逃げ場としての映画館 / 現実逃避とグノーシス主義

2018年3月4日日曜日

雑記

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 蒼井優さんの日本アカデミー賞授賞式でのコメントが、胸に響いています。
 蒼井さんは今回、『彼女がその名を知らない鳥たち』という作品で最優秀主演女優賞をとりました。
 そのコメントというのはこれです。

これから新学期始まりますけど、もし学校が辛いとか、新生活どうしようって思っている方がいたら、ぜひ映画館(界)に来ていただきたいなと思います

 涙ながらの笑顔。たぶん正直な気持ちだったんだろうなと思います。
 ネットでは感動の声が上がっているようです。ご多分に漏れず、私もしみじみと映画館でのあれこれを思い出しました。

 私はあまり元気な子供でありませんでした。もしかしたら皆そうだったのかもしれませんけれど、生きづらさを感じていました。それでよく、映画の世界に逃げ込んでいました。

 映画館は特別な場所でした。映画が始まると真っ暗になって、大きなスクリーンに大きな音で、もうそれだけに集中できます。始まるまでのドキドキ感も、なんとも言えません。
 エンドロールもいつも最後まで見ました。正直、細かいところまで見られないんですけれど。でも大勢がこの映画に関わって、それでこの2時間の世界が作られているんだ、といつも圧倒されましたね。

 私にとって映画で「駄作」というのはありません。
 本当につまらない、退屈な、本当に作る気があったんだろうかと疑いたくなるような映画は、ごく稀にあります。でもほとんどの作品には、もう誰が何と言おうと「よく作ってくれました」という「敬意」しかありません。2時間の映画と、夢をありがとうございました、と。

 誰もがそういう「逃げ場」を必要としているんじゃないかな、と私は思います。
 べつに映画館だけの話ではありません。ギリギリの気持ちを抱えて、逃げるように駆け込んで行く場所です。誰かにとってそれは図書館かもしれないし、近所の駄菓子屋かもしれないし、友達の家かもしれない。誰もこない川原とか、海岸とか、山とかかもしれない。
 そこに逃げ込むと安全で、守られて、一時的だけど、辛いことを忘れられる。そんな場所です。

 そんな逃げ場などない、と言えるのは強い人なのかもしれませんね。それが良いのか悪いのかわかりませんけれど。

 私は今でも「あーどうしようかな」と途方に暮れる時があります。そんな深刻なことじゃないんですけど(笑)。でもそういう時は自然と映画館に足が向きます。そしてその時やっている、ちょうどいい時間の映画を見ます。
 お気に入りの席について(定位置があります)、ボンヤリしながら上映を待ちます。もちろんトイレは済ましてあります。やがて暗くなって、スクリーンのサイズがちょっと変わって、映画が始まります。主人公と一緒になってあれこれしているうちに、自分の「どうしよう」と思っていたことが、どこか別の世界の何かに思えてきます。

 やがてエンドロールが終わり、場内が明るくなると、夢から覚めた気分で会場を出ます。皆が出るのを待ってからですが。
 映画の中で誰かが言ったこと、したこと、そのときの風景、何気なく目に入った小物、わずかな音、そんなささやかな何かが、心に残ります。そしてちょっとだけ元気になった気がして、映画館を出ます。

 基本、子供の頃と同じなのですね。やっていることは(笑)。
 それが「ただの現実逃避だ」と言われれば、その通りですね。でも時々現実逃避することで何とかやっていけるのだとしたら、それはそれで悪くないと私は思います。

 というわけで蒼井優さん、ありがとうございました。

 最後に1つ、キリスト教ブログらしいことを書きましょうか。
 現実逃避が過ぎて、自分の精神世界に唯一の平和を見出すようになると、それはクリスチャン的には「グノーシス主義」の危険信号です。
 私の場合で言えば、映画館に閉じこもってもう外に出たくない、いや、自分の精神はいつだって映画館の中にあるんだ、いや、私にとって真の現実とは心の中の映画館の中なんだ、みたいに言い出したら、それはグノーシス主義に陥ったということです。

 その時はどなかた助けて下さいね(誰も助けないって笑)。

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