上に立つ人の「資質」の問題・その2

2017年7月8日土曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題

t f B! P L
上に立つ人の「資質」について。2回目です。

今回はリーダーとなる人の本来的な「資質」でなく、「後付けされる資質」について書きたいと思います。つまりリーダーになるまでの話でなく、なった後の話。リーダーという「権威」が与えられた、その後の話です。

・心理学の実験

「ミルグラム実験(アイヒマン実験)」をご存知でしょうか。
閉鎖空間において一定の「権威」を与えられた(あるいは奪われた)被験者に起こる、心理的変化を観測する実験です。
いくつか種類があると思いますが、ここでは「ミルグラム実験」と、何度か映画化もされている「スタンフォード監獄実験」を簡単に紹介します。

なんで心理学の話なんだ、と思われるかもしれませんが、いやいや、クリスチャンこそ心理学は知っておくべきだと、私は常々考えています。

・①ミルグラム実験

ランダムに集められた被験者が「教師役」となり、別室にいる「生徒役」に、用意された問題を出していきます。そして生徒役が間違えたら、電気ショックが流れるボタンを押して「罰」を与えます。電圧は間違えるたびに上がっていきます。
実は生徒役はサクラで、実際には電気は流れておらず、苦しむ演技をしているだけですが、教師役(被験者)には本当に苦しんでいるように見えます。
電圧は15ボルトから始まり、最大で450ボルトまで上がります。300ボルトあたりから「危険」という説明があり、いかにもヤバそうな、命の危険がありそうな感じがします。
しかし生徒役は意図的に間違えるので、「罰」となる電圧はどんどん上がっていきます。
もし教師役(被験者)が途中で不安になって、ボタンを押すのを拒否したら、権威のありそうな白衣の実験者が「続行して下さい」と冷然と通告してきます。そのような通告は4回繰り返されます。つまり被験者が5回続けて拒否した場合のみ、実験は終了となるわけです(被験者は5回拒否すれば終われるとは知りません)。

さて最初の予想では、450ボルトまで押してしまう被験者はごく少数(1%程度)だろうと考えられていました。つまりほとんどの被験者がボタンを押すのを断固拒否するだろうと、実験者たちは予想したのです。しかし結果的には、約6割の被験者が、最高の450ボルトまで押してしまいました。

これは危険な、残酷な、もしかしたら人を死なせるかもしれない行為であっても、権威者に指示されたら実行してしまう、そういう人が半数以上いる、ということを意味します。

・②スタンフォード監獄実験

1971年、心理学者ジンバルドーは、スタンフォード大学の地下に実験監獄を作り、21人の被験者のうち11人を「看守役」、10人を「囚人役」として収容しました。監獄内で彼らがどのような心理的変化を起こすのか、観測するのが実験の目的でした。
すると、時間の経過とともに、看守役はより看守らしく、囚人役はより囚人らしく振舞うようになりました。看守役は指示されたわけでもないのに囚人役に「罰則」を与えはじめ、独房に監禁したり、バケツに排泄させたりと、だんだん過激になっていきました。最後は禁止されていた暴力を振るうに至りました。
そしてあまりに危険な状況になったため、2週間の予定だった実験は、6日で終了となりました。
被験者たちはその後しばらく、カウンセリングを受けなければなりませんでした。

この被験者たちは、新聞広告の募集をみて集まった一般の学生などでした。特別凶悪な人たちではなかったわけです(少なくとも初めは)。また看守役と囚人役とは、その場でクジ引きで決められたようです。だから看守役になって囚人をイジメてやりたいみたいな意図は、(少なくとも初めは)なかったと思われます。
それが「看守」という役割を与えられたことで、わずか数日で暴力性を発揮するに至った、ということですね。

もう一つの衝撃は、実験の責任者であるジンバルドー自身が、「その状況に飲まれてしまった」ということです。暴力を振るわれた囚人役が実験の中止を求めても、ジンバルドーはその危険性を認識できなかったそうです。
結局、囚人役の心理状態を(実験の一環として)観察していた牧師が、これでは危険すぎると判断し、被験者の家族や弁護士に知らせて、強制的に中止させました。しかし驚いたことに、看守役の被験者たちは「話が違う」と抗議したそうです。

看守役となった人々はごく短期間で、「権力」に酔いしれてしまったようです。

・ある小学生に起こった変化:割り箸を返せ

この結果は注目に値すると思います。
人は「権威」を与えられると、それにふさわしい行動を取るようになり、その「権威」に付随する「力(罰則など)」をも行使するようになる、ということです。

小学校の頃の話ですが、全然目立たない、特別運動や勉強ができるわけでもない、体も大きくない、男子のAくんがいました。
小学生くらいだと、運動ができたり体が大きかったりすると、クラスの人気者になりやすいですね。その点でAくんは、ほとんど影響力のない「普通の男子」でした(普通って何だよ、みたいな質問はやめてください笑)。

そんなAくんが給食委員(みたいなもの)になりました。給食委員なんて大した力はないんですけれど、学期末になって、担任教師(ちょっと怖い人)からこんなふうに命じられました。
「学校の割り箸を借りた生徒たちに、今学期中にちゃんと返すように言いなさい。そして全員がちゃんと返したかどうか、あなたが管理して、私に報告しなさい」

それからAくんは、放課後の学級会のたびに講壇に出てきて、
「割り箸を借りた人は今週中に返して下さい」
「今週中に返さなかったら2倍にします」
「返さない人は名前を張り出します」
「返さない人は前に出てきて、皆の前で、返さない理由を言って下さい」
などと言いはじめました。
初めは真面目な子なんだなあくらいの感想でしたが、皆だんだん、違和感を覚えはじめました。
そしてしまいには、
「割り箸を返していない人には、新しく割り箸を貸しません。給食は食べないで下さい」
などと言い出したので、さすがに教師が「そこまでしなくていいから」と介入するに至りました。

ごく平凡な男子だったAくんは、「貸した割り箸の取り立て」という権限を与えられて、「ちょっと怖い人」になってしまったのでした。これ本当の話です。

・「権威」は人を変える(あるいは本性を晒す)

権威、権限、権力なるものは目には見えませんが、それを付与された人間の態度は目に見えて変わっていきます(皆が皆ではないかもしれませんが)。
おそらく多くの人が、学校で「上下関係」を体験したと思います。自分が「後輩」だった時と、「先輩」になった時とで、あなたの態度はどう変化したでしょうか。変わらなかったでしょうか。たぶん多少なりとも変わったと思いますが。

そこには、先輩という「権威」が働いています。

これはなにも、悪い意味だけではありません。「先輩らしく、後輩には優しく接しよう」とか、「丁寧に教えてあげよう」とか、「尊敬される先輩であろう」とか、そういう肯定的な「権威」だってあるはずです。会社の上司などでも然りです。
でも、その正反対もあるでしょう。たとえば「あの後輩はナマイキだからしごいてやろう」とか、「あの後輩はこれからパシリとして使ってやろう」とか、先輩としての「権威」をそういうふうに利用するケースもあると思います。

このように、人の上に立つ人には、大小の差はあれ「権威」が付与されています。そしてその「権威」をどう用いるかは、その人に掛かっています。良い形で用いる人もいるでしょうが、Aくんのようになる人もいるでしょう。
こればかりは、付与されてみないとわかりませんが。

しかし現実的に考えてみて、「権威」は悪い形で用いられやすいようです。ブラック企業とかブラックバイトとか、ブラック部活動とかブラック教会とかが、トレンドになっていますから。
「権威」は良く働けば良いものになりますが、悪く働くのも簡単です。そして私たちは、「良い形で働く権威」なるものをあんまり見かけないような気がしますが。どうでしょう?
いずれにせよ間違いないのは、「権威」は良くも悪くも人を変える、ということです。

そのような「権威」の危うさを、上に立つ人はもちろん、それに従う人たちも、知っておくべきだと私は思います。

・聖霊体験、新生体験と言うけれど

こと教会関係では、
「あの人は生まれ変わったクリスチャンだから」
「この人は聖霊体験しているから」
「あの人は神に召された牧師だから」
「この人は異言を語れるから」
というような言い方で、ある人々をことさらに神聖視する傾向があります。だから「クリスチャンなら間違いを犯すはずがない」「牧師ならいつも正しいはずだ」みたいに考えるようになってしまいます。

でもどんな体験をしようが、どれだけ信仰歴が長かろうが、人は人です。本質的な部分は変わりません。
その証拠に、何十年も品行方正に見えた牧師が実はDV夫だったとか、ずっと不正会計をしていたとか、そういう例は巷に溢れています。珍しいことではありません。
また特別悪いことをしていないクリスチャンの方でも、自分自身を見てみれば、大して変わっていない自分自身を見つけるのではないでしょうか。

ほとんど話題に上らない事柄ですが(また女性には不快な話でしょうが)、クリスチャン男性にとって「ポルノを避ける」というのはなかなか切実な問題のはずです。その失敗例の多さは言うまでもないでしょう。下記のような話もありますから。


たとえば長年「きよい生活(ここで言うとポルノを完全に避けた生活)」を続けられた人が、「自分はもうポルノの誘惑など感じなくなった」と言ったりしますけれど、何かのキッカケやタイミングで、「実は全然そうでない自分」を発見してしまうことがあると思います。
つまり、長年「きよい生活」を送ってきたことは事実で、「もう大丈夫」という(自分自身の)感覚も事実なのですが、実は本質的なところは何一つ変わっていない、というのもまた事実としてあるわけです。

聖霊体験とか新生体験とか呼ばれるものが、「自分は変わった」という感覚を与えてくれるのは否定しません。でもあくまで感覚だけ、というのが実際のところです(全部が全部とは言いませんが)。たぶん聖霊派クリスチャンで「私は新生しました!」と言っている人の中にも、実は本質的には何も変わっていない気がする、と薄々勘付いている人がいると思います。

・「権威」は監督されるべき

話が脱線しましたけれど、要は、クリスチャンだって牧師だって「権威」には弱い、ということです。「権威」を付与されると、スタンフォード監獄実験の「看守役」や、割り箸のAくんみたいな状況に、誰だってなり得ます。その力学には、聖霊とか新生とか関係ありません。むしろ聖霊とか新生とかは、「権威」を行使するために利用されていることがあります。

長老派教会だと「雇われ牧師」みたいな仕組みがあって、役員会の方が牧師より強い、ということがあるようです。そういう牧師はあくまで「雇われている(招聘されている)(使ってもらっている)」立場なので、強いことは言えないようです。その手の「牧師イジメ」の話も聞いたことがあります。彼らには「権威」を振るうなど不可能でしょう。

じゃあそういう牧師先生だったら「安全」かと言うと、そうではありません。そういう先生だってもし「自分の意のままにできる教会」を持てたなら、どうなるかわかりません。むしろ役員会にイジメられた過去があるならば、かえって恐ろしいことになる気もしますが。

長々と書いてしまいましたが、「権威」には上記のような危うさがある、ということをできるだけ多くの人々が知っておくべきだと、私は思うわけです。そして牧師も信徒も相互に監督し合えるような、あるいは牧師どうしで監督し合えるような、「権威」を良い形で働かせられるような仕組みを作っていくことが、これからの教会には必要ではないでしょうか。及ばすながら、そんなことを提案したい次第です。

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