クリスチャンって断食した方がいいのですか?

2017年11月17日金曜日

教会生活あれこれ

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断食する? しない?

突然ですがクリスチャンの皆さん、「断食」しますか?

 これはたぶん教団教派によって「する・しない」が分かれるトピックだと思います。断食するところは「メッチャする」し、しないところは「しない」のではないでしょうか。
 ちなみに私が普段問題として取り上げている聖霊派は、断食をメッチャする方です(ただし聖霊派でも、しない教会が一部にあるかもしれません)。

 申し訳ありませんが、他の教派のことは詳しく知りません。ただ伝統的な教派では、断食という言葉はあまり聞きませんね(詳しい人がいたら教えて下さい)。たぶんやらないのかな?

 いずれにせよ、私はここで断食をすべきだとか、断食なんてしなくていいんだとか、そういうことを言うつもりはありません。するもしないも、それぞれの信仰なり信念なりがあると思いますから。それは尊重されるべきでしょう。
 あとこれは私個人の考え方ですが、聖書には断食を絶対にしなければならないとか、逆に絶対にしてはならないとか、そういうことは書いていないと思います。

 皆さんは(あるいは皆さんの教会は)どうお考えでしょうか。

 ちなみに余談ですが、またキリスト教信仰とは全然関係ありませんが、現代はとんでもないくらい飽食・過食な時代です。だから時々断食するくらいで丁度いいかもしれません(笑)。もちろん身体的な理由で断食なんて絶対できないという人は、しなくていいんですよ。また1日3食ちゃんと食べるのが健康に良いという定説を、否定する気もありません。

 と、いう前提で書きますが、時々食事を抜いてみるとか、軽めにしてみるとか、一定期間低カロリー食で過ごすとか、そういうのも良いと思います。現代(日本)の食糧事情ですと、下手すると1日に三千や四千、あるいはそれ以上のカロリーを摂ってしまいますから。簡単に食べ過ぎになってしまい、毎日続いたら(長期的には)大変なことになり得ます。
 だからキリスト教信仰とは全然関係ない話として、断食そのものは、やってみるのも良いかもしれません。かく言う私も1日断食とか、あえて低カロリーで過ごすとか、そういうのを時々やって体調を整えています。食べる時間と食べない時間をきっちり分けることで、胃腸を休めるのもお勧めです(そのへん詳しく知りたい方はメール下さい笑)。
 くどいようですが、これはあくまで健康管理の話ですよ(笑)。

断食の実態は

 さて話を戻して、断食を推奨するキリスト教会では、具体的にどのようなことが行われているのでしょうか。私が見てきたいくつかの例を、紹介してみましょう。
(あくまで一教会の事例ですので、参考程度にして下さい)

・特別な「導き」を求めて断食する
 何でもいいんですが、人生における転機、たとえば進学とか就職とか、転職とか、献身とか、そういう割と大きな決断をするときに、しばらく断食します。ただしその結果、何らかの答えが与えられるとは限りません。

・重要な「お願い事」があって断食する
 たとえば重い病気に罹ったとか、仕事で失敗して解雇されそうだとか、大きな借金を抱えてしまったとか、そういうシャレにならない事態に直面したときに、しばらく断食します。ただしその結果、問題が解決するとは限りません。

・集会などのイベントの前に皆で断食する
 規模の大きい伝道集会を開く前なんかに、その集会の祝福なり成功なりを祈願して、皆で断食します。皆と言っても、全員で一斉に断食するのではありません。たとえば今日の朝は私、昼はあなた、夜は彼、明日の朝は彼女、みたいな感じで、担当を決めて分担していきます。「連鎖断食」と言いますね。ただしその結果、集会が成功するとは限りません。

・「霊の戦い」に備えて断食する
 ダニエル書10章に、ダニエルが特別な「啓示」を受けたとき、3週間の断食をしていた、という記述があります。このことから、「霊的な働き」をする際は断食が有効なのだ、みたいな解釈があります。ただし本当に有効かどうかは立証されていません。

 さて、おおよその方向性がおわかり頂けたでしょうか。要は、何か重大な局面になると断食する、ということです。
 もちろんですが、この断食とはただ「食事を我慢する」ということではありません。本来食事をする時間を祈りに費やす、ということですね。わかりやすく言えば。
 たぶん韓国のチョー・ヨンギさんの話だったと思いますが、「食べるという肉の欲を制して祈るので、より霊的に敏感になれる」「身体が弱るだけ霊的になれる」「だから断食は良いんだ」みたいな感じです。
 だからこの手の教会で断食をしている最中の人たちは、「自分、今すっげー霊的になってる」みたいに思っているわけです。それが本当かどうかは、定かでありませんが。

 よくSNSや個人のブログなんかでも、
「今日で断食◯日目です。メッチャ恵まれてます」
「この前断食したら、こんな恵みがありました!」
 みたいなご報告をされている方がいますが、まず上記と同系統と見ていいでしょう。
 要は「断食すると良いことがある」ということです。

聖書は何と言っているの?

 たぶん聖書にお詳しい方なら、断食に関連する聖書箇所をポンポンポンと挙げられるでしょう。でも私はそこまで研究熱心ではありませんので(すみません)、おそらく誰も読み間違えないであろう、基本中の基本だけ挙げるに留めます。でも、何でも基本は大切なんですよ(笑)。
 さて、マタイの福音書6章16〜18節に、最低限これだけは覚えておけよ、的な断食の基本が書かれています。要約するとこうです。

 断食は、人に知られないようにやりなね。

 これだけです。
 断食の目的や方法はともかく、キリストが断食について一番明言しているのは、この部分だと思います(他にあったら教えて下さい)。
 おそらくノーマルな読解力をお持ちの方なら、この部分を読み違えることはないでしょう。どう読んでも、明らかに、こう言っていませんか。
「断食は他人にアピールするものではありません」

 では翻って、昨今の断食の実態を見てみましょう。
 上記の「導き」を求めるにしても、「お願い事」をするにしても、イベントの成功を願うにしても、「霊の戦い」をするにしても、断食することを明確に他者に伝えていることがほとんどです。「断食◯日目です」なんてまさにそうでしょう。「アピールするものではない」とはっきり書かれていることを、はっきりアピールしてしまっているのですね。

 こういうのはぶっちゃけ、「自慢したい」だけではないでしょうか。
「これだけ断食して、これだけ恵まれたんです」
「こんなに長く断食して、苦しいけど、熱心に主にお仕えしてるんです」
「自分はこんな断食ができるくらい霊的なんです。あなたがたとはレベルが違うんです」
 そういうアピールがしたいのではないでしょうか。本人にはそういう自覚がないのかもしれませんが。

 またこういうのは断食に限らず、いろいろな場面で見られます。
 たとえば今日はこんな仕事があって、その後これこれのイベントがあって、終わったらどこどこに直行して、大変だけど健康が守られますように、みたいな。
 それただの「忙しい自慢」じゃないですか? と私は思ってしまいます。

断食からエキュメニカルへ(?)

 若干話が逸れましたが、そういうわけで断食そのものは、してもしなくても、どちらでもいいものだと私は思います。けれど断食を率先して行っている人たちを見ると、どうもズレてるんじゃないかな、と感じるわけです。

 だから断食とは何なのか、皆でもう一度見直してみた方がいいのかもしれません。その「皆」というのが誰のことなのか曖昧ですけれど。でもエキュメニカルを目指すのであれば、こういった1つ1つの事柄について意見を出し合って調整していくプロセスが、絶対必要になるのでしょうね。そういうのが実現したらいいと思います。現に「断食」1つとっても、だいぶ考え方が違うようですから。
 実際に話し合うとなったら、それはそれで大変そうですけれどね笑

 と、断食を巡って、そんなことを考えてみた次第です。

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