馬小屋生まれの大工は、革命家(ニート)になったら儲かったのか?

2017年12月17日日曜日

キリスト教系時事 雑記

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クリスマスが近いので、今回はクリスマスらしく、イエス・キリストご本人に焦点を当ててみたいと思います。当ブログとしては珍しい試みですね。
ですがその前に、ちょっと「教会のHP」について書きたいと思います(いきなり飛躍し過ぎてすみません)。

教会のHPからわかること

教会のHPと言っても、RPGのヒットポイントのことではありません。ネットで閲覧できるホームページのことです。あ、わかってますよね。失礼しました笑

それはともかく、私はけっこう意識して、いろいろな教会のHPを見るようにしています。有名教会のHPから、どこにあるのか地理的にわからない(すみません)教会のそれまで、ランダムに見ます。もちろん時々ですけれど。

すると、全然知らない教会のことなのですが、見えてくるものがあります。その教会の価値観です。もちろん全部わかるわけではありません。でもその教会が何を重視しているのか、何を気にしているのか、けっこう見えてきます。

まず、言い方がメチャメチャ悪いですが、明らかに素人レベルの、シンプルかつ不便かつ不親切なHPがあります。牧師先生か誰かが一生懸命、見よう見まねで作ったんでしょうね。いちいちブラウザの「戻る」ボタンでメニューに戻らないと他のページに行けないみたいな、素朴な作りのヤツです。私個人はそういうHPに温かみを感じるので、実はこれは褒めているのですが。

そういう教会はたぶん、人手不足か、資金不足か、あるいはネットに関心がないかだと思います。でも今はちょっとの労力やお金で見事なHPが作れてしまう時代なので、やはり根本的に関心がないのだと思います。昔ながらの地道な伝道とか、既存の信徒とのリアルな交流とか、そういうものを大切にしているのではないかな、と私は勝手に思っていますが。

そんなふうにHP自体はイマイチなのですが、日曜礼拝の説教だけは毎週欠かさず掲載している、なんてことがあります。しかも原稿をそのまま上げるのでなく、ちゃんと読みやすいように編集してあるのです。これはけっこうな労力だと思いますね。日曜日の夜に、牧師先生が一生懸命パソコンに向かっている姿が目に浮かびます。
つまりその教会は、HPがどうであれ、説教が大切なのだ、という価値観を持っているわけです。

一方で先進的な、プロフェッショナルなHPもあります。画像や横文字がふんだんに使われ、メニューも細かく分けられています。動画あり、グッズ販売あり、SNSとの連携あり、メルマガありです。プライバシーポリシーなどのコンプライアンスもしっかりしています。デザインのセンスも良く、素材も良く、いかにもイマドキです。

そういう教会がネットの発信力や利便性を重視しているのは間違いありません。でないとそこまで力を入れないからです。
つまり、そういう価値観を持っているわけです。

でもこれは見方を変えると、「見映えやイメージにこだわっている」ということでもあります。たとえば教会の外観の画像に、本来は電線とか樹木とか道路標識とかいろいろ映っているのですが、加工ソフトで全部キレイに消していることがあります。HPだとものすごくキレイで光り輝く建物なのに、実際行ってみると全然違う、なんてことになりますが。

というのはほんの一例ですが、いわゆる「印象操作」をしているわけです。それが悪いとは言いません。印象を気にするのは当たり前なことですから。でも一部の教会に関して言えば、HPに溢れる信徒たちの笑顔も、あたたかく家族的な雰囲気も、掲げられた美辞麗句の数々も、実情に反して演出されたものかもしれません。そのへんは、ちょっと注意した方がいいとは思います。
ともあれ、そういう画像の細かい見映えにこだわる、という価値観を持っているわけです。

という具合に、教会HPを見てみると、その教会(あるいは牧師)が大切にしていること、気にしていることが何となくわかってきます。車で言えば、中古の軽自動車で満足しているのか、最新の高級車でなければ嫌なのか、みたいな価値観が。

中にはHPの見やすいところに、こんなメッセージを載せている教会もあります。
「クリスチャンは繁栄すべき存在です。さあ、あなたも一緒に繁栄しませんか」

だいぶ「繁栄の神学」に傾倒している気がしますが、案の定、HPは立派です。素敵な笑顔、美しい設備、光り輝く十字架で満ちています。
その教会の価値観は、間違いなく「繁栄」にあるのでしょう。

そこでふと疑問に思ったことがあります。あれ、キリスト教のメッセージって、「繁栄」だったっけ? と。

クリスチャンは清貧であるべきか、繁栄するべきか

キリスト教に、「清貧」という言葉を連想する人がいるかもしれません。質素な暮らしを旨とした、中世ヨーロッパの修道院のイメージでしょうか。
一方で昨今の福音派・聖霊派教会では、真逆の「繁栄」が叫ばれています。もちろんそうでない教会もあるでしょうけれど。
ではそもそもキリスト教とは、「清貧」を言っているのでしょうか。あるいは「繁栄」を言っているのでしょうか。皆さんはどう思われますか。

旧約聖書には、「逆境にあってなお繁栄していく物語」が多く見られます。ヤコブ、ヨセフ、ヨブ、ダビデ、あるいは王になるまでのサウルがそうです。痛快な逆転劇の数々で、読んでいて気持ちいいし、最後は繁栄してくれて良かった、と思えます。

でも新約聖書には、その手の繁栄話は見られません。むしろキリストの「たとえ」においては、金持ちや権力者はもっぱら悪い意味で使われています。「金持ちが天国に入るのは難しい」とも言っています(マタイ19章23節)。また初代教会の人々は、自分の資産を売って教会に捧げていました。だからものすごく繁栄して金持ちになった、権力者になった、という信徒は出てきません。

私の知る限り、キリストも「繁栄」について何も言っていません。

もし上記の教会のように「クリスチャンは繁栄すべき存在」だとしたら、「繁栄できていない人たち」は一体どうなってしまうのでしょう。資産を捧げた(結果個人では何も所有していない)初代教会の人たちはどうなってしまうのでしょう。何か罪があるから、繁栄できなかったのでしょうか。だとしたら生涯繁栄と無縁だったキリストは、罪深かったのでしょうか。パウロも繁栄とは無縁でしたが。「愛された弟子」のヨハネも、最後は島流しに遭いましたが。

それに繁栄を叫んでいる教会の人たちは、本当に繁栄しているのでしょうか。繁栄しているのは、献金を最終的に懐に入れている牧師だけだと思いますが。信徒の方は、かえってカツカツになっているはずです。

「繁栄」すること自体は、悪くありません。ですが「繁栄しなければならない」というのは、おかしいと思います。

では「清貧」が正解なのでしょうか。でも、これもちょっと違う気がします。なぜならキリストは「貧しい者はさいわいだ」とは言っていますが、「貧乏になれ」とは言っていないからです。貧乏な方が良いとか、金を持ってはいけないとか、そういうことも言っていません。

ではそう言うキリストご自身は、どうだったのでしょうか(やっと本題)。

キリストは貧乏だったのか、リッチだったのか

キリストは馬小屋で生まれ、早くに父を亡くし、30歳くらいまで大工をしていました。どういう暮らしだったのか詳しくわかりませんが、リッチだったとは思えません。たぶん母マリアと兄弟たちと、慎ましく暮らしたのではないでしょうか。

そしてある時、急に大工を辞めて、宣教活動に身を投じます。そして斬新な教えと奇跡を武器に、弟子を増やしていきます。でも、金儲けにはならなかったようです。なぜなら枕する所もなく(マタイ8章20節)、税金も滞納する(マタイ17章27節)生活だったからです。
しかも「最後の晩餐」のシーンを読むと、一行の財布を預かっていたのがユダだとわかります(ヨハネ13章29節)。これは、キリスト自身は財布すら持っていなかった、ということです。お金がいくらあるのか、全然把握していなかったかもしれません。

というわけで、キリストがリッチだったとは考えにくいことがわかります。むしろその反対の状況だったのではないでしょうか。

もう一度整理してみましょう。
キリストは馬小屋で生まれ、早くに父を亡くし、大工として家計を支えましたが、30でリタイアしました。それ以降は良く言えば宗教革命家、現代風に言えばニートです。金儲けはできませんでした。しかも(あくまで一般的な視点でみればですが)、最後は処刑されて死んでしまいました。惨めな、哀れな生涯だったわけです。

このことから、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

まず、キリストに倣うことは、必ずしも繁栄することではありません。成功したり、何かを取得したりすることでもありません(してもいいのですよ)。
次に、私たちは失敗してもいいのです。キリストの人生でさえ、あくまで一般的に見るならばですが、処刑という「失敗」で終わってしまったからです。
最後に、キリストご自身がそうだったように、私たちも自分の信念に従って生きるべきでしょう。誰に何と言われても、誰に理解されなくても、です(もちろん客観性は持っておくべきです)。

「繁栄」という言葉から、そんなことを考えてみた次第です。
さてこのクリスマス、馬小屋で生まれたキリストをそういう視点で見てみるのも、なかなか面白いかもしれません。

繰り返しになりますが、皆さん良いクリスマスを。

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