キリスト教の、というか宗教の「伝道」について・その2

2016年12月3日土曜日

雑記

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 前回に続いて、「伝道」について。

 他宗教の「伝道」がどうであれ、キリスト教におけるそれは、一方的に説得しようとしたり教理を押し付けたりするものでない。またエンタメ的なオブラートに包んで、なかば人を騙して引き込むようなものでもない。それより「福音」に生きる自分自身の姿を(ある意味無言で)単純に示すことが、結果的にわかりやすくダイレクトな「伝道」なのではないかな、というのが私の(現在の)伝道観である。
 以上、前回のまとめ。

 ただこれは「考え方」でしかないので、今回はもうちょっと突っ込んで、実際的な部分について考えてみたいと思う。

■「伝道」の現状(あるいは伝道の一般的イメージ)

 現代キリスト教会において「伝道」の主流になっているのは、「福音を語って聞かせる」スタイルだと思う。公園やカフェやファストフード店で初対面の人にいきなり声をかけるタイプ教会で「伝道集会」を開いて集まった人にメッセージするタイプ、あるいは知人や友人にここぞというタイミング(相手が困っている時等)で個人的に語るタイプなどあるだろう。いずれにせよ「福音とは〇〇です」「聖書は〇〇と言っています」「神様は〇〇というお方です」みたいにしゃべる伝道である。

 もちろん、「伝道」の根幹は「福音を語ること」にある。それ抜きには成立しないであろう。もし未信者の方に、創造主についてもキリストの十字架についても罪についても許しと救いについても一切語らなかったとしたら、相手はキリスト教の「キ」の字も理解できないと思う。だから「福音」をわかりやすく順序立てて説明するプロセス自体は、「伝道」の必須条件と言える。

 でも、だからと言ってただ「しゃべればいい(伝えればいい)」ということにはならない、と私は思う。

 たとえばだけど、90年代後半のインターネット黎明期、「ネットを駆使して伝道していこう」みたいな気運がキリスト教界でかなり盛り上がった時期がある。多くの教会やクリスチャンがHTMLを勉強してホームページ作成に乗り出し、あるいは聖書系のメルマガを配信しはじめた。もうちょっと時代が進むと、礼拝のネット配信とかyoutube伝道とかも見られるようになった。キリスト教業界ではそれらは注目され、たしかに話題にはなった。

 しかしその結果、実感として、どれくらいの人が「ネット経由で福音に触れて教会に足を運んだ」だろうか。つまりネットに書かれた内容やアップされた動画に触れただけの未信者(あくまで未信者)が、どれくらい教会に来ただろうか。
 実感として、これはかなり少ないと私は思っている。あるいはほとんどいないと言っていいかもしれない。そういうものに関心を持つのは同じクリスチャンが圧倒的に多く、未信者はまず見ないからだ。もちろんこれは私個人の実感なのだけれど。

 たとえば、以前もここで紹介したことがある「リバイバルセンターを建てあげる!」みたいな教会のPR動画は、youtubeにアップされて久しいけれどほとんど閲覧されていない。それもそのはずであろう。専門用語満載でリバイバルリバイバル言ってるだけの動画に、その教会や系列のクリスチャン以外誰も関心を持たないからだ。未信者が見てもさっぱり意味がわからないのである。まあ内輪向けの動画ならそれでいいんだろうけど(内輪向けなら一般公開でアップする必要がそもそもない)。

「youtube伝道」も状況は同じようなものだ。同じクリスチャンなら関心をもったり、見て「励まされ」たりするかもしれない。それはそれで良いだろう。けれど未信者への「伝道」という目的は果たせていないと思う。だって未信者は見ようとしないから。クリスチャンから見て内容がいくら素晴らしくて感動できたとしても、未信者にはそうではないのである。
 配信者本人は多少なりとも未信者を意識しているかもしれないけれど、それに反応するのは既存の(あるいは知り合いの)クリスチャンだけで、でも一応反応があるからということで本人はある程度満足してしまっている、という本末転倒な事態が、少なからず見受けられるように思う。

 というのが昨今の「伝道」でよく見られる風景であろう。べつにダメ出ししているのではない。現状そうなっていると思う。つまりしゃべる伝道は、あんまり奏功してこなかった。この20年間のクリスチャン人口の推移を見ても、それがわかるのではないだろうか。

■「伝道」におけるマーケティング意識

 たぶん、教会やクリスチャンにもマーケティング感覚が必要なんだと思う。
 クリスチャンの「伝道」におけるマーケティング対象は、間違いなく未信者である。そして未信者の皆さんは、物事の評価においてものすごく厳しい。

 たとえばだけど、クリスチャンのAさんがとっても上手に賛美を歌うとする。内輪ではAさんってすごいね、「賛美の賜物」があるね、素晴らしいね、みたいに評価される。けれど、じゃあ「歌を伝道に用いてみるか」となると、ハードルが一気に上がる。未信者の皆さんに歌を披露するとなると、「歌が上手い」のは当たり前の大前提となり、かつ「上手いだけ」では面白味がなくて見向きもされないからだ。またその「上手さ」が素人レベルでしかないなら、「そんなんで上手いとか言うな」と酷評されても文句は言えない。

 実際にあった話を脚色して書くけれど、若い男性クリスチャンのBくんがいた。見た目が良く、歌も上手く、いろんな意味で注目を集める存在だった。教会でもたくさん「用いられ」て、いろんな奉仕にも呼ばれた。そんなBくんを見て、ある牧師が「芸能界デビューできるんじゃないか」と話を持ちかけた。その牧師は台湾やシンガポールの教会と繋がりがあり、むこうでやってる「芸能界伝道」に興味があったのだ。たぶんBくんを利用して、日本でも芸能界伝道をはじめてみようと思ったんだろう。はじめは本気にしていなかったBくんだけど、徐々に興味を持ちはじめた。そしてやたら美容に気を遣うようになり、髪型とか服装とかにお金をかけるようになった。教会で歌うときは以前のような素朴な感じでなく、振り付けや表情に演出が入るようになった。そのためかある教会群では以前より更に注目されるようになった。
 しかし結果だけ言うと、芸能界デビューはできなかった。見た目が良くて歌が上手いだけの少年なら、いくらでもいたのである。 たぶんB君自身それを肌身で感じたんだと思う。今はそんなこと何もなかったように別の活動をしている。

 教会内やクリスチャン業界内では注目されても、一般社会ではまったく見向きもされない、というAさんやBくんみたいな状況は他にも沢山あるだろう。乱暴に括ると、井の中の蛙みたいになっててマーケティング感覚が足りないんだと思う。

 未信者の関心を引くのは、並大抵のことではない。
 クリスチャンであるあなたも、何かの商品(決して安くない品物)を購入しようとするとき、同様に厳しい目であれこれチェックするだろう。他社製品と比較したり、レビューを漁ったりして、鋭い選択眼を働かせることと思う。失敗したくないからだ。
 未信者にとっての「伝道」、あるいは「福音」もそれと同じなのである。これは自分にとって役に立つものなのか? 自分にとって価値があるものなのか? 何かを代償にするほどの価値があるものなのか? と考える。そして安っぽかったり嘘っぽかったりすると、一気に評価が下がる。けっこう厳しいのだ。当たり前なんだけど。

■「伝道」の歴史から学ぶべきこと

 で、しゃべる伝道がダメなら、見せる伝道を試してみてもいいのではないかと思う。これは前回の結論でも述べたことだけれど、要は「クリスチャンとして生きて働く自分自身を見せること」である。それならそこまでハードルは上がらない。いや、ハードルは依然として高いんだけど、またちょっと種類が違ってくる。

 いくら言葉で「神様って〇〇なんだよ、すごいよね」とか言っても、未信者にはほとんど伝わらない。やったことのある人ならわかるだろう。でも私たちの何らかの行動や活動が多少なりとも本格的で、多少なりともインパクトがあって、一見の価値があると少しでも思わせることができるものなら(それ自体並大抵のことではないけれど)、未信者の方々の関心を集めることができるだろう。

 わかりにくいと思うので実例を出すと、1887年以降に相次いで建てられたキリスト教系社会福祉施設がある。岡山孤児院や東京孤児院、博愛社、鎌倉保育園、滝乃川学園、キングスレー館、聖隷グループなど他にも沢山。どれもクリスチャンの団体が(教会という枠組みでなく)、キリスト教理念に基づいて設立し、多くの孤児や障害者や病人たちを助けた。そういう社会保障がまだなかった時代に。そしてそれらは日本の社会福祉事業や社会保障の先駆けとなっただけでなく、地域の教会形成にも繋がっていった。つまり隣人愛を本気で実践して福祉事業を始めたクリスチャンたちが、地域や国に認められ、結果的に教会を拡大していったのである。これはしゃべる伝道でなく見せる伝道の典型だと思う。

 現代日本でここまでインパクトのある「伝道」を行う教団やクリスチャン団体は、多分ないだろう。しゃべったり歌ったりするだけで「伝道熱心です」とか言ってる人には、是非そういう歴史を学んでみてほしいと思う。

 また、全然良い例ではないんだけど、高田馬場の「預言カフェ」はインパクトという点ではなかなか大きいと思う(あくまで現代日本での話)。もちろん万人受けするものではないけれど、スピリチュアル系の人々にはけっこう人気があると聞く。リピーターも多いようだ。繰り返すけど、全然良い活動だとは私は思わない。でもしゃべったり歌ったりする伝道に比べたらはるかに実践的で、はるかに(未信者に)わかりやすい活動なんんじゃないかと思う。昨今はスピリチュアル系に傾倒する人が割と多いようなので、マーケティング的にもニーズを掴んでいるのだろう。
 大事なことなので再三繰り返すけれど、私個人は「預言カフェ」には反対だし、知り合いが行こうとしたら一生懸命止めるんだけど。

■伝道≠しゃべって伝える

 もちろんしゃべる伝道も必要だと思う。誤解のないように書いておくと、私はしゃべる伝道を否定しているのではない。ただ、誰もがしゃべる伝道に向いているわけではない。正直言って、「伝道」に苦手意識のあるクリスチャンもいるだろう。それは「伝道=しゃべって伝える」という図式が、意識的にか無意識的にか、できてしまっているからだと思う。

「伝道熱心な教会」に行くと、やれ公園伝道だ、路傍伝道だ、刈取り伝道だ、〇〇伝道だ、伝道集会だ、と伝道尽くしな教会生活が待っている(それが良いか悪いかの話は置いておく)。そこの信徒は「伝道しなさい」と普段から命じられているから、一生懸命に誰かにしゃべって伝えようとする。でもうまく伝えられなかったり、相手から良い反応を得られなかったりして、ガッカリしたり自信をなくしたり燃え尽きたりする。それはまさに「伝道=しゃべって伝える」の弊害なんだと思う。
 でも「伝道 」には本来、今まで書いてきたように、言葉で一生懸命伝えようとしなくても伝える方法があるはずだ。しゃべって伝えるのは案外大変なことで、苦労したから必ず伝わるというものでもない。

 じゃあしゃべらなくていいのか、というと、そういう極端な話ではない。「伝道」とは前述のように、最終的にはしゃべる要素が必要になる。
 でも、興味関心を持ってくれる相手に話すのと、全然初対面の人にいきなり話しかけるのとでは、状況が全然ちがう。どちらが話が伝わりやすいかと言えば、前者であろう。そしてしゃべる伝道は主に後者を相手にすることになるけれど、見せる伝道は前者を相手にすることになる。 自分の活動とその動機に興味を持ってくれた人が自然と寄ってきて、話を聞こうとしてくれるからだ。これなら話すのが苦手な人でも、話しやすいのではないかと思う。

 要は、しゃべりだすまでにどのようなプロセスを踏むべきか、という話であろう。初対面でいきなり「神様はね・・・」とはじめるか、自分の活動や行動を見せてある程度の信頼関係を築いてから「自分がこれをしているのは、実は神様が・・・」とはじめるか。あなたが未信者だったら、どちらの形で聞きたいだろうか。もちろんいろいろな状況や立場があるから、答えは様々だろうけれど。

 まとめると、「伝道」とは自分がいかに「福音」に生きているか、ということに他ならないと思う。伝えたい内容と、自分がその内容に従って生きているかが、ちゃんと繋がっていることが大切なんだと思う。そしてそれを伝える方法は、しゃべるだけではない。自分の生き方や行いがそれを目に見える形で表現しているなら、それは既に「伝道」になっている、と私は思う。

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