昨今の「預言」を信じますか・信じませんか(その3)

2017年10月5日木曜日

「預言」に関する問題

t f B! P L
「預言」について3回目です。
 前2回の記事は下記から。

 曖昧ゆえ判定不能な「預言」、いかようにも解釈できる「預言」、誰にでも当てはまる「預言」の問題点について。

 吟味のない「預言」と、それが文化として固定化されている教会群について。聖書より自分たちの文化の方が大切になっているという本末転倒について。

・「神の啓示」に混入している「人間の思考」

 さて今回は、「預言」の元となっている「神の啓示」から話を始めます。
 まず以前にも当ブログで紹介させていただいた、青野太潮氏の書籍「パウロ 十字架の使徒」から引用します。若干難解な文章かもしれませんが。

ーーーーー以下引用ーーーーー

 パウロは「神は御子を私のうちにおいて啓示された」と語っているが、「神の啓示」について、別の箇所では次のように語っている。

 預言する者たちは、二人あるいは三人が語りなさい。そして他の者たちは(預言の内容を)吟味しなさい。しかし、もしも座っている他の者に啓示が与えられたなら、最初の者は黙りなさい。(中略)預言をする者たちの霊は、預言をする者たち(自身)に従属する。神は無秩序の神ではなく、むしろ平和の神だからである。(コリント人への第一の手紙14章30ー32節)

 これは、礼拝のなかで披露される「啓示に基づく預言」によって生じた、コリント教会における混乱との関連でパウロが記した言葉である。パウロはここで、インスピレーションは預言者の自我に従属しており、「神の啓示」のなかには、啓示を受けたと思う者が内側に抱える思いや願望、疑問が密接不可分のかたちで入り込んでいる、という認識を示している。つまり、「神の啓示」は、それを受ける者の心理に従属している、と語っているのである。(中略)「神」を確信をもって信じるに際して、人は決して排他的な自己絶対化に陥ってはならないのだ、とパウロは警鐘を鳴らしているのである。(P176ー178)

ーーーーー引用終了ーーーーー

 要は、「神の啓示」はどこか外側から突然ポーンと降ってくるものというより、自分がもともと持っている思考や願望に対応したものとして与えられる(あるいは、与えられたと思う)、ということです。
 だから、祈っていて「神様が今◯◯と啓示しておられる」と感じたとき、そこにはそもそもの発端として自分自身の思考や願望がある、ということです。もっと端的に言うと、「◯◯であってほしい」「◯◯なのではないか」という自分自身の思考が、「祈り」や「礼拝」といったプロセスを経て、「神が◯◯と語っておられると強く感じる」という感覚に「変換」されていく、ということです。

「自分の考え」のないところには、「神の啓示」もない、とでも言いましょうか。
 これは「預言」が意図的(あるいは恣意的)に語られてしまう原因でもあると思います。
 その手の教会で長く過ごしておられる方には、覚えのある感覚ではないでしょうか。
 正直言うと私はあります。

 そしてここに「吟味」というプロセスがなかったら、どうなるでしょう。
 何の吟味も検討もなかったら、「神が◯◯と語っておられると強く感じた。これは間違いなく神の啓示だ」という思い込みに陥っていくと思います。誰も止めないので。青野氏の言葉を借りるなら、「排他的な自己絶対化」という状態になると思います。
 だから「吟味」という、「第三者による監査」が必要になるのです。青野氏もそのことを警告しているのではないでしょうか。

 しかし預言を語るのが主に牧師で、その牧師を監査する人間が誰もいない、というのが、昨今の「預言的教会」の問題点だと思います。牧師の言葉が無条件に「神の言葉」になってしまいますから。これは「牧師の神格化」という、カルト的教会に特徴的な状態でもあります。

・意図的に語られる「預言」

「神の啓示」が意図的(恣意的)に語られるとしたら、「預言」もまた意図的(恣意的)に語られる恐れがあります。
 そして預言を語る人間の言葉が無条件に(吟味なしに)受け入れられるとしたら、その「預言」が本当に神によるものなのか、あるいはその人間の意図したものなのか、確かめる術がありません。(絶対に間違っていると言っているのではありません。確かめようがないと言っているのです。)

 ただ見ていて疑問に思うことはあります。
 たとえばですが、「預言」をする牧師のA先生、B先生、C先生がいるとします。それぞれ特徴的な「預言」をする人たちです。
 A先生は「父なる神の愛」を強調します。
 B先生は「裁きと悔い改め」を強調します。
 C先生は「主の勝利と栄光」を強調します。
 それぞれの先生の「預言」は、いつもそれぞれの強調点に基づいて語られます。たとえばA先生はどんな相手であっても「父なる神の愛」を優しく語ります。

 実際にこういう先生方がいるのですが、ちょっと脚色しています。完全な作り話ではありません。

 さて、あなたのところにA先生がきて、いつも通り「父なる神の愛」に基づいた「優しい預言」をしました。
 翌週にはB先生がきて、「裁きと悔い改め」に基づいた「厳しい預言」をしました。
 次の週はC先生が「主の勝利と栄光」に基づく「輝かしい預言」をしました。
 あなたは感謝感激でそれぞれの「預言」を受け取るでしょうか。

 私はちょっと疑問に思います。神様は、なぜA先生の時は「父なる神の愛」しか語れないのでしょうか。他に伝えたいことはないのでしょうか。またなぜB先生の時は「裁きと悔い改め」しか語れないのでしょう。C先生の時も然りです。神様はいつでも何でも、自由に語られるはずなのに、なぜ制限されなければならないのでしょう?

 しかもこの場合、神様を制限しているのは、A先生でありB先生でありC先生なのではないでしょうか。自分の強調点に基づいたことしか神に語らせないからです。だとしたら彼らの「預言者」としての能力とは、どんなものなのでしょう。全く不十分ではないでしょうか。

 これを旧約時代にたとえてみましょう。
 たとえばですが、ユダ王国の滅亡を「預言」するときに、このA先生が派遣されたらどうなるでしょう。それでも愛に溢れた「優しい預言」をするのでしょうか。主の裁きや怒りといったメッセージは、どこに行ってしまうのでしょうか。

 というわけで、これらの先生方の「それぞれ強調点の異なる預言」というのは、それぞれが意図的なのを否めません。「神の言葉を預って語る」というより、自分の得意なメッセージを語っているのではないでしょうか。

・悪意を持って語られる「預言」

 さらに酷いことに、悪意を持って「預言」を語る人間もいます。
「あなたは大伝道者になる」とか「あなたは芸能人になる」とか「あなたは◯◯大学に入る」とかです。私が知っている範囲ではどれも全く実現していませんから、ウソなのは間違いありません。
 こういう「預言」に振り回されて、人生の時間を幾らかでも無駄にしてしまう人たちがいます。悲劇としか言いようがありません。

「信じた方も悪い」と言われるかもしれませんが、そういう教育を受けてきたのだし、まわりにも同じような人たちが沢山いるので、「疑う」ことができなくなっているのです。だから言われるままに信じてしまい、大きな夢を見て、結果的に多くを失ってしまうのです。

 旧約時代から始まって今日に至るまで、「預言」は取り扱い注意な危険物だと私は思います。当然ながら悪いものではありません。それを扱う人間の方に問題があるのです。「預言」を完全に否定する教団教派もありますが、私はむしろその方が安全だと思います。「預言」によって受ける恩恵より、被害の方が大きいかもしれませんから。

 というわけで「預言」を推奨する教会の皆さんには、よくよく注意して頂きたいと心から願います。

・引用した書籍


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