クリスチャンの(超独断と偏見による)SNSの作法

2016年11月4日金曜日

雑記

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 昨今、SNSを利用するクリスチャンの方は大勢いるように思う。いろいろな教団教派や背景、聖書観を持った方々の様々なコメントやシェアを見ることができて、大変タメになっている。と言っても難しい教義話や伝道の成功譚に感動している訳でなく、たとえば今日はどうだったとか、こんなことがあったとか、そういう割とどうでもいい話が私は好きである。

 でも時々、(失礼ながら)痛々しいなあと思う投稿がある。
 だから、クリスチャンならこういうことはしてほしくないなあと思うことについて、独断と偏見に満ちているという前提のもと、今回は書いてみたい。

 もちろんSNSにかくあるべきという絶対のルールがある訳ではない。公序良俗に反しない限り、基本的に何を書いても自由であろう。だからお前なんかに「痛々しいなあ」とか思われる筋合いねーよって話かもしれない。

 ただ、1つ断言できるのは、「クリスチャンです」と明言した上での発言には、「クリスチャンとしての責任」が伴う、ということだ。つまり本人の意図がどうであれ、それを読む人はその投稿によって、「クリスチャンってこうなんだな」という印象なりイメージなりを持つことになる、ということ。良くも悪くも。
 だから何を書いても自由なんだけど、クリスチャンであると公言しているあなた(私も含む)の発言は、「クリスチャン」という総体に対して大なり小なり影響を与える。繰り返すけど、自分の意図とは関係なく。

 たとえば「仏教徒です」と明言している人の投稿は、「仏教徒の発言である」という宗教的フィルターを通して見られる。で、もしその人が日常的にひどい暴言ばかり投稿していたら、「仏教徒のくせに」とか「仏の教えって何なの」みたいな批判を受けるだろうし、仏教徒全体にマイナスのイメージを与えうる。
 もちろん仏教徒にもいろいろな人がいるだろうから、一個人の投稿一つで仏教界全体を論じるのは適切ではないし、そういうことは皆わかっているんだけど、心情的にはそう簡単に割り切れない。たとえば「政治家」という存在に対して、中には誠実な人だっているにもかかわらず、どうしても「カネ」とか「権力」とか「癒着」とかいう悪いイメージが付きまとうのと同じで。

 SNSの投稿とは、その内容もさることながら、その表現の仕方や言葉遣い、態度、雰囲気などから伝わってくる情報が大きいと思う。いわゆる非言語的コミュニケーションである。それは書かれている言葉より、強い印象を残すことがある。

 クリスチャンのアカウントで、けっこうひどい暴言を平気で使うのがいる。攻撃的で、ターゲットとなるアカウントを見つけると、しつこく攻撃し続ける。
 それは本人に言わせれば理由があってのことだろうし、その仲間内や知り合いたちもそのように理解しているのだろう。しかしそうでない大多数の人たち、殊に未信者の人たちは、そうは思わない。「クリスチャンって何なんなの」「こんな暴言吐くのがクリスチャンなんだ」みたいな疑問を抱くだろう。それがクリスチャンの総体に対してプラスになるかマイナスになるかは言うまでもない。
「でも言っていることは正しいじゃないか」という擁護意見があるかもしれない。けれどその投稿内容がどんなに正しくても、攻撃的な暴言という時点で、内容にほとんど目が行かなくなる。それが人間心理というものだ(そもそもの話、「正論の暴言」というのはまず見たことがない)。

 単純な話、優しい物言いの人と、暴言ばかり吐く人とがいたら、たぶん誰もが前者に良い印象を持つだろう。そのどちらと関わりたいかと問われれば、たぶん前者と答えるであろう。一般の人たちにリーチしていくべき立場にあるクリスチャンとして、どちらがあるべき姿か、言うまでもないのではないか。

 暴言系クリアカを見て私が「痛々しいなあ」と思うのは、その暴言によってキリスト教のイメージが悪くなるということより、SNSという「若干匿名性のある媒体」を使って人を攻撃する点である。彼らは気に食わない相手で、かつ攻撃しても問題ないと判断した相手を執拗に攻める。その卑怯さとダブルバインドさが、何とも痛々しい。

 またもう一つ「痛々しいなあ」と思うのはこれ。

 聖書の、ある箇所「だけ」を投稿する行為。
 タイムラインに突如として、聖書の一節「だけ」がポーンと上げられる。何の説明もなく。

 たとえば詩篇23篇1節とか、ヨハネ3章16節とか、他にも沢山あるけれど、たぶん自分が感動した箇所を一生懸命書き写して投稿するのであろう。その気持ちはわからないではない。しかし聖書箇所「だけ」投稿は、はっきり言うけど意図がわからない。何を考えて、その箇所に何を思って投稿したのか見えてこない。聖書解釈にはある程度の「幅」があるけれど、その投稿がどのような解釈に基づくものなのかわからない。結果、何を言いたいのかわからない。

 だから「これはこういうことです」と自分なりの説明をしておかないと、いろいろ意図しないように取られてしまう。たとえば、
「なにカッコつけてんの」
「なに気取ってんの」
 とか思われても、文句は言えない。

 そういうのは自分の「ディボーションノート」とか手帳とかに書いておけばいいと私は思う。自分だけの感動なら自分だけが見ればいいのだから。
 その感動を誰かと共有したいのなら、箇所「だけ」でなく、説明が必要になるのは言うまでもない。たとえば教会内での「分かち合い」の時間、あなたの番が回ってきたとき、聖書の箇所「だけ」発表して終わりにするだろうか。終わりにしたら「え、それで?」とならないだろうか。
 ちゃんと説明しないと、あなたの感動は誰にも伝わらない。だから聖書箇所「だけ」投稿は、単なる自己満足になってしまう。と私は思う。

 もちろん自己満足だって何だっていいんだけど、そこには上述のように「クリスチャンとしての責任」が伴っている。聖書箇所「だけ」投稿が他人にどう思われるか、少し考えてみることをお勧めする。

 これはたぶんネットのマナーにも通じるし、一般常識にも通じると思う。要は発言には相手がいるのであって、自分の意図がどうあれ、相手や周囲の人間がそれをどう受け取るか、がけっこう重要なのである。たとえば差別的な発言をしておいて「差別的な意図はなかった」と弁解しても、なかなか通じない。それと同じことだと思う。

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