「この世の仕事」って何

2017年2月20日月曜日

雑記

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◼️「この世の仕事」って何

「この世の仕事は◯◯だ」
 という話をたまに聞く。クリスチャン界隈で。たとえばこんな感じ。

「この世の仕事は消耗するだけだ」
「この世の仕事は霊的に良くない」
「この世の仕事を辞めて、はやく神の国の仕事がしたい」

 そして同系列の方々から、「そうですよね」「アーメン」「はやくそう導かれますように」みたいなコメントがくる。

 なんか、モゾモゾする。

 その手の界隈では、「仕事」には2種類あって、「この世の仕事」と、「神の国の仕事」とに分けられているようだ。そして前者は「ダメな仕事」で、後者は「良い仕事」らしい。
 具体的にはどういうことなのだろうか。

◼️「神の国の仕事」って何

「神の国の仕事」とは、大雑把に言えば、教会関係の仕事を指すらしい。たとえば牧師とか、教会役員とか、伝道師(何それ)とか、教会スタッフ(便利な言葉だなあ)とか、宣教団体のスタッフとか。
 しかし日曜だけの礼拝奉仕や会堂掃除などのいわゆる「奉仕」は、除外されるらしい。同じ教会関係の仕事なんだけどね。

 ともあれ、そういう教会関係の仕事は、「信仰的」であり、「霊的」であり、「自由」であるらしい。そして「楽しい」か「つまらない」かで分けるなら、「楽しい」になるんだと思う。
 まあ教会内の人間関係にもよるけれど、大概の「この世の仕事」の人間関係に比べれば、教会内の人間関係は、ストレスが少ないだろう。「神の愛」とか「許し」とか、そういうのが前提となっているのだから。そもそも会社とはぜんぜん違う。

 私も(パートタイムでなく)教会で働いたことがあるから、実情はよくわかる。一般的な会社に比べれば、教会は気を遣う相手も少ないし、面倒なアレコレも少ない。体調が悪くて休んでも有給は消費されない(そもそも有給なんてないか)。毎日いろいろ違うことをしたり、違う場所に行ったり、1日中誰かとしゃべったり、ひたすら物を探したり調べたりする(時もある)。そういうのは見方によっては「自由気まま」な業態だと言える。もちろん忙しい時とか大変な時とかもあるけれど、だいたいが「楽しい」と思えることで構成されている。だから精神的に消耗することが少ない。そのへんが、「この世の仕事」と大きく違うと思う。基本的に。

 そういう「楽しい」働き方からすると、「この世の仕事」は、明らかに消耗する諸々で構成されているように思える。満員電車とかタイムカードとか上司とか、気の合わない先輩とか同僚とか後輩とか、イヤな仕事とか苦手なクライアントとか、もう消耗のカタマリじゃないかと思えてくる。その中にずっといたら、「あー教会で働きたい」と思うクリスチャンの1人や2人は当然現れるであろう。

 そのへんの心理から、「神様のために献身したいです」「教会を開きたいです」みたいな話が出てくることもあると聞く。「自分は神に召されている。だからこれ以上この世で働くわけにはいかない」というわけだ。でも単に「この世の仕事」から逃げたいだけだろ、って気もするけれど(あ、言っちゃった)。

◼️何のための区別なの

 もちろん、単に「逃げたいから」という理由で「神の国の仕事」を選ぶ人ばかりではないと思う。純粋に「神様のために働きたい」と願っている人もいるだろう。

 でもその動機が何であれ、「この世の仕事」とか「神の国の仕事」とか区別している時点で、何だかなあと私は思う。

 なぜ働くことが、「神の側」と「そうでない側」とに分けられてしまうんだろう?
「神様のために働きたい」と願うなら、べつに牧師でなくてもいいし、フルタイムで教会の「何でも屋」をしなくてもいいんじゃないの。「この世の仕事」で神様のためにできることだって、沢山あるんじゃないの。

 たとえば、すごく極端な話だけれど、刑務所で刑期を過ごしている人たちに直接的に接触できるのは、教誨師を除けば、ほとんど刑務官だけであろう。だからクリスチャンが刑務官になれば、すごく貴重な機会を毎日持つことになると思う。会おうと思ってもなかなか会えない人たちに、毎日「仕事」として顔を合わせられるのだから。

 そうやって特定の人々に仕えるのは、神様の愛を実践することにならないの? それは「神の側」の仕事じゃないの?

 似たような例は他にも沢山ある。ほとんど仕事の数だけある。たとえば保育士は乳幼児に、介護士は高齢者に、ビジネスマンはビジネスマンに、政治家は政治家に、それぞれリーチできる。クリスチャンたちがいろいろな分野に出て行ったら、それはそれで「神の国の仕事」になるんじゃないの。てかそれこそが「神の国の仕事」なんじゃないの。なんで教会に関連したことでしか、「神の国の仕事」じゃないってなるの?

 と、私は疑問に思うわけだ。だから「この世の仕事は〜」とご高説を説く人をみると、「単に普通に働くのがイヤなだけダロウ」と、邪推したくなってしまう。

◼️そもそも仕事って何

 ところが上記のクリスチャン界隈では、もっと酷くなると、こんな話さえ出てくる。

「この世の仕事は、人の欲望に仕えることだ。だから消耗するんだ

 え、この世の仕事って、人の欲望に仕えること?

 いやいや、仕事って基本、誰かに仕えることでしょ。
 どんな種類の仕事であれ、その向こうには、直接的にか間接的にか、誰か相手がいるはずでしょ。
 たとえば、報酬をもらってどこかの掃除をしたとしたら、それは雇い主の依頼(欲望)に応えることであり、またその場所を使う不特定多数の人々に仕えることだよね。掃除に限らず、仕事ってそういうものだよね。どんなに孤独に、どんなに人と関わらないで働いたとしても、その先の先のどこかに、誰かとの接点があるはずでしょ。それは「この世の仕事」も「神の国の仕事」も同じなんじゃないの。

 それに「神様のために働く」ったって、結局は人間が相手だよね。目に見える誰かに仕えることだよね。なんでそこに区別が生まれるんだろう。

 てか、「人の欲望」ってザックリしすぎた表現だよね。じゃあアレですか、人々の「食欲」に仕える飲食店は、「神の側」に反する「仕事」なんですか。じゃあ五千人にパンを分け与えたキリストご自身も、「神の側」ではないんですか。

 神の側でないキリスト...?

◼️仕事の種類の優劣?

 ジョージアのCMじゃないけど、この世界は多くの人々の「仕事」で成り立っている。ある分野の仕事が遂行されないと、他の分野もうまく回らなくなり、結果的に機能しなくなることがある。消耗するから、とか言ってられない分野もある。

 たとえばだけど、「神の国の仕事」をしているご立派なクリスチャン、Aさん宅が火事になったとする。Aさんはどうするだろう。消防に連絡するだろう(まさか鎮火されるように祈るなんて言わないよね?)。すると消防が駆けつけてくれて、懸命に消火活動をしてくれるはずだ。彼ら消防士は「ボクたち消耗するから消火しません」なんて言わないだろう。そしてもしかしたら、その消火活動は命懸けになるかもしれない。

 それで火が無事に消し止められ、Aさん宅は小さな被害で済んだとする。そのときAさんは何と言うだろう。それでも「この世の仕事は〜」とか言うだろうか。そしたら私がもう一度火を付けてあげるけどね。

 仕事を「この世の側」と「神の側」とに区別するのは、個人の自由かもしれない。けれど、自分たちは「神の側」で優れてるんだとか、「この世の側」は消耗するだけだとか、そういうことは言うべきでない。もし自分が教会関係の仕事だけで生活できており、「ぜんぜん消耗しない」とか「毎日楽しい」とか言っていられるとしたら、それは見えない所で(消耗しながら)働いて、この社会を支えている多くの人たちの故である、ということを忘れてはならない。

 クリスチャンが未信者にくらべて優れているとか、立場が上だとか、そんなことは全然ない。教会関係の仕事が他の仕事にくらべて優れているなんてこともない。

「でも海外に宣教に行く働きは、何にもまして重要な仕事だ。人々の救いがかかっているのだから」と誰かが言うかもしれない。しかしその「人々の救い」が何より重要だと仮定しても、だからと言って「宣教チーム」が最も重要とはならない。なぜなら宣教チームが海外に行くには飛行機が必要だし、飛行機には航空会社やパイロットや空港や燃料やその他もろもろが必要だし、パイロットには食べ物やら洋服やら何やらが必要だし...というわけで、イロイロなものがイロイロな形で繋がっている、そのシステムの上に「宣教」も成り立っているのだから。

 というわけで「この世の仕事は〜」とか「神の国の仕事は〜」とか真剣に演説していらっしゃる人には、まずそういう社会の仕組みから学び直すことを私はオススメしたい。聖書の勉強よりも前に。

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