「結果」をみることの大切さ

2017年5月5日金曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L
・ある日の電車内での出来事

つい先日、電車に乗っていました。
 と言っても私は日常的に電車を利用しますので、まあその日もいつも通り電車に乗っていたわけです。
 東京駅終点のその電車は、平日の昼間ということもあって、空いていました。みな座っていて、私も心地良く寝ていました。「まもなく東京駅」というアナウンスで目覚めました。ほどなくして、電車は東京駅のホームに入ります。
 これが村上春樹の小説だったら「やれやれ、また東京駅か」みたいなセリフが出そうだな、それにしてもキザっぽいな、でもそもそもネタが古いか、みたいなことをボンヤリ考えていました(すみません、どうでもいいことです)。
 ふと見ると、向かいの座席に女性が座っていました。頭を前に大きく垂れていて、いかにも爆睡中という感じです。起きそうにありません。ちなみに年齢は30代くらい(?)でした。
 電車が止まり、ドアが開いて、乗客が降りていきます。でもその女性は起きる気配がありません。電車は折り返し運転をするので、このままだと、とんでもない所まで行ってしまうかもしれません。
 私はちょっと迷ってから、女性の右肩を軽くトントン叩いて、そのまま電車を降りました。視界の隅で、彼女が頭を上げるのが確認できました。無事目覚めてくれたようです。

 というのは先日あった実話なのですが、べつにこんな善行をしたと自慢したいわけではありません。

 そもそもの話ですが、それは果たして「善行」だったのでしょうか。
 もちろんその瞬間の私は善意のつもりでした。昨今は痴漢とか犯罪行為とかよく聞くので、変な誤解をされても嫌だなあと思って、迷いましたけれど。

 しかしよくよく考えてみると、本当に純粋な人助けだったのだろうかと、ちょっと疑問です。たとえばそれが女性でなく、タバコ臭くて不潔そうなオジさんだったら、同じようにはしなかったかもしれません。あるいは「善いことをしている自分」を周囲にアピールしたかっただけかもしれません。その人が困るからでなく、単に「親切で紳士的な自分」を演じたかっただけかもしれません。

 そんな風に考えると、一口に「善行」と言っても、いろいろ複雑なわけです。「行為」そのものでなく「動機」の部分をみてみるならば、もしかしたら、全然「善行」でないのかもしれません。

 と、まあそんなことを考えさせられた出来事でした。

・「行為」と「動機」と「結果」

 当然ながら、ある「行為」には何らかの「動機」があります。あるいは「理由」があります。上記の例で言えば、「女性の肩を叩く」という行為に対して、「起こしてあげたい」「困らないようにしてあげたい」という動機があったことになります。
 でも深読みするならば、「相手が女性だったからだ」とか、「善人であることをアピールしたかったからだ」とかいう、不純な動機があったかもしれません。

 そのように、「善い行い」に、必ずしも「善い動機」があるとは限りません。「情けは人の為ならず」というのもその類いかと思いますが。

 これはクリスチャンの方々には、よくよく考えていただきたいポイントですね。もちろん私自身もです。

 しかしながら、単純なケースなら別ですが、人の心の中の「動機」は、なかなか見極めることができません。自分自身の心でさえ判然としないのですから、他者の「動機」となると尚更です。
 では「動機」を見極める、ヒントみたいなものならあると思います。それは「結果をみる」ことです。

 ある「動機」が、ある「行為」を起こさせます。そしてその「行為」は、ある「結果」へと至ります。この「結果」をみると、もともとの「動機」がわかる、ということがあります。「おまえ、本当はそれが狙いだったんだろう」みたいな。

動機→行為→結果→動機の達成

 だから「結果」をみることで、そもそもの「動機」を探ることができるかもしれません。もちろんイロイロなケースがあって一概には言えないでしょうけれど。

 前述の電車での一件で言えば、たとえばこんな「結果」に至ったかもしれません。
(以下妄想)
 その女性が目覚めて、私のところにお礼に来ます。「起こしていただいて、ありがとうございました」
私「いえいえ、当然のことをしたまでです」
女性「親切なんですね。何かお礼をさせて下さい」
私「いえお礼だなんてそんな」
女性「良かったそこで少しお茶でも」
私「いえいえ・・・そ、そうですか? じゃあ少し」
(妄想終わり)
 なんて展開になって、私がシメシメと思っているとしたら、私ははじめから「そうなることを期待していた」ということになります。私の「善行」は、不純なものだったわけです。

 ちなみに、実際には、私は肩をトントンしてすぐ立ち去りましたから、何の「結果」も見ていません。念のため(笑)。

・「結果」をみることの大切さ

 ちょっと話を変えますが、私がこのブログを始めて、丸4年が経ちました。主にキリスト教会のカルト化と、その周辺のあれこれについて書いてきました。時には全然関係ないことも書きましたけれど。

 ですが残念なことに、このブログをみて、私のことを「アンチ・キリスト教」とか「キリスト教を批判するだけの不届きな輩」とかと考える人がいるようです。まあどう考えるかはその人の自由ですし、おそらく私の文章力の不足も影響しているとは思いますけれど(そこは反省しなければなりませんね)。いずれにしても、賛否両論あるわけです。

 しかし「アンチ」と言われるのはさすがに心外なので、ちょっと自己弁護させてもらいますが、私はある一貫した基準に従って全ての記事を書いています。トピックが何であれ、たとえば「リバイバル」であれ、「霊の戦い」であれ、「ダビデの幕屋の礼拝」であれ、「什一返金」であれ、「終末」であれ「携挙」であれ、全てを頭ごなしに「ダメだ」「間違っている」と言っているのではありません。そうでなく一定の基準に従って、「これは良くない」「これだと問題が起こる」というようなことを問題提起しているわけです。

 その基準とは、これです。
それは、結果的に、人をどのような状態にするのか?

 たとえば先日までシリーズで書いていた「携挙」を例に挙げてみましょう。
 何も「携挙」という考え方そのものが、絶対的に悪いのではありません。もしかしたらある日突然、ある人々が急に天に上げられて、「世界中で人体消失」みたいなニュースが報道されるかもしれません。
 けれど私の「携挙」に対する考え方は、簡単に言えばこうです。「そんなこと考えてないで、毎日の生活の中で、地道にキリストの教えを実践しようと試みるだけです」

・たとえば、「携挙」に固執すると、人はどうなるか

 では「携挙」を強調することで、人がどのような状態になるのか、考えてみましょう。

「携挙」に注目している人々の関心ごとは、主に次の2つになります。
①どうしたら携挙されるのか。
②自分は携挙されるのか。
 そして聖書から様々な根拠を引っ張ってきて理論武装したり、「携挙信奉者」の話を聞いたり情報を集めたり、そういう集会に参加したり、礼拝や祈りや聖書学習に精を出したりして、「携挙されるにふさわしい自分」を維持しようとします。

 でもその心にはほとんど絶えず、不安や心配があります。
「あーこんなことしたら自分は携挙されないかもしれない」
「こんな状態では自分は携挙にあずかれないかもしれない」
「携挙はいつ起こるのだろう。それまでにもっと霊的にならないといけない」
「携挙される為にあれもこれも悔い改めなければならない」
「携挙される為に献金を毎月◯◯だけ捧げよう
「もっと真剣に祈って、もっとちゃんと礼拝しなければ、携挙されないかもしれない」

 生活の中心に、あるいは思考の中心に、いつも「携挙」があるのです。「携挙されなければならない」「携挙されなかったらどうしよう」みたいな考えに心が支配されていて、もはや神経症の域です。あるいはそこまで病的でなくても、似たような状況がみられます。いつの間にか思考も行動も、「携挙」が基準となっているのです。

 それは人によっては「信仰熱心だ」とか「霊に燃えている」とか評価するかもしれません。しかし年がら年中「携挙」「携挙」言っている姿は、百歩譲って好意的にみても、「携挙に縛られている」としか思えません。それはキリスト教信仰というより、携挙信仰ではないでしょうか。

・だからこそ「結果」をみる

 そのように人を縛り、かえって自由をなくしてしまうとしたら、そのとき「携挙」は危険な概念となってしまうのです。概念そのものでなく、それにこだわる人間が、問題を起こすわけです。

 そしてそれは「携挙」だけの話ではありません。たとえば「リバイバル」という概念も、それ自体は必ずしも悪いことではありませんが、それに固執することで、「リバイバルに縛られる」ことになってしまいます。あるいは同じように、「霊の戦いに縛られる」「ダビデの幕屋の礼拝に縛られる」「癒しの奇跡に縛られる」「預言の賜物に縛られる」みたいな状況になりえます。あることに強くこだわり、執着し、集中してしまうと、それ自体悪くないにもかかわらず、いろいろ不都合な状態に陥ってしまうわけです。

 だから「結果」が大切になります。誰かが言ったこと、始めたこと、解釈したこと、考えたこと等が良いか悪いか、すぐにはわからないかもしれません。でもその場合、ある程度期間がかかるかもしれませんが、「結果」をみれば判断できることがあります。
 そしてその「結果」をみれば、そもそもの「動機」が、見えてくるかもしれません。

 というわけで、教会でのあれこれや、牧師が言ったことや、誰かがやったことや、SNSで見かけたこと等が、本当はどうなのか、いまいち判断できない時は、そのようにして「結果」をみることをお勧めします。
 すると、教会やクリスチャンといったものが、必ずしもいつも良いとは限らないことがわかるんじゃないかなと思います。決して否定的な意味ではありませんが。

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