『キマジメくん』の連載を再開したワケ

2017年7月23日日曜日

私事

t f B! P L
・完全に私事ですが

 今回、およそ2年と5ヶ月ぶりに、『キマジメくんのクリスチャン生活』という小説の連載を再開しました。
 なんでこんなに空いたのか、またなぜ今になって再開したのか、今回はちょっとそのへんの経緯を書きたいと思います。

 ちなみにこのおよそ2年半の間、何度か「続きはまだですか?」という問い合わせをいただきました。正直嬉しかったです。同時に心苦しくもありました。そういう方々の期待に応えたい、というのも今回再開した動機の一つであります。

  連載を(勝手に)中断した理由は、単純に学校に通い始めたからです。2015年の4月のことでした。そこから学業と仕事の両立が始まりましたので、当ブログは「最小限にしてできるだけ続ける」ことが目標になりました。
 ブログ記事はけっこうランダムに、単発で自由に書けるからいいのですが、連載小説となると、事情が違ってきます。週1本ずつの連載でも、先を見据えて書かなければならないし、それまでの話しとの整合性にも注意しなければならないので、けっこう手間がかかります。学業も片手間でできるものではありませんでしたので、連載はちょっと無理だなと気付きました。

 かと言って、「学校に行くので連載を中断します」とも表明できませんでした。それ自体がプレッシャーになりそうだったからです。すべてが終わってから、「学校卒業しました」と言いたかったのです(実際、今年の3月に報告させていただきました)。
 それに、詭弁のようですが、『キマジメくん』は「不定期連載」と毎回明示していましたので、「まあ2年くらい空いても不定期なんだからいいだろう」くらいに思ったのもまた事実です。ズルいっちゃズルいんですけど(笑)。

 で、今年の3月に学校を無事卒業しました。それからしばらくは放心状態というか、骨休めの期間に入りました。それまで我慢していた読書や映画鑑賞にドップリ浸かりました。よく言えばインプットの期間というか。
 それから早いもので7月も半ばを過ぎ、「そろそろ何か(生産的なことを)始めよう」という気持ちになりました。で、真っ先に思いついたのが『キマジメくん』だったわけです。

 そして2年間放置していた、52話分の『キマジメくん』を久しぶりに読み返してみました。なかなか辛いというか、面白いというか、複雑な気持ちになりました。自分で書いていてアレですが、教会生活の「リアル」を感じたからです。それもカルトっぽい教会のリアルです。

 この小説、もちろんフィクションですし、半ば冗談っぽく書いていますが、けっこうマジな話なのです(もちろん脚色しています)。「信じられない」という人がいるかもしれませんが、そういう人は幸せな人なので、対岸の火事を眺めるような感じで読んでいただけたらと思います(皮肉ではありません)。

・なぜ小説(物語)なのか

 私が『キマジメくん』を書くもっとも大きな理由は、牧師や教会のおかしなところを訴えるのに、論理的に「こうでこうでこうなんです」と書くだけでは「足りない」と思ったからです。やはり人間は感情で動く生き物なので、物語の中で登場人物たちが動いたりしゃべったり、傷つけたり傷つけられたりするのを見ることで、はじめて共感したり、理解できたりすることがあるんじゃないかな、と思うわけです。

 いくら筋道立てて論理的に説明しても、伝わらないものは伝わらないのです。

 旧約聖書から引用しますが、ダビデという王様がいますね。彼はゴリアテを倒したことで有名ですけれど、イスラエルの王様になった後も連戦連勝の強者でした。もちろん神の助けがあってのことなのですが、それも含めて彼は「偉大な王」だったわけです。
 しかしダビデの弱点は女性だったようです。部下のウリヤから奥さんを奪い取り、しかもウリヤを激戦地に送って戦死させてしまいました。万事うまく運んだと思ったことでしょう。しかし神様はご存知でした。そして預言者ナタンを送り、ダビデを責めさせます。

 その方法が、なかなかエゲツないのですね。
 ナタンはダビデにたとえ話をしました。金持ちと貧乏人がいて、金持ちは羊をたくさん持っていたけれど、貧乏人は一頭しか持っていなかった。金持ちのところに客人が来た時、金持ちは自分の羊を提供するのを惜しんだ。で、貧乏人の唯一の羊を奪って、客人にもてなした、と。
 ダビデはそれを聞いて激怒して、「その金持ちは死刑だ!」と言います。そこですかさずナタンが言います。「あなたがその金持ちです」

 たぶんダビデはガツンとやられたと思います。
 もしナタンが「王様、ウリヤとその妻のことで、主が怒っておられます」と言ったら、ダビデはどう反応したでしょう。もしかしたら素直に認めなかったかもしれません。適当に誤魔化そうとさえしたかもしれません。
 しかし金持ちと貧乏人のたとえ話を聞いて、ダビデはその悪事に心底腹を立てたのでした。そしてそれが自分のしたことだと指摘され、はじめて自分の悪事に「気付いた」のではないでしょうか。

 物語には、そのような力があります。ある意味、論理を越えているかもしれません。
 もちろん論理は論理で必要なのですけれど。

 私も同じような理由で、『キマジメくん』を書き始めました。表現力とか描写力とか、まだまだ勉強が必要なのは承知しているのですが、それでも「何とかして表現しなければ」と思っています。

 というわけで『キマジメくん』を再開したのでした。これからどういう展開になるか、自分でもまだハッキリとはわかっていません。でもキマジメくんやその他の人物が今後たどる運命をみて、何かを感じ取っていただければ、何かを考えるキッカケにしていただければ、それはとても幸いなことです。

QooQ