては、集団ヒステリーの状態を意識して書いています)。
 あるいはもっとパーソナルな問題かもしれません。個人の中で「こうなんだ」と強く確信することがあると、それがあたかも現実のように感じられることがあります。実際にはそれは錯覚や妄想、病的になると幻覚と言うのですが。

 この手の「気持ちよさ」には、音楽も大いに関与していると思います。
 実際、音楽は人の心に作用します。皆さんも音楽によって気分が高揚したり、黄昏たりするのではないでしょうか。「音楽療法」や「リラクゼーションミュージック」なるものもありますね。

 ある障害者施設を訪ねた時、「リラックスルーム」という部屋を見せてもらったことがあります。
 床全体がふかふかのベッドみたいになっていて、クッション類も沢山あって、好きなところで横になれる部屋です。薄暗い照明で、壁に様々な模様が投影されて、プラネタリウムみたいです。そして穏やかな音楽が流れてきます。
 そこに横になってぼんやり天井を眺めていると、もう眠くなること間違いなし(笑)。本来は快眠のためでなく、精神症状による興奮や緊張をほぐすために使われるようですが。
 いずれにせよ、「音」が重要な役割を果たす、とのことでした。

「霊的エクスタシー」とは、必ずしもキリスト教の超自然現象でなく、聖霊の働きでもありません。少なくとも、そう断言することはできません。 上記のようにいろいろな可能性がありますから。

 それに、仮に「聖霊が霊的エクスタシーを与えて下さる」として、じゃあそれが目当てで礼拝するのですか? という話になります。神様をただ礼拝したいのでなく、エクスタシーがほしいから礼拝する? それは厳密には礼拝とは言いません。そしてそれが礼拝でないなら、聖霊がエクスタシーを与える理由もなくなります。矛盾しますね。

 にもかかわらず、礼拝で自分が気持ちよくなれれば「すばらしい礼拝でした」「恵まれました」と言う人が少なくありません。彼らにとって、ドラマチックで感動できる礼拝ほど「すばらしい」ようです。じゃあ、感動しに教会に来るんですか? ぜんぶ自分の「気持ちよさ」のためなんですか?

 もしそうだとしたら、それは薬物依存やアルコール依存と同じようなものです。「礼拝エクスタシー依存」みたいな。すごく気持ち悪い響きですが。
 キリスト教信仰に見せかけた礼拝エクスタシー依存に、陥っていませんか?
 ちょうど今日から4月、新年度ですね。自分の信仰生活を見直すには、いいタイミングかもしれません。

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