クリスチャンの結婚って、「神の導き」なんですか?

2018年1月25日木曜日

「神の導き」に関する問題 クリスチャンの結婚

t f B! P L
導きを求めるべき? 求めないべき?

 当ブログでたびたび書いているトピックですが、「神の導き」についてまた書きます。また書きたくなってきました(笑)。

 さっそくですが、

「神の導きを求めます」
「神の導きに従います」
「神が導かれるなら◯◯します」

 みたいなことを言う人がいますね。敬虔そうな態度に見えます。いや、たぶんその人自身は敬虔なのだと思います。実際のところはよくわかりませんが。

 ある時、あるクリスチャンの方に、「◯◯するのはいかがですか」と勧めたことがあります。答えはこうでした。
主の導きならば、そうしますね
 私は「わかりました」と言って会話を終わりにしましたが、もう二度と言うまいと決めました。
 導かれないならしないんですか?
 あなたには意志とか願望とかないんですか?
 と思ったからです。

 べつに「導き」を口に出すのが悪いのではありません。その人がやりたいのか、やりたくないのか、聞きたかっただけなのです。だから適当にはぐらかされた感じがして、それが正直不快だったのですね。もしかしたら「やりたくない」というのを「導きならば」に置き換えただけかもしれませんが。

 でも別の日にその人と食事に行く機会がありましたが、行くか行かないかで祈った様子もなく、メニューを選ぶ時に祈った様子もなく、私が奢ったことで葛藤した様子もありませんでした。
 また別の日、礼拝中に代表の祈りを指名されると、即座に祈っていました。何を祈るべきかと、「導き」を求めた様子がなかったです。

 どうやらその人には、「導きを求めるべきレベル」のものと、「導きを求めなくていいレベル」のものとがあるようでした。このラインを越えたら「神の導き」を求める。ラインを越えないものは自分の好きにする。みたいな。
 であるなら、そのレベル、あるいはラインは、いったい誰が決めたのでしょう。神様? あるいはその人?

 そのあたりが大いに疑問なのですが、誰か教えていただけないでしょうか(笑)。

 結婚も神の導き・・・?

 この手の「神の導き」を、自分の結婚にまで持ち込む人たちがいます。

「結婚を願っていますが、神の導きに委ねています」
「神様が備えた相手がいるならば、結婚したいと思います」
「結婚は神様からの贈り物ですから、私の願いではありません」

 なにやら理想の結婚観があるみたいですね。
 旧約聖書の、イサクにリベカという結婚相手が(神によって)備えられていた、というエピソードが影響しているのかもしれません。
 気持ちはわかりますけれど、なんかモヤモヤします。

 結婚の習慣は時代や文化によっていろいろでしょうが、おそらく創世記の時代から近現代まで、日本で言えば昭和初期あたりまで、結婚は親や親戚が決めるのが主流だったはずです。「お見合い」は親や上司がセッティングするものでした。本人たちの意思はほとんど関係ありません。言われた相手と結婚し、いろいろあっても忍耐して、生涯を一緒に過ごす。それが長い間の「結婚観」だったのですね(念のため書いておきますが、例外もあったと思います)。

 過去のクリスチャンたちもそれは同じで、基本的に、親に当てがわれた相手と結婚していました。自分の意思ではありません。だからこそですが、「この人は神様が備えて下さった人なんだ」と信じるようになったのだと思います。頑張ってもどうにもならない、ほとんど運命とも言うべき事柄だったので、「神様の言う通り」と考えたのではないでしょうか。

 ですが、今はそういう時代ではありません。
 いまだ親の都合で結婚する人もいるでしょうが、ほとんどの人は違います。いわゆる自由恋愛で結婚します。
 昔と違い、結婚はほとんど自分の意思でコントロールするものとなったのです。

 だからでしょうが、何を基準に結婚したらいいのか、どういうタイミングで結婚したらいいのか、よくわからなくなっている面もあると思います。昨今の生涯未婚率の上昇は、それを物語っているのではないでしょうか。男性の4人に1人、女性の7人に1人は生涯未婚というデータもあります(2015年)。もちろん低賃金とか非正規雇用の増加とか、そういった社会情勢も関係あると思いますが。

 私の知っている限りでは、教会にも独身の方が多くいらっしゃいます(独身が悪いという話ではありません)。
 教会を一種の「社交サークル」と見るならば、出会いの場として機能する気もします。ですが聖書的(?)倫理観や貞節、純潔といった縛りが強いからか、なかなかそういう場にならないみたいです。その昔は周辺教会の男女をマッチングしてくれる「お局様」もいましたが、今はほとんど聞きません。未信者との結婚を良しとしない雰囲気も、結婚が進まない一因でしょう。教会内の男女比の差も大きいですし。

 という背景が、結婚を願う人たちの混迷を深めていると思います。どうしたらいいかわからない、みたいな。
 そしてわからないから、「神様が導かれる」「神様が備えておられる」「結婚は(神様からの)贈り物だ」みたいに、考えたくなるのかもしれません。

 ですが今の時代の結婚は、自分で考えなければ進みません。親も誰もセッティングしてくれず、ある意味誰からも強制されないものとなったからです。するもしないも(様々な事情があるでしょうが)自分と相手次第です。

 先輩であるクリスチャン夫妻たちの中に、「神様の不思議な導きで結婚しました」というケースがあるでしょうか。もしあるとして、それは本当に「不思議な導き」だったのでしょうか。「後付け」で何とでも言えるものではないでしょうか。

 もちろんですが、これは「結婚しなければならない」という話ではありません。独身は全然悪いことではありません。ただ結婚を願うならば、意識するならば、「神の導き」でなく自分で考えましょう、という話です。

結局、「神の導き」って何なの

「人生で起こったことは全て神の導きだ」という考え方もあると思います。人生は全て「偶然」でなく、神による「必然」だと。
 ですがその場合、悲惨な事故や事件に巻き込まれたり、酷い目に遭ったりしたことも全て「神の計画」だったことになります。あなたの神は、災いをもたらす神なのですね。

 あるいは良いことだけを「神の導きだった」と言う人がいますが、良い悪いを自分が決めている時点で恣意的です。自分にとって良いことが、皆にとって良いこととは限りません。

 あるいは、ある事柄で「神の導き」を求めるのは、良いことなのでしょうか。選択肢がいくつかあって、どれが良いのか神様に尋ねるのは、良いことなのでしょうか。

 私はそれは、神を都合よく利用することだと思います。
 選択に失敗したくないから、最善の選択をしたいから、つまり自分が得をしたいから、「全知全能」なる神のアンサーを聞きたいのです。「あみだくじ」のゴールを知っているであろう神に、「事前に」聞いておきたいのです。

 でもそれらは全部、自分で悩んで考えるべき事柄です。自分自身のことなのですから。正しいかどうかわからないけれど精一杯考えて選択し、ドキドキしながら成り行きを見守って、その結果をも受け入れるべきです。神のせいにも、誰かのせいにもしてはいけません。

 じゃあ結局「神の導き」って何なの、という話になるでしょう。
 でもそれが簡単にわかるなら誰も苦労しません。私もよくわかりません。でも少なくとも私は、「この選択肢のどっちを選ぶべきでしょうか」みたいな祈り方をして、神を利用しようとは思いません。また、よくわからないのに「導きとはね・・・」と語ろうとも思いません。

 まあ正直なところ、「神の導き」なんて難しいことは言わない方がいいと思いますね(笑)。
 皆さんはどうお考えでしょうか。ご意見あればお聞かせ下さい。

QooQ