キリスト教(クリスチャン)って排他的なんですか?

2018年3月26日月曜日

雑記

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キリスト教は排他的?

 よく「キリスト教(クリスチャン)は排他的だ」と言われますね。

 かつて政治家の小沢一郎さんがこの発言をして、ちょっとニュースになったことがあります。以来、「キリスト教は排他的だ」「不寛容だ」「独善的だ」と言われることが、多くなったような気がします。
 と言っても、私自身は誰かにそれを直接言われたことはありませんが。皆さんは、いかがでしょうか。

 クリスチャンの排他性・不寛容さは、おそらく教団教派によって全然違うだろうと私は思います。
 当ブログでよく問題として取り上げている聖霊派・福音派のクリスチャンには(傾向として)排他的で不寛容な人がけっこう多いと私は見ています。
「聖書の言葉は一字一句信じなければダメだ」
「未信者や異教徒と交わってはいけない」
「信仰とはこうあるべきだ。それ以外は許されない」
「酒もタバコも大罪だ。今すぐやめなさい」
 みたいな余裕のないことを、言って憚りませんから。彼らはそう信じているのですね。

 一方でカトリックの方々には、そういう余裕のなさは(傾向として)あまり見られません。と言うか、私の知っている中にはいません。毎週真面目にミサに通っている人もタバコをプカプカ吸っています(私個人はタバコの煙や匂いが嫌いなので、一緒にいるとムカつくんですが笑)。未信者と交際している人も少なくありません。

 このように教団教派によって、排他性の有無は違ってきます。一概に「キリスト教は・・・」とは言えないですね。
 しかし一部のクリスチャンの排他性は、たしかに半端なく酷いものがあると思います。時として、相手がクリスチャンであっても 追い出しにかかりりますから。

どなたも歓迎? 部外者おことわり?

 私はかつて教会で、奏楽の奉仕をしていました。毎週礼拝で、楽器を演奏していたわけです。
 でも「礼拝での演奏」を正式に教えてくれる人がいませんでしたので、長いこと独学で、手探りでした。これでいいのかな、と迷ったり葛藤したりしたものです。

 そんなある時、他所の教会で「礼拝奏楽者のためのセミナー」なるものがありました。
 礼拝での奏楽についてワークショップを行います、教会の奏楽者の方はどうぞご参加下さい、一緒に礼拝奏楽の何たるかを学びましょう、どなたも歓迎です、という趣旨だったと記憶しています。私はけっこう期待して、新しいノートとペンを買って、よーし1から学ぼう、と意気込んで会場に入りました。若い人を中心に、けっこうな数の奏楽者たちが集まっていました。

 でも参加してしばらくすると、違和感を覚えました。どうも、よく教えてくれないのです。「座学より実践」というのがポリシーだったようですが、とにかく参加者に演奏させるだけでした。
 しかも演奏するのは、なぜか限られた人たちだけです。指導者たちとその人たちとで、なんかワイワイ盛り上がっているのですね。それで、彼らがもともと「知り合い」なんだと気付きました。

 つまり、指導者が親しい人たちに教えるのを、私のような部外者が黙って見ている、という図だったのです。

 それでも私はかなり期待していましたし、なんとか都合をつけて参加したセミナーでもありましたから、「ただでは帰るまい」と頑張りました。指導者が空いたタイミングを見計らって、いくつか質問してみたのです。
 でも、かなりの塩対応でしたね。「あー、質問ですか。そうですねえ・・・」と明らかに乗り気でありません。面倒臭がっているのを、隠そうともしませんでした。

 私は何も言いませんでしが、かなり腹が立ちました。セミナーの案内に書かれていた甘い文言が、一つも真実でなかったのですから。「どなたも歓迎」なんて嘘ですね。あれなら「部外者おことわり」と書くべきでした。
 仲間内で固まって、部外者を簡単に排除しようとする、強烈な「排他性」を見た気がしました。しかも誘っておきながらそういう態度なのが、タチが悪いですね。

 線引き

  同様のことは他にもありました。
 たとえばメッセージを聞く分には素晴らしい人格者に思えた牧師が、実際に会ってみるとビックリするくらい冷淡だったことがあります。講壇では「愛」とか「許し」とか熱く語っていたのに、面と向かうとそんなもの欠片も感じません。あのメッセージの牧師と目の前にいる牧師は本当に同一人物なのかと、疑いたくなります。どの口があれを言ったんだろうか、と。

 しかも、そういうのは1人や2人ではないんですね。少なくない牧師が、建前と本音をえげつないくらい使い分けています(もちろんそうでない人もいます)。
 だから私は次第に、牧師(と言うかクリスチャン)に期待しなくなりました。
 これについては「クリスチャンだって罪人なんだから」みたいな反論があるかもしれませんが、「罪」の話ではありません。そうでなく、態度がガラリと変わっていませんか? という話ですね。

 結局のところ、クリスチャンであっても、「仲間内」と「部外者」とで明確な線引きをしているんだと思います。そして前者を優遇し、後者を排除するのです。
 そういう線引きは、ある程度は仕方ないと思いますね。しかし一つ言えるのは、部外者を簡単に排除するクリスチャンが未信者をすんなり愛して受け入れるなんてあり得ない、ということです。

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