「神様どうぞ導いて下さい」にまつわるアレコレ・その3

2016年12月16日金曜日

「神の導き」に関する問題 雑記

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「神様どうぞ導いて下さい」にまつわるアレコレ、の3回目。

 実は今回の内容を書きたくて、この「導き」シリーズを始めた。キッカケとなったのはこの一言。

「神様が決めた道が絶対です」

 これは、某キリスト教学校の説明会で話された言葉だそうだ。
 たとえその学校のことが気に入らなくても、それが「神様が決めた道」ならば、その子にとって一番の選択なのだ、というような意味だと思う。
 そういうのを聞いて励まされたり感動したりする親御さんもいるようだ。その気持ちはわかる。けれど私自身は、ちっとも励まされなかった。感動もしなかった。いろいろ気になることがあったからだ。

 という訳で、今回は「神の導き」に絡めつつ、この一言について考えてみたい。

■神が決めた道とは

 「神様が決めた道が絶対です」
 繰り返すけれど、この言葉の言わんとすることはわかる。
 神様は人間にとって何が最善かわかっていて、個人個人にもっとも良い道を用意してくれている。けれど人間の方はそれを最善と思わなかったり、むしろ悪く思ったりして、不満や不安を募らせることがある。しかし後になってみれば、やはりそれが最善だった、と気づく。神様は私の最善を考えていてくれたんだ、ハレルヤ、アーメン。と、いうことであろう。

 その手の話は聖霊派・福音派の教会に行くとゴロゴロしている。「神様が決めた道」というのがよくわからなくて、不満に思ったり不安に感じたり、右往左往したりしたけれど、振り返ってみればやはりそれが自分にとって最善だったと気づいた、というタイプ(ほとんどステレオタイプになっている)の「証」である。話す方も聞く方も感極まって「良かった良かった。そうだよね。ハレルヤだよね」みたいな雰囲気になることが多い。本当に多い。

 その感動に水を差すようだけれど、結果的にいつも「神様が決めた道」を歩めているのなら、「どうぞ導いて下さい」みたいな祈りをする必要がそもそもない気がする。後から感謝することがわかりきっているのなら、初めからただ感謝していればいいのではないか。と。

 ちょっと話がズレたけれど、この「神様が決めた道」というセリフ、信仰的に見えるかもしれないけれど、実は微妙だと私は考えている。次の3つの点で違和感があるからだ。

1.誰がどうやってその真偽を判断するのか

 個々人の人生に対して「神様が決めた道」が存在すると仮定して、その「道」は誰が、どんな方法で、どうやって判断するのか。何が神様が決めた道で、何が神様が決めた道でないのか。

 たとえばだけれど、Aという道と、Bという道があるとする。あなたはどちらか一つを選ぶ。Aを選ぶと、Cに到達する。Bを選ぶと、Dに到達する。さて、あなたが何らかの方法でAを選び、Cに達した。でもそれが「神様が決めた道」だったと、どうしてわかるのか。Bは絶対に「神様が決めた道」ではなかったのか。しかしBを選んだ場合のことはもうわからない。仮にCが(自分にとって)良い結果だったとしても、もしかしたらDは更に良い結果だったかもしれない。あるいはもっと他の選択肢があったことに、後から気づくかもしれない。

 それにそもそも、結果が良いか悪いか微妙かで「神様が決めた道」を判断する根拠がない。生きていれば良いことも悪いことも当たり前にある。あらゆる選択に成功したクリスチャン、というのも聞いたことがないし、そんなの現実的でもない。

 そもそもの話だけれど、上記の「証」の「初めは不満だったけれど、振り返ってみると神様が用意してくれた道でした」みたいな話は、「はじめから神様が決めた道かどうかわからなかった」ということに他ならない。
 また、後から「やはりこれが神様の導きだった」と言うのも、実は根拠がない。他の選択肢を選んだ場合のことがわからないからだ。

 この面倒臭い禅問答みたいなモノに終止符を打つとしたら、私はこれに尽きると思う。
「自分の道は自分で決めろ」

2.それは運命論ではないのか

 第二の問題点は、「神様が決めた道」という表現に含まれる運命論(あるいは予定論)的ニュアンスだと思う。
 神様が個々人に対して決めた一本の「道」があるとするならば、私たちがどのような選択をしたとしても、結局私たちは「神様が決めた道」を歩んでいるに過ぎない、ということになる。まあそれは「なるようにしかならない」という考え方でいけば必ずしも間違ってはいないけれど。
 でも話はそんな簡単ではない。

 たとえば聖書には、いわゆる「神に喜ばれない行為」をした人たちが多数登場する。アダムに始まり、新約時代の人たちに至るまで、その数は数え切れない。そして彼らが全て、そのような運命に定められていたとするなら、つまり大なり小なり神を裏切ることがはじめから決定されていたとするなら、それってものすごく「ハズレ」な人生ではないだろうか。なぜなら彼らに(運命論という意味において)選択の余地はなかったのだから。変な言い方だけど、「神様が決めた道」を歩ませられ、神を裏切らさせられたようなものなのだから。

 罪のゆえに荒野で大量虐殺されたユダヤ人とか、エリヤのハゲを笑って熊に殺された子供たちとか、畑を売ったお金の一部を誤魔化したのがバレて即死した夫婦とかは、それが彼らの「運命」だったのだろうか。もし彼らが「そうなる運命にあった」とすると、彼ら自身の自由意志との間で、矛盾が生じる気がする。
 すなわち、彼らは自らの意思で神に逆らった。→しかしそれが彼らの定められた運命だった。→ということはその反逆は神の予定だった。→であるなら、彼らの責任ではないのでは?

3.そしてやはり「導き」の問題に戻る

 前2回の結論と重なるけれど、「神の導き」とか「神様が決めた道」とかいう話に付いて回るのが「主観」の問題だと思う。自分の立場や視点や価値観からある事象をみて、「これはきっと◯◯に違いない」と自分で判断し、それを「神の導き」に当てはめようとするのだ。
 だから同じ事象でも人によって見方が変わる。だから言うことも変わる。普遍的なものならば、人によって変わらないはずだけれど。

 今回紹介した「振り返ってみると、これが神様が用意してくれた道だとわかった」みたいな言い回しは、心情的には理解できる。けれど、だからそれが「神様が決めた道だった」と言うのには違和感がある。人にはいろんな可能性があり、神はそれを否定していないからだ。

 ただ例外的なケースとして、十字架につかれたキリストの人生が挙げられると思う。彼は「神様が決めた道」を歩まれたと言えるだろう。彼は自分の「道」をよく理解していた。そして成功とか繁栄とか安楽とか、そういうものを求めなかった。むしろ十字架という刑罰に自ら向かって行った。彼は天の父によって「犠牲として捧げられる」ことが定められていたんだと思う。
 でもそれは例外中の例外であろう。キリストを例に挙げて「だから私たちにも定められた運命がある」と言うのは、一理あるかもしれないけれど、それ以上にいろいろ制約を課すことに繋がりやすいと思う。

 大学進学を控えた高校3年生の子に、「あなたが◯◯大学にいるのが見える!」とか言っていた牧師がいた。その子はそう言われてかなり悩んでしまった。◯◯大学に行くのが「神様の御心」なんだろうか、でも自分は××大学に行きたいと思っている・・・みたいな葛藤を強いられたからだ。なんでそんなかわいそうなことを言うんだろう、と私はその牧師に反感を覚えたものだ。

 最後に、「振り返ってみると、これが神様が用意してくれた道だとわかった」について書くけれど、これは心理学的に説明されている、人間心理の傾向でもある。

 たとえばある品物を買おうとしている人がいて、いろいろな製品を比較して悩んでいる。そして思案の結果、製品Aを購入した。でも知人に製品Bを買った人がいて、見ていると製品Bはなかなか便利そうである。すると、なんとなく製品Aを買ったことが失敗に思えてくる。そこで、でも製品Aはこれができるし、あれもできるし、使い勝手がいいし・・・みたいな利点を上げることで、それが良い選択だったと自分自身に言い聞かせる心理が働きはじめる。

 この心理学的作用にはちゃんと名前が付いている(名前は忘れた)。要は「自分の選択は最善だった」と思いたいのである。これは先の「これが神様が用意してくれた道だった」にも通じていると思う。
 また同様のことが「神の導き」にも「神に語りかけ」にも「神の御心」にも言えると思う。自分の「こうであってほしい」という願望が、無意識的にそれらに投影されている可能性は大いにある。

 だから特に超自然的現象に心惹かれるクリスチャンの方々には、まず心理学の基礎だけでも学んでもらって、自分の思い込みやいろんなバイアスの存在を知ることから始めるべきだと、私は思う。

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