クリスチャンの「終末」の扱い方・その4

2017年4月29日土曜日

キリスト教的終末論

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 クリスチャンの「終末」の扱い方、4回目です。
 今回は「終末」にまつわるアレコレを、徒然と書いていきます。

・「◯◯待望」の落とし穴

 時々「携挙待望」とか「再臨待望」とか言って憚らないクリスチャンがいます。けれど聖書をどうひっくり返しても、「終末を待ち望め」とは書いていないと思うのですが。

 もちろん、「携挙」を信じる人たちは、「早く引き上げられて主にお会いしたい」という願望があるのだと思います。だから「携挙待望」となるのでしょう。それはわかります。心情的には。
 また「主よきたりませ」という言葉があるので、「再臨待望」となるのもあながち間違いではないかもしれません(再臨が何なのかという点は意見が分かれるとは思いますが)。
 あるいは「携挙」やら「再臨」やらを脇に置いたとしても、「早く神様にお会いしたい」というような願いを持つ人はいると思います。その意味で「◯◯待望」となるのはよくわかります。私も大事な用事がある時に大寝坊なんかしてしまったら、「あーこのまま世界が終わってくれればいいのに」と願うと思いますから(冗談です)。

 でも「携挙待望」や「再臨待望」を前面に押し出してしまうと、それだけ現実離れというか、浮世離れが進んでしまうと私は思います。わかりやすく言うと、この社会や一般の人々との接点をなくしてしまう、ということです。日常的に「携挙ガー」とか「再臨ガー」とか言っていたら、未信者の人たちは気味悪がって近づいてこないからです。

 ここで、「この世と調子を合わせてはいけない」という聖句を引っ張ってきて自己正当化する終末論者がいそうです。でも「調子を合わせる」ことと、「接点を持つ」ことは、だいぶ違います。たとえばキリストは、当時低俗とみなされていた取税人や娼婦の友となられたました。自ら率先して未信者(その中でも特に近づきにくい人々)に接触していったのです。そのとき彼は「携挙」や「再臨」を振り回したでしょうか。むしろ、蔑まれた人々と同じ目線に立たれたのだと思いますが。

 実際、終末論者の話の中で、「ノンクリ(未信者)と話が合わない」というのはけっこう出てきます。それはつまり、頭の中が「携挙」や「再臨」や「終末」やらで一杯になってしまって、未信者の目線がわからなくなってしまった、ということです。彼らは自分がそれだけ「信仰に進んだ」と思っているのでしょうが、本当は「現実世界から乖離してしまった」だけです。

 未信者と関係を持てないクリスチャン、っていったい何の役に立つんでしょう。私個人は大いに疑問です。「◯◯待望」の落とし穴にはまってしまったような気がします。

・「毒麦認定」の落とし穴

 これは終末論者に限った話ではありませんが。
 一部の原理主義的な人たちは、聖書解釈における自説に、かなり固執しているきらいがあります。終末とか携挙とかリバイバルとかユダヤ傾倒とか、霊的◯◯とかダビデの幕屋とか、そのへんを強調する人たちは、なかなか頑固ですね。人の話が聞けないんだなあとつくづく思います。

 ちょっと前にも、自分とは立場や考え方が違う人たちと論争になって、最終的に相手を「毒麦認定」してしまった人がいました。

 どういうことかと言うと、聖書にある「良い麦と悪い麦」の話の引用です。
 こんな話です。畑に植えた「良い麦」の中に、敵がひそかに植えた「悪い麦」が混じっていた。それで「悪い麦」を抜こうとしたけれど、「間違えて良い麦も一緒に抜いてはいけないから」と、しばらくそのままにしておくことにした。成長して、はっきり「悪い麦」だとわかったら、その時点で抜こう、と(聖書箇所はご自分でお探し下さい)。

 この例え話を引用して、自分を「良い麦」、相手を「悪い麦」と認定したわけです。「あいつらは悪い麦だからもう放っておこう」みたいに考えたわけですね。

 でも引用の仕方がおかしい気がします
 上記の例え話のポイントは、これです。「その麦が良いか悪いかは、育ってみないとハッキリわからない」
 つまり、はじめのうちは良し悪しがよくわからない、ということです。だから「間違えて良いものを抜いてしまう」可能性があるのですね。
 それなのに、はじめから自分を「良い麦」、相手を「悪い麦」と決めてかかったら、趣旨が変わってきます。そこまでハッキリわかっているなら、「間違えて抜く」恐れがないからです。「ハッキリわかるまで待とう」でなく、「すでにわかっている」と言っているのですから。

 これは麦が云々でなく、単に自己正当化したいだけじゃないでしょうか。相手の立場を認められないから、手っ取り早く「悪者認定」したかったんだと思います。それがクリスチャンの態度としてどうかは、問うまでもありません。

・聖書解釈以前の問題

 上記の「勝手に毒麦認定」の話に通じますが、クリスチャンにまず必要なのは人格や礼節だと、つくづく思います。私も人のことは全然言えないのですが。

 同じクリスチャンでも、立場や意見が大きく違う、なんてのはザラです。到底わかり合えないくらい乖離していることもあります。
 その違いに直面した時に、どんな態度をとるか、というのはけっこう試されるところですね。そこに人格や礼節がダイレクトに関わってくると思います。

 そこで上記のような「毒麦認定」をしてしまったり、話と関係ない人格攻撃をしてしまったり、相手を蔑んでしまったり、というのが残念ながら少なくありません(繰り返しますが、私も人のことは言えません)。

 そのへんに、クリスチャンとしての品位が現れると思いますね。
 そして品位というのは、聖書解釈や教義理解と同じくらいか、あるいはそれ以上に重要な要素なのかもしれません。なぜならどれだけ斬新で明快で革新的な聖書解釈を披露できたとしても、態度が悪かったら誰も聞きたくないと思うからです。
 たとえば普段から「は? なにコイツ? バカじゃないの」みたいな口調の人が「ヘブル語の原典ではー」とか言っても説得力ゼロでしょう。どれだけ素晴らしいヘブル語的講釈ができたとしても、誰も聞きたいと思いません(稀にいるかもしれませんが)。

 私もそういうのを見て、あー人格的にならないとな、礼節を持っておかないとな、と反面教師的に思わされます。
 もっとも、礼節がしっかりしていて、かつ人格的に見える人物が、必ずしも「良い」とは限らないのですが。
 そこが難しいところです。

 と、「終末」に関連して徒然とそんなことを考えてみたわけです。皆さんはそのへんどう考えられるでしょうか。機会があれば意見交換などしてみたいものです。以上終わりです。

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