貫き通すべき「信仰」とは何か。映画『沈黙-サイレンス-』から。

2017年1月21日土曜日

映画評

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 本日(1月21日)公開の映画『沈黙-サイレンス-』を鑑賞した。
 言わずと知れた遠藤周作の同名小説の映画化である。監督は大御所のマーティン・スコセッシ。
 一言で感想を言うなら、大変重厚なドラマであった。

 原作ははるか昔に流し読みした程度なので、今回の映画との差異はよくわからない。でも概ね忠実な作りだったと思う。
 ここでは原作はさておき、映画について、考えさせられたことを紹介したい。

■簡単にあらすじ(ネタバレあり)

 17世紀半ば。日本で布教活動中だったフェレイラ司祭が現地で棄教した、という知らせがポルトガルに届く。フェレイラを師と仰ぐ若き司祭、ロドリゴとガルペは真実を知るため日本に赴く。しかし長崎は激しい迫害下にあり、日本人信徒(キリシタン)たちは潜伏を余儀なくされていた。
 ロドリゴたちは初めこそ歓迎されたが、自分たちの存在がかえって彼らに危険をもたらしたとを知る。そして棄教を拒んだキリシタンたちが(自分たちのせいで)処刑されるのを目の当たりにし、苦悩する。なぜ彼らが苦しまねばならないのか、なぜ神は沈黙しているのか、と。
 やがてロドリゴも奉行所に捕えられ、殉教を覚悟する。しかし処刑はされず、かえって自分を慕うキリシタンたちが目の前で処刑されていくのを、延々と見せられるのだった。そして奉行にある条件を突きつけられる。ロドリゴが棄教すれば、彼らを助けてやる、と。
 自分の信仰を守るために彼らを見殺しにするか、信仰を捨てて彼らを助けるべきか、ロドリゴは究極の選択を迫られる。しかしそれこそが、かつてフェレイラが棄教した理由だった。そしてフェレイラと同じく「神の沈黙」の意味を知ったロドリゴは、踏み絵を踏むのだった。

■クリスチャンにこそおススメしたい映画

 本作を鑑賞するには、キリスト教の基本的知識、とりわけキリストの十字架について知っていることが前提になると思う。キリストが黙して十字架刑を受けたこと、十字架上で苦しんで死んだこと、そのとき天の父(神)が沈黙していたこと、なんかを知らないと意味がわからない部分が多いと思う。その意味では、クリスチャンの方々にはわかりやすいストーリーであろう。

 また本作は、キリスト教的「殉教」ついて疑問を投げかけている。
 映画の中で、殉教は素晴らしいことだ、栄誉あることだ、踏み絵など踏まずに信仰を貫き通して死ぬべきだ、みたいなセリフが登場する(ガルペ司祭が言う)。けれど後半、それに対して、では他者を苦しめて(死なせて)まで自分の信仰を守るべきなのか、ではキリストが言う隣人愛とは何なのか、というアンチテーゼが提示される。フェレイラは、そしてロドリゴは、神を愛するがゆえ、信仰を守りたい。しかし信徒らを愛するがゆえ、信仰を棄てざるを得なくなる。しかしもし棄てなかったら、それは隣人愛を棄てることになる。というパラドックスに陥る。

 つまり、信仰を守るためには信仰を捨てなければならない、でも捨てなければ信仰を守れない、という究極のジレンマ。これはクリスチャンの皆さんに是非考えていただきたい問いだ。

■押し付けられる「殉教」

 興味深かったシーンの1つに、奉行所への人質をどうするか、村人たちが話し合う場面がある。
 キリシタンが潜伏していると疑われた村人たちが、人質を出すよう、奉行所に命じられる。村人は実は皆キリシタンなのだけれど、人質にはなりたくない。だから「誰が人質になるか」という話になると、皆押し黙ってしまう。 そして他者に押し付けはじめる。「おまえ、本当のキリシタンだったら人質になって殉教しろ」みたいなことを言うのがいて、いやいやあなたもキリシタンだよね? と言いたくなった。
 このへんに、教理だからと信徒にあれこれ押し付ける、カルト系牧師のやり方が重なって見えた。

■棄教することで信仰を守る、という逆説

 もしかしたら本作は、「カトリック司祭が結局棄教してしまった物語」と誤解されてしまうかもしれない。
 表面的にはたしかにその通りである。フェレイラ司祭もロドリゴ司祭も、処刑されるキリシタンたちを救うため、自ら棄教した。そして日本人の名を名乗り、日本人の家族を持ち、日本人として生きていくことを選んだ。もはや司祭として活動せず、公には神を否定し続ける。そして死ぬまでそれを貫く。これは「棄教した」と言ってもいい。

 しかし終盤のいくつかのシーンからもわかる通り、彼らは神への信仰を捨ててはいない。むしろ残りの生涯をかけて、神への忠誠を体現し続けた。それは「棄教した」と公に宣言し続け、司祭であることを棄て続け、人から何と言われようと黙って耐え続けることだった。そしてそれこそが、キリストが黙って十字架刑を受けた「忍耐」、その様子を見ながら沈黙し続けた天の父なる神の「忍耐」から、ロドリゴたちが学んだことだったのだ。
 つまり、「完全に棄教した人生」を周囲に見せ続けることで、彼らは自分の信仰をギリギリの線で守り通したのである。
 と、私はそう解釈した。

■ちょっとトリビア

 終盤の、ロドリゴが踏み絵を踏むシーン。踏んだ後、ロドリゴは泣き崩れるのだけれど、そのときニワトリが鳴く。これはもちろん、ペテロがキリストを3度否定した後でニワトリが鳴いた、というあの話から来ているだろう。すごく細かいシーンだけど、これから鑑賞する人には良かったら確かめてみてほしい。

■疑問な部分

 本作で語られるいくつかの考え方に、若干疑問を持った。
 1つは、日本が「沼地」であってキリスト教は決して根付かない、というもの。まあたしかに日本のクリスチャン人口はメチャ少ないんだけど、「決して根付かない」まで言えるのかなぁ、という疑問。

 もう1つは、日本では「神」のイメージが歪んでしまった、彼ら日本人は「神」と言いながら「太陽」を拝んでいる、というもの。「神」に対する考え方が歪んでしまう、というのは実際にあると思うけれど、クリスチャンが太陽を拝むってあるのかなぁ、とそこは大いに疑問だった。

■最後に

 原作者である遠藤周作の意図はよくわからないけれど、私はこの作品に、キリスト教の欺瞞を提示する側面があるように思えた。
 それは「踏み絵を踏んで殉教すべきだ」という、一見すると信仰的な、敬虔な姿勢に対して現されている。すなわち「殉教」という、もちろん苦しいことだけれど、その反面で華々しく、いつまでも人々の記憶に残るという栄誉が付いて回る行為に、少なからず自己満足や見栄が含まれているのではないか、という問いかけである。そしてそれに対して、「棄教した」という不名誉を一生背負って沈黙を守ったまま生きていく、その姿勢にこそキリスト教の真髄があるのではないか、という答えが提示されているように私には思えた。

「殉教」してまで貫き通そうとしたのは、もしかしたら「信仰」でなく、自分自身の「見栄」なのかもしれない。そして不名誉に甘んじて沈黙を貫き通すことが、もしかしたら「信仰」なのかもしれない。そんな視点を持ちつつ、この作品を鑑賞してみたらいかがだろう。

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