聖書の読み方に関する、身も蓋もない話

2017年1月25日水曜日

聖書の読み方

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 聖書の読み方というテーマでしばらく書いている。「無誤無謬説」も交えてみた。

・参照記事

「聖書の読み方のススメ」
「聖書の『無誤無謬』について」
「聖書の『無誤無謬』について・その2」

 クリスチャン界隈で議論になりやすいトピック(「○○説」など)があるけれど、それらに対して私が抱くのは、ほとんど場合「それ話し合って何になるの?」「何の役に立つの?」みたいな身も蓋もない感想である。けれど、悪気はない。私は、キリスト教はつねに「理論」より「実践」だと考えていて、方法論とか理想論とか捏ね回してアーデモナイコーデモナイとやるより、行動してトライ・アンド・エラーを繰り返した方が有効だと考えているからに過ぎない。

 しかしだからと言って、いつでも行動すべき、という話ではない。当然ながら立ち止まって考えてみる時間も必要だし、休息も必要だ。そのへんのバランスは大切だと思う。だが「行動」と「思考」と「休息」とは互いに反しているものではなく、どれも一個人の生活の中に、適切に配置されるべきものだと私は考えている。
 
 また一つ誤解のないように書いておくと、私は聖書研究や、教派をまたがった議論などの「学術的な」活動を否定する気はまったくない。むしろ大いに研究が進み、じっくり話し合われ、今まで教会内で定説とされてきたものや、習慣的・伝統的に思い込まれてきたもの等のまちがいが指摘され、キリストの言わんとすることが混じり気なく教会に浸透するようになればいいなと願っている。

 だから私が問題にしているのは学術活動ではない。問題にしているのは、聖書を取り上げて「ほらここにこう書いてあるだろう」としたり顔で他人を引っぱたくような行為(英語でText beatingという)についてである。彼らは多くの場合、聖書の時代背景や歴史や、先人たちが残した聖書研究の記録などほとんど学んだことがなく、聖書の字面だけ追って、「ほらここにこう書いてあるだろう」と不毛な主張(あるいは浅はかな研究モドキ)を繰り返している。

■聖書は「字義通り」に行うべき?

 無誤無謬説と関連して、「聖書はすべて正しいのだから、字義通りに全て行うべきだ」という主張がある。
 けれどこの「字義通り」という話で私がいつも疑問に思うのが、「じゃあ書いていない事柄についてはどうするんですか」ということ。
 たとえば、殺人はいけない。聖書に書いてあるから。窃盗もいけない。聖書に書いてあるから。じゃあ大麻や覚せい剤は、書いてないからいいんですか? ということ。

 字義通りに行うとは、つまり「言われたからやる(やらない)」という態度だと思う。それは「従順」なのかもしれない。けれど、言われていないこと、明確でないことには対応できない。いつも「これはどうしたらいいですか」「この場合はどうしたらいいですか」といちいち聞かなければならなくなる。

 この前SNSで読んで興味深かったのが、「『沈黙』(映画)を観に行ってもいいですか? 信仰を失いませんか?」みたいなことを牧師に尋ねる信徒がいるとかいないとかいう話。子供ならまだしも、大の大人が映画一つ自分で判断できないのは大問題じゃないかと私は思った。

 また自分で判断できるとしても、聖書を字義通り行うというクリスチャンは、結局「書いてない事柄」については自己判断でイロイロやっているだろう。それが本当に「従順」かどうか、甚だ怪しい気がする。

 大切なのは、「言われたからやる(やらない)」という保育園・幼稚園レベルから卒園して、「聖書が言っているのはこういうことだから、この場合はこうするべきだ」と自律的に判断できるようになることだと思う。聖書が示しているのはあくまで基本姿勢なのだから、私たちは個々の生活の中で、それを応用していかなければならない。もちろん判断に迷うこともある。でもそういう葛藤もクリスチャンには必要ではないだろうか。

■聖書に関する疑問に超簡単に答えてみると

 さて趣向を変えて、ここからは聖書を読んでいて生じるであろう幾つかの代表的な疑問について、私なりに答えてみたいと思う。やはり身も蓋もない答えになるので、ガッカリされるかもしれないけれど。

・創世は本当に7日間だったのか?

 創世記1~2章に創世の経緯が書かれている。それによると、7日間で完全なる地球環境(宇宙環境含む)が創られ、あらゆる動植物が創られ、はじめの人間も創られた、とされている。ちなみに言うと7日目は休みだったので、実際には6日間だった。

 この記述は昔から議論されていると思う。どんな議論かと言うと、創世が文字通り7日間で終了したのか、あるいは7日間というのは比喩表現であり、実際には1日が何百年とか何千年とかいう単位だった、みたいな議論。だいたいが「創造論vs進化論」の文脈で語られるテーマである。

 それに対して私がどう考えるかと言うと、「現時点では判断できない」に尽きる(本当に身も蓋もないなあ)。創世のプロセスが実際に7日間だったのか、あるいは700年間だったのか、現代科学ではまだ解明されていない。これについては聖書をひっくり返しても何も出てこない。だから判断する根拠がないと思う。間違っているだろうか。

 ただ科学的に言ってみるならば、創世の「順番」は理にかなっていると思う。何もない空間にまず光と闇が創られ、次いで水と大気、海と陸、植物、太陽と月が創られた。そうして動物が生存可能な環境がお膳立てされてから、水生生物、陸上生物、最後に人間が創られた。破綻のない製造過程だと思う。

 この製造過程が本当に7日間だったかどうかは、前述の通り、判断する根拠がないと思う。ただ神の全能を考えるならば「可能だった」はずであろう。100年とか200年とか、期間が長ければいいという話でもないと思う。

 でもぶっちゃけた話、それが7日だろうが700日だろうが、私たちにさほど大きな影響はないと思う。もちろんその答えがわかるなら、単純に好奇心的に嬉しい。神による創世が科学的に証明され、それがわずか7日間だったとなれば、人類にとって大きなインパクトでもあるだろう。無神論者も神を否定できなくなるのではないか。
 でも少なくとも現時点では証明できない訳で、科学者でも何でもない私たちがそれについてアーダコーダ言ったところで、どうなるものでもない。

 それに私たち一般人には目下、毎日仕事とか学校とか生活とかがあり、今日の夕飯をどうるすか、クリーニング屋にいつ行くか、給料日までどうやってしのぐか、などイロイロ忙しいのである。あるいはクリスチャンらしく綺麗なことを言うとすれば、今日もどうやって隣人を愛そうか、教会にいくら献金できるだろうか、とかそういうことも考えなければならない。いちいち創世がどうだったとか構っていられない。またそんな議論は聖書の実践とは関係ない。
 と私は思う。

・黙示録はどういう姿勢で読むべき?

 これについても私は前述と同じスタンスを持っている。すなわち、そんなこと考えてどうするの? という感じ。
 黙示録はあくまで「黙示」であって、そのものズバリな表現はしていない。世の終わりにかかわる内容なのは間違いなさそうだし、イロイロ恐ろしいことが起こりそうな気がするけれど、実際にはわからないことだらけだ。解釈の幅もそうとう大きい。たとえば一つの事柄について解釈Aと解釈Bと解釈Cがあるとして、Aを採用し、BとCを棄てるとする。その根拠はどこにあるのだろう? なぜ自信をもって1つの解釈だけを支持することができるのだろう?

 だから黙示録(アポカリプス)は「黙示」として読む他ないと思う。「アポカリプス」には「開示されたもの」という意味があるようだけれど、私に言わせれば、何も開示されていない。比喩表現の宝庫のようでもある。それにわからないものを無理やり解釈しようとすると、キリスト教でなく「自分教」に陥る恐れがある。

 ただ終末に関して1つ言えるとしたら、それは福音書にあるキリストの言葉だ。
「惑わされないようにしなさい」
 これに尽きると思う。イロイロな解釈に振り回され、アーデモナイコーデモナイとやっていると、簡単に惑わされてしまう。惑わされるのは簡単である。そんな暇があるなら、キリストの教えを1つでも実行する方がよほど有意義だと私は思う。

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