キリスト教の、というか宗教の「伝道」について・その3

2016年12月7日水曜日

雑記

t f B! P L
「伝道」についてシリーズ3回目。
 前回は「しゃべる伝道」と「見せる伝道」について書いた。今回はまたちょっと違う切り口から、いくつか書いてみたい。

■「霊の目」なる概念

 ある教会群は、「伝道」において重要なのは「霊の目」だと言う。
 対象となる未信者の「霊の目」が開かれていないと、福音を聞かせても、その心に入って行かない。だから信じない。それだといくら話しても意味がないから、「伝道」で大切なのはまず「霊の目が開かれるように」祈ることだ、と言う。逆に「霊の目」が開かれていれば、どんなに難しそうな相手でも、一発で福音を信じて救われる、という主張である。

 たぶんこの話の聖書的根拠は、エマオ途上のキリストと弟子たちとのやりとりにあるだろう。その弟子たちはキリストと話している最中は何も悟ることができなかったけれど、後で、話していた相手がキリストご自身だったと気づいた時、話された全てを理解することができた、という話。ここで弟子たちの「目が開かれた」という表現がされている。 「霊の目」だったとは書いていないけれど。

 確かに福音を伝えてみると、割合的にはかなり少数だと思うけれど、あっさり信じる人たちがいる。そうかと思うと、全然聞いてくれない、聞いても本気にしてくれない人たちがいる。その両者の違いをこの「霊の目」で説明することが、もしかしたら可能かもしれない。

 でも「霊の目」説を採用するならば、「伝道」の成果は全面的に、この「霊の目の開閉度」に依存することになると思う。前回書いたような、まず自分たちの活動や行動を見てもらって、それによって接点のできた人たち(ある程度信頼関係のできた人たち)に福音を話す、みたいなプロセスはまったくの無駄となる。無駄というか関係なくなる。どんなに信頼関係があろうが、どんなに尊敬を得ていようが、すべては「霊の目」次第なのだから。逆に言うと、まったく初対面のどこの誰だかわからない相手でも、「霊の目」が開かれていさえすれば、福音を信じる、ということ。つまり、「伝道」に人間関係は必要なくなる。

 この「霊の目」説で1つ疑問なのは、いったい誰がどうやって「霊の目」の開閉を確認するのか、という点ではないだろうか。どうやったら、あの人は開かれている、あの人は開かれていない、というのが判断できるのだろう。
 その方法が何であれ、もしそれができるのなら、「伝道」は百発百中になるだろう。「霊の目」が開かれている人だけ選んで、語ればいいのだから。でもそんな百発百中な伝道者は見たことも聞いたこともない。

 あるいは逆に、「霊の目」の開閉を判断できないならば、結局のところ「どうなるかわからないけど福音を語ってみるしかない」という話になるだろう。それで相手が信じれば「霊の目が開かれていた」、信じなければ「開かれていなかった」という後付けの判断になる。
 でもそういう後付けの判断に、何の意味があるのか。

「霊の目」説のもう1つの問題点は、伝道する側が上目線になりやすい、ということだと思う。
 福音を受け入れない、クリスチャンのことを良く思わない、なにかと敵対的だ、という種類の人間を指して、「あの人は霊の目が開かれていないから、わからないのです」みたいなことを言う。それがひどくなると、「どうせ未信者だから」「どうせ真理から遠い人だから」みたいな、ほとんど未信者蔑視の状態になってしまう。

 そうなるともう「伝道」は難しいだろう。自分たちに対して友好的な人間しか、相手にできなくなるから。しかも謎の上目線で接するようになってしまうから。「霊の目が開かれている自分たちは素晴らしい存在なのだ」みたいな自負が、そうさせるんだと思う。

 さて、「霊の目」説は採用されるべきだろうか?

■ユダヤ人に対してはユダヤ人のように・・・とは言うけれど

 もう1つは、「伝道において、どこまで相手の立場に近づくべきなのか」という話。

 聖書でパウロは、「ユダヤ人を獲得するため、ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました」みたいなことを書いている。つまり、「相手の立場に立って、その立場を想像して伝道すべき」みたいな意味であろう。

 これは臨床心理学的に言うところの「受容と共感」みたいな話だと思う。上述の「霊の目」説を無視するならば、「伝道」を成立させるポイントは、やはり人間どうしの信頼関係であろう。「この人の言うことだから聞く価値があるはずだ」と相手が思えることが、「伝道」の出発点になりえるからだ(そう考えると、信頼できない相手でもその話「だけ」は信用しよう、というのはあまり現実的でない気がする)。

 というわけでパウロは「伝道」において、ユダヤ人に対してはユダヤ人のように振る舞い、律法の下にある者に対しては律法の下にある者のように振る舞った、ようだ。

 これを現代に当てはめると、どうなるか。たとえばこんなのがある。
「最近のゲームや漫画を知らずに、最近の若者を知ることはできない」ということで、流行りのゲームをプレイし、流行りのマンガを読んでみる。
「夜の仕事の人たちにリーチするために」、実際に夜の街に出ていく。
「ホストたちにリーチするために」、ホストの友達をつくる。
「芸能界に伝道するために」、自分が芸能人になるべく努力する。

 それら一つ一つは(方法には賛否両論あるだろうけれど)たぶん必要なことだと思う。たとえば芸能界にクリスチャンとして切り込んでいくには、実際に芸能界に通じていた方が効率的だし、イロイロやりやすいだろう。あるいは芸能界でなくても、専門的な分野には、それぞれその道に詳しい人間がいた方がいい。たとえば英語しかしゃべれない人に「伝道」するとしたら、日本語しかしゃべれない日本人を向かわせはしない。

 ただ実例を見てみて、注意しなければならないなあと思うのは、何にでも加減があるということだ。ユダヤ人に対してユダヤ人のように振る舞うにも、限度というものがある。たとえばだけど、関西人と親しくなろうとした関東人が、あえて関西弁を使ってみるとする。はじめのうちは良いかもしれないけれど、あんまりしつこく関西弁モドキでしゃべっていたら、そのうち嫌味っぽくなるだろう。かえって溝を作ってしまうことにもなりかねない。同じ立場にたって共感するにも限度があり、同化するにも限度がある、ということだ。

 何にでも、程度や節度がある。

 最後に残念な例を紹介すると、非常に伝道熱心なクリスチャンがいた。真面目を絵に描いたような人物だった。その人はある時、風俗業界の人々に触れていきたいと言い始めた。そして最終的には教会を離れて、自分も風俗業界で働くようになった。その後どうなったのかわからない。自分も風俗で働けば、同業の人たちの気持ちがわかると思ったのかもしれない。でもそれはやり過ぎというか、方向的に間違っていたのではないかと、思えてならない。

 他人に共感するとは難しいことなんだと思う。本当に。だから私は「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように」という言葉を否定する気はないけれど、不用意に使ってはいけないと思っている。

 さて今回挙げた2つのケースから、「伝道」なるものについて、皆さんにも考えていただけたら幸いである。

QooQ