聖書を使ったイジメの1つ:「できない」と言うな

2017年6月3日土曜日

t f B! P L
「聖書を使ったイジメ」シリーズが、意外と長く続いています。私自身驚いています。

 聖書の言葉は本来良いもののはずですが、使う人が使うと、どんな言葉でも(解釈次第で)イジメの道具にもなる、ということだと思います。またイジメだけに留まらず、それは教会のカルト化にも繋がっていきます。

 だから聖書の解釈は、教会やクリスチャンにとって文字通り生命線と言えましょう。大切なのは「聖書の言葉だからー」ではなく、それを「どう解釈しているか」の方にあります。解釈次第で意味が全然変わってしまうのですから。
「聖書のみだ」とか「聖書をそのまま信じる」とか言っている人たちは、そのへんを見逃してしまっていると思いますね。自分たちが信じて疑わない「聖書に基づいた言説」も、元は「ある1つの解釈」から始まっているのですから。

 さて、今回は、新訳聖書の「ピリピ人への手紙4章13節」がどのようにイジメに使われるか、紹介します。興味のある方は、初めに4章全体をサラッと読んでおくと良いかもしれません。

・「『できない』と言うな!」

 今回はこのセリフになります。
 ですがその前に、このセリフについて書くキッカケとなった映画の話からします。その映画というのはこれ。


 現在上映中(2017年6月)の邦画『ちょっと今から仕事やめてくる』です。主演は若手イケメン俳優の福士蒼汰と工藤阿須賀。私はあんまり邦画は観ない方ですが、本作は以前から気になっていて、さっそく観に行きました。原作未読なのですけれど。

・軽くあらすじ紹介

 就活に苦戦した挙句、ブラックな広告会社に就職してしまった隆(工藤阿須賀)は、ひたすら上司のパワハラに堪える日々を送っています。しかしとうとうウツ状態になってしまい、駅のホームで、衝動的に自殺を試みてしまいます。それを寸前のところで止めたのが、ヤマモト(福士蒼汰)と名乗る男でした。ヤマモトは隆の小学生時代の同級生だと言いますが、隆の方にはイマイチ記憶がありません。それでもいろいろ親身になってくれるヤマモトに、隆は徐々に心を開いていくのでした。
 しかしヤマモトは、隆の同級生でなかったばかりか、3年前に自殺しているらしいのです。果たしてこのヤマモトは、隆を救いにきた幽霊の類なのか、あるいは神の使いなのか、それとも他の何かなのか?

 というのが簡単なあらすじです。
 感想ですが、隆の会社のブラックさがもう本当にブラックで、観ていて辛かったです。気軽に観られるファンタジーだと思っていたので余計に。

 何が辛かったかと言うと、そのブラックさがあまりにリアルだったことです。吉田鋼太郎扮するブラック上司の言動や行動がいかにもって感じで、すっかり同氏のことが嫌いになってしまいました(笑)。あ、もちろん演技だってことはわかっていますが。
 でもこのパワハラの数々、笑い事じゃなく、本当にあるなあと思います。自殺してしまった電通の社員の方のことを、否応なく思い出していました。

・洗脳の場

 よく考えてみると、ブラック企業というのはほとんど洗脳の場みたいなものです。社員を理不尽に酷使し、疲弊させ、思考停止状態にし、「これくらい出来なくてどうする」と精神的に追い込んでいくのです。あるいは「これでお前は成長できるんだ」と儚い夢を見させるのです。その先に明るい未来なんてないのですが。

 なんでそんな職場で働き続けるんだ? と周囲は不思議に思うのですが、当の本人は既に判断力を失っていることが多いです。もはや考えられなくなっていて、日々苦しみに堪えるだけの、いわばロボットみたいになっているのです。だから周囲の人たちが何とかして気づかせてあげないと、もうどうにもなりません。

 そしてそのへんの構造は、いわゆる「ブラック教会」と同じです。信徒たちに「これが神の御心だ」とか「成長のためだ」とか「御国拡大のためだ」とか言って焚き付け、過重な奉仕とか無茶な献金とかを強いるのです。忙しくさせ、疲弊させ、徐々に判断力を奪っていくのです。信徒の方は、真剣であれば真剣であるほど、黙ってそれに従わざるを得ません。そうこうしているうちに洗脳が進行し、自分で何も判断できなくなってしまいます(自分では判断しているつもりなんですけれど)。

・「できない」と言わせない理屈

 上記の映画に登場するブラック企業には「社訓」があって、これがまたトンデモな内容です。「上司の声は神の声」とか、「心なんか捨てろ」とか、「有給なんか要らない」とかです。入社前にこれを見せられたら誰も入職しないと思うので、たぶん入社後に見せるのでしょう。ほとんど詐欺ですが。

 ところでそんなブラックな会社の壁に、こんな張り紙があるのに私は気づきました。

「できない」なんて言うな。本当にできないのか、よく考えろ。

 映ったのが一瞬だったので細かい文言は定かでありませんが、こんな感じだったと思います。
 見た瞬間、某ブラック教会のことを思い出しました。そこの牧師が似たようなことを言っていたからです。
 信徒が何らかの奉仕について「できません」とか「無理だと思います」とか言うと、よくこう言っていました。

 やってもないのに「できない」と言うな。それは不信仰だ。

 そして、ピリピ4章13節を引用するのです。「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と。

「どんなことでもできる」と書いてあるのを突きつけられたら、そりゃ簡単に「できません」とは言えなくなります。牧師と信徒の関係であれば、尚更。そして「これも神様のため」とか「皆のため」とか思って、結局信徒は頑張るしかありません。つまり「できない」と思っても、「できません」とは言えないのです。

・ある事例

 実際に見たケースですが、あるときその教会でイベントがあって、事前にポスターが作られました。印刷業者にポスター印刷を発注したのは信徒のAさんでした。納品に1週間かかると言われ、翌日Aさんはそれを牧師に伝えました。すると牧師は、

「1週間? もっと早く貼り出さないとポスターの意味がないだろう。もしかしたらこの2、3日のうちに教会の前を通り過ぎる人が、ポスターを見てイベントに来て救われるかもしれないじゃないか。そしたら1週間後のポスターを貼ったってその人は救われないんだよ だから業者にもっと早く納品するよう頼んでこい。頼んでみなきゃわからんだろう」

 みたいなことを言いました。
 実は納期1週間というのは、既にAさんが頼み込んで、早くしてもらった結果でした。だからもっと早くしてくれとはなかなか言えません。くわえてその日は祝日でした。閉店している業者にどうやって頼んだらいいのでしょう。

 でもAさんは普段から「できないと言うな」と言われていましたし、他の人がそう言われるのも聞いていましたから、やはり「無理です」とは言えませんでした。で、Aさんは泣く泣く業者のところに行くのでした。その結果はあえて書きませんけれど。

・聖書は本来何と言っているのか

 何でもかんでも「できない」と言うのはたしかに問題ですけれど、逆に何でもかんでも「できる」と言うのもまた問題です。何でもかんでも「できる」わけないからです。私たちは全能ではないのですから。

 またピリピ4章を読んでみればわかりますが、パウロの言う「どんなことでもできるのです」は、その前の「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました 」(11節)に関連付けられています。
 つまり「お金がある状態にもない状態にも対処することができます」と言っているのです。能力的に「不可能なことはない」と言っているのではありません。

だからこの文脈を引用して「できないなんて言うな」と言うことはできません。

そういうことを言う牧師は、聖書をちゃんと読んでいないのか、あるいはわかっているけれど信徒を都合よく利用したいのか、だと思います。いずれにせよイジメであり、パワハラです。キリスト教信仰とは違います。
牧師から言われるイロイロな理不尽を「訓練」だと思って頑張っている方々には、ぜひそういうことに気づいていただきたいと思います。
またシリーズで書いてきていることの1つ1つが、何かの「気づき」を提供できればと願ってやみません。

・最後に

『ちょっと今から仕事やめてくる』はブラック企業の実情を深くえぐりながら、働くことの意味を考えさせ、かつ「そんなブラックな職場で頑張らなくていいんだ」という明快なメッセージを伝える良作です。派手なアクションはありませんが、ぜひ劇場のスクリーンで、働くことの意味を考えながら観ていただけたらと思います。

・関連記事

QooQ