聖書の読み方のススメ

2017年1月14日土曜日

聖書の読み方

t f B! P L
 聖書を読むのは、クリスチャンであれば日常的な行為であろう。
 ただどう読むかは、けっこうマチマチではないかと思う。 

 そもそも聖書の読み方に厳密なルールがある訳ではない。もちろん聖書を「本」として考えるなら、初めから1ページずつめくっていくべきだろう。しかし聖書はちょっと勝手が違う。量が膨大なので、初めから読み進めたら、読み切るのに何ヶ月とか、ペースによっては何年とかかかってしまう。しかも初めから4分の3くらいは旧約聖書だから、キリスト教なのに肝心の「キリストの教え」を当分読めない、みたいな事態にもなる。
 だから聖書の読み方には、何らかの工夫が必要だと思う。

  また、当ブログにコメントをいただいたことがあるけれど、クリスチャンになって何年も経っているのに、いまだに聖書を通読したことがないとか、神学的なことは全然わからないとか、そういう人もいる。クリスチャンになったばかりの人が「全然わからない」と言うのはわかるけれど、すでに「先輩」と呼ばれる立場で、人前に立つ奉仕もしているような人が「全然わからない」と言うのはさすがに問題があると思う。そういう人に「導かれる」会衆は一体どうなってしまうのだろうか、と他人事ながら心配になる。
 そういう場合は、奉仕を頑張る前に、聖書をどう読むか、どう学ぶか、という点について立ち止まってよく考える必要があるのではないだろうか。

 という訳で今回は、聖書の読み方と注意点について、私見を述べてみたい。

■聖書はどこから読み始めるといいか

 膨大な情報量を持つ聖書を、まずどこから読み始めるべきか。前述の通り、初めから順番に読み進めていくと、結果的には通読になって良いかもしれない。けれど初めての方には、ものすごい遠回りになってしまう恐れがある。
 で、どんな読み始め方があるか、(クリスチャンになったばかりの人が対象になると思うけれど)私が実践したり見聞きしたりしたことを紹介してみる。

・四福音書、特に「ヨハネの福音書」から読む

 キリスト教は文字通り「キリストの教え」を知ることから始まると思うので、キリストの言行録とも言える福音書から読むとわかりやすいかもしれない。ただし「マタイの福音書」は第一章が人名と家系の羅列なので(それにも意味があるけれど)、初めての方には「なんじゃこりゃ」となりやすい。
 その点、「ヨハネの福音書」は四福音書の中では一番読みやすく、キリストの言葉が沢山出てくるので、初めての方にもわかりやすいと思う(私がそうだった)。また他の福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に出てこない話も沢山ある。まずヨハネの福音書を読み、それから他の福音書を読み比べてみる、という読み方はアリであろう。 たしか「ヨハネの福音書」だけを掲載した薄い小冊子もあると思う。

・新約聖書から読破する

 キリスト教の聖書は旧約聖書と新約聖書を合わせたものだけれど、キリスト教の実践という観点から見ると、新約聖書の方が重要性が高いと思う。もちろん旧約聖書も大切だけれど、「何も知らない人にまずどちらを勧めるか」で考えると、新約聖書に軍配が上がるであろう。

 旧約と新約では、平たく言うと「神」の印象が全然ちがってくる。旧約からは「おっかない神」という印象を受けるけれど、新約からは「お父さんである神」という印象を受ける。まずは後者の神様に触れてから、適切なガイドを受けつつ、前者に触れていくのが良いかもしれない。

 信仰歴が長くなり、聖書に親しんでいくと、旧約聖書からばかり引用する人が出てくる。
 たとえば「聖所に向かって手を挙げよ」という旧約の記述を強調して、賛美中に手を挙げるよう(事実上の)強要をする人がいる。でも新約でキリストが強調しているのは形式でもなく、場所でもなく、「霊とまことによる礼拝」であって、賛美中に手を挙げろとか、飛び跳ねろとか、踊り叫べとか、そんなこと言ってない(それを否定している訳でもない)。
 だから「手を挙げて賛美しましょう」というのは、聖書を根拠にしているのでなく、ただ「礼拝の盛り上げたい」だけだと私は思う。

 ちょっと脱線したけれど、キリスト教の基本となるのは、やはり「キリストの教え」であろう。だから旧約、新約とも万遍なく読んで理解を深めるのも大切だけれど、いつも新約の基本に戻るべきだと私は思う。

・旧約聖書はわかりやすいところから

 旧約聖書は、それはそれで魅力的な書物だと思う。人類のはじまりから堕落、大洪水とその後、アブラハムにはじまるイスラエル民族の歴史を、長い長い大河ドラマ的に楽しむことができる。創世記、出エジプト記(の前半)と読み進め、レビ記と民数記と申命記は(読むのが大変なので)スルーして、ヨシュア記からまた順番に読んでいけば、歴史の流れはおおよそ掴むことができる。

 レビ記と民数記と申命記にも若干ストーリーがあるけれど、長い長い律法の言葉(しかも同じ内容が何度も繰り返されたりする)が延々と続くので、初めての人にはキツい。だから初回はスルーしていいと私は思う。
 また詩歌や預言書は、それが書かれた時代背景や人物の状況を把握してから読まないと、なんかよくわからないまま終わってしまう。
  結論として、旧約聖書は読みやすいところから読んでいき、小難しいところは思い切って飛ばしていいと思う。そして後々知識が付いてきたら、そのとき挑戦すればいい。

■聖書を読むうえでの注意点

 次に、聖書を読むうえで注意した方がいいことを書いてみる。

・文脈を無視しない

 これはよく言われることであろう。今さら書く必要ないかもしれない。
 すごく単純でわかりやすい例を挙げると、コリント第一の5章8節。「パン種の入らないパンで祭りをしよう」と書いてあるけれど、これはそういう祭りを実際にしよう、という勧めではない。6節からの「高慢」に関する文脈の一部分であって、「わずかな高慢がパン種みたいに全体に広がるから気を付けなさい。そういうパン種(高慢)は入れないようにしなさい」という勧めである。その文脈を無視してしまうと、「さあ聖書にある通り、私たちの教会はパン種を入れないパンの祭りを毎月第〇日曜日に行います」みたいな話になってしまう。文脈を無視して一節、一語だけ取り上げてはいけない。

・聖書の物語性に留意する

 これは依然SNSに投稿したことだけれど、聖書の「物語性」に注意しなければならない。特に旧約においてそうだ。たとえばヨブ記をみると、酷い試練に遭って苦しんでいるヨブを励ましに、3人の友人たちがやってくる。そして3人がそれぞれ自分の長い主張を語って聞かせる。この3人の主張は、読んでいる段階では、一理も二理もあるように思える。でも終盤になって神ご自身が現れ、その3人の主張にまさかの「ダメ出し」をするのである。つまり3人のそれらしい主張は、ことごとく間違っている、ということ。
 そういう話の筋を知らないまま、3人の主張にだけ注目してしまうと、「これも聖書の言葉だから」と鵜呑みにしてしまう恐れがある。

 登場人物たちがあーだこーだ主張し合うという話の展開においては、当然ながら、その全てが「正しい」とはならない。「聖書は全て正しい」と言う人がいるけれど、上記の通り、一語一句に至るまで全部正しい、というのは言い過ぎであろう。聖書の物語性を理解して読まないと、おかしなことになってしまう。

・独創的な解釈に注意する

 聖書にはハッキリ明示されていることと、明示されていないこととがある。たとえば「盗んではならない」という命令は非常に明確で、他の解釈のしようがない。けれどたとえば、(大雑把に書くと)「信仰は行いではない」と言いながら「行いのない信仰は死んでいる」とも言っていて、どっちやねん! という部分もある。他にも明確になっていないことが沢山ある。
 つまり、聖書には「わからない」ことが沢山ある。でもそれは悪いことではなくて、わからないものは「わからない」でいいと思う。そこに無理やり自己流の解釈をほどこすと、キリスト教でなく「自分教」になってしまう。

「自分教」に陥ってしまう人の特徴として、ヨハネの福音書14章26節の「聖霊がすべてのことを教える」という箇所を強調する傾向がある。「聖霊様が私に教えてくれた」として、聖書のいろいろな箇所を、独創的に解釈してしまうのである。

 たとえばアモス書9章11節の「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし・・・」を取り挙げて、「これは終末の日にダビデの幕屋の礼拝が回復されるという意味だ」と主張して、24時間の礼拝に勤しむ教会がある。でもこの箇所は明らかに比喩表現であって、旧約時代のダビデの幕屋をそのままの形で現代に再現する、という意味にはならない。だから角笛(つのぶえ)とか竪琴とかをわざわざ輸入して礼拝に導入する必要なんてはない(べつに導入してもいいんだけど)。
 それでももし本当にダビデの幕屋を「回復」したいのなら、角笛や竪琴だけでなく、律法に規定されている幕屋を忠実に再現しなければならないし、聖所とか至聖所とか、燭台とか契約の箱とかも規定通りに揃えなければならないはずだ。でもそこまでしている教会はない。私はそこに矛盾があると思うのだけれど。

 以上、聖書の読み方と注意点を挙げてみた。

QooQ