クリスチャン映画『祈りの力』を考える

2016年12月24日土曜日

雑記

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 クリスマスに関係あるようで全くない映画の話。

■クリスチャン映画『祈りの力』を考える

 今年(2016年)、クリスチャン映画が同時期に3本公開されて、クリスチャン界隈でちょっと話題になった。『復活』と『祈りの力』と『天国からの奇跡』である。どれも肯定的な評価が多かったと記憶している。もちろんクリスチャンによる評価がほとんどだろうけれど。

 その中で私が個人的に興味を持った映画は『祈りの力』である。と言っても内容に惹かれたのではない。『Facing the Giant』や『Fireproof』でちょっと有名な監督、アレックス・ケンドリックの作品だからである。

 ケンドリックはアメリカのプロテスタント教会のクリスチャンで、ガチガチの信仰者である(彼のどの作品にもそれが強く反映されている)。
 彼の作品の主人公や背景はいろいろだけれど、話の筋はいつも同じだ。苦しい状況にある主人公(とその周辺の人々)が、信仰に目覚めて祈り出すと、事態が次々と好転していく。勝ったり、和解したり、助けられたり、治ったりして、その度にハレルヤとなる。最後は奇跡に近い出来事まで起きて、良かった良かったのハッピーエンド。

 ちなみに私はなんだかんだ言いながら全作品観ている。ベタな展開が好きだからだ。ダメダメだった人たちが事態に真摯に向き合うようになり、いろいろ成し遂げて、抱き合って泣く姿がいい。完全にワンパターンなんだけど、逆にそこもいい。毎週水戸黄門を観て安心するようなものである(たとえが古いよ)。

 ただ若干注意しなければならないのは、彼の映画同様に「祈れば何でも解決するんだ」と思い込んでしまう信仰スタイルを持ってしまうことである。あれはあくまでフィクションなのに、「信仰かくあるべし」みたいな話になってしまうのは問題であろう。

 べつに祈りを信じないとか、神様を信じないとかではない。そうでなく、どちらかと言うと「動機」の部分。

 祈れば直ちに事態が好転する、という思考は、けっこう危険だと思う

 第一に、祈って事態が好転しなかったら「祈りが足りないんだ」「信仰が足りないんだ」みたいな話になってしまって、さらに激しく祈ったり、断食したり、無茶な献金を積んだり、ハードに奉仕に励んだり、という底なし沼みたいな「努力」にシフトしてしまう危険性がある。
 第二に、「努力の何が悪いんですか?」とか原理主義の皆さんが言いそうだけど、結局その「努力」が自分自身の為でしかない、という点だ。自分や身近な人の個人的な困り事を解決したくて、祈ったり献金したりしているだけに見える。それは神を敬っているというより、神を利用していると言った方がいい。多少乱暴な言い方かもしれないけれど。つまり、ご利益主義に陥る危険性がある。
 第三に、祈れば成功できる、勝利できる、豊かになれる、そうならないはずがない、という「繁栄の神学」に陥る危険性(これについては他でも書いているので割愛する)がある。

 映画は2時間という尺に劇的要素をギュッと詰め込んでいるから、いろいろ次々に展開する。けれどご存知の通り、現実はそうではない。

 実際のところ、何十年も教会生活を送り、日曜礼拝をほとんど欠かしたことがなく、よく祈っていた人たちが、蓋を開ければ何十年もDV被害に遭い続けていたり、何十年もポルノ中毒のままだったり、他にもいろいろ問題を抱えたままだったりする。それらは「忍耐を試されている」にしては長すぎる期間だと思う。祈りを否定するつもりはないけれど、それらの根本的な解決は、祈り以外のところにある気がしてならない。

 こういうことを書くと、「信仰を否定するな」とか「それでもクリスチャンか」とか「祈りの本当の力を知らない」とか言われることがある。でも私は、ありのままの現実を直視して言っているに過ぎない。

 たとえばだけど、何十年もDV被害に遭っていた人は、祈りを何年積んでも救われなかった。けれど、たった一本の通報(大変勇気のいる通報だけれど)で救われた。としたら、その「何十年の祈り」とはいったい何だったのか。何十年どころか、たった1日で解決できたはずなのだけれど?
 神を知らず、祈ったことも祈られたこともないあるDV被害者が、適切な助けを得ることで、長期間に至ることなく助け出された。このケースに限っていえば、上記の信者より、この未信者の方が幸いだと思う。だとしたらクリスチャンの存在価値とはいったい何なのか。

 話が少し脱線したけれど、「祈りの力」を過信せず、単純にキリスト教系エンタメとして観るなら、『祈りの力』は満足できる作品だろうと私は思う。

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