キリスト教的「言葉遣い」をするのが信仰なんですか?

2018年3月18日日曜日

雑記

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 前回のキリスト教的「言葉遣い」の記事に、割と反響をいただきました(ありがとうございました)。
 それだけモヤモヤしている方が多かったのかもしれません。私と同じく。

 一応確認しておきますが、私はそういう言葉遣いを否定しているのではありません。ただ、変に聞こえますよ、と言っているだけです。
 教会に長くいると、そのへんの感覚がどうしても鈍くなってきます。それは仕方のないことです。でもそういうことがあると意識しておかないと、修正不能になってしまいますから。

 聖書もそんなようなことを言っています。他人の目の中のチリより、自分の目の中の巨大な梁を気にしなさい、と(ルカの福音書6章41節)。
 目の中に梁が入っていれば普通気付くと思うんですけど、意外と気付かないようです。そこが人間の面白いところかもしれません。いや、怖いところと言うべきか。

 そもそもの話ですが、キリスト教的「言葉遣い」は、本当に必要なのでしょうか?
 もちろん「専門的用語」は必要だと思います。たとえば(プロテスタントで言えば)バプテスマとか、エキュメニカルとか、回心とか、聖霊降臨とか、 受肉とか、患難とか、その他諸々。そういうのは「その用語を使わなければ内容を簡単に表せないもの」ですから、使うべきだと思います。

 そうでなくもっと日常的な「言い回し」のことですね。
 前回も紹介しましたが「感謝します」とか「恵みが増し加わります」とか。
 あとSNSで教えてもらったんですが「天候が守られて感謝です」とか。
 もっと言うと「アーメン」とか「ハレルヤ」とか。

 そういうの、私は一切使いません。
 だって、使わないとまずいんですか?
 それらの言い回しを使わないとクリスチャンじゃないとか、キリスト教信仰じゃないとか、あるんですか?
 クリスチャンだったら全員「あー、今日は天候が守られましたね。ハレルヤ! 感謝します」とか言わなきゃいけないんでしょうか? 私はそんなの嫌なんですけど(笑)。

 キリスト教信仰に限らずいろいろなことに言えそうですが、物事には「絶対条件」と「付加条件」があります。
 前者は「絶対に必要なもの」で、後者は「あってもなくてもいいもの」ですね。
 キリスト教信仰で言えば、絶対条件は「キリストを神と信じること」でしょう。それに比べて「感謝します」とか「アーメン」とかの言い回しは、付加条件に過ぎないんじゃないでしょうか。使わなくたっていいはずです。

  ある企業が「従業員に素手でトイレ掃除をさせる」ことでちょっと話題になりましたが、まったく意味不明なルールだと思いました。「精神面を鍛えるため」とか言っているようですが、なんでトイレを素手で掃除したらメンタルが強くなるんでしょうか? 因果関係がわかりません。
 もしそれがサラリーマンの絶対条件だとしたら、もはや地獄ではないかと。

 そんな感じで、絶対条件と付加条件は案外混同されていそうです。
 教会内で「感謝します」とか「アーメン」とかが多用されるのは、教会の伝統や習慣であって、信仰とは関係ありません。「教会の皆が言うから」「こう言うと敬虔なクリスチャンっぽいから」みたいなイメージがあるから言うのでしょう。要は「見た目」や「形」の問題ですね。

 ある牧師は説教中、「アーメンと言いなさい」とよく信徒に強要していました。それって信仰の為なのでしょうか? いいえ、場を盛り上げるための方便です。素手でトイレ掃除させるのと同じようなもので、ほとんどハラスメントだと私は思います。心当たりのある方は、その教会に居続けていいものかどうか、よく考えてみた方がいいと私は思います。

というわけで前回に続き、キリスト教的「言葉遣い」にご用心、という話でした。

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