一貫性を持つことはクリスチャンとしても大切だと思う、という話

2016年10月5日水曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題

t f B! P L
■一貫性を持つこと

 キリスト教信仰と直接関係ないけれど、私が常々心掛けているのは「一貫性を持つこと」である。
 それは無理やり聖書的表現をしてみれば、「安定した歩みをする」ということかもしれない。

 できるだけいつも同じスタンス、同じ立場で、これと決めたことを継続していきたい。始めたことを簡単に辞めたり、右と言ったのに気付くと左になっていたり、Aと言ったりBと言ったり、みたいなことは(できるだけ)したくない。いつも変わらない何かを持っていたい、と言ったらカッコつけすぎだろうけれど。

 でもマンネリとかワンパターンとかにはならないように、いわゆるソフト面では柔軟でありたい。改善できることがあるならしたい。いろいろ試すのも良いと思う。でもそういう表面的なことはともかく、向いている方向はいつも一緒、いつも変わらない、という一貫性を持っていたい。

 なんでこういう話をするかと言うと、これもまた教会時代の反省があるからだ。

■一貫性のなかった教会の話

 私の教会はとにかく活動が多かった。いろいろな「働き」が次々と始まり、ミーティングも頻繁に持たれ、数々の仕事(よく言えば奉仕)がスタッフたちにどんどん割り振られていくのだった。礼拝や祈り会なども毎日あった。みんな遅くまで教会に残って働き、徹夜や泊まり込みも珍しくなかった。

 と言っても、忙しいことに文句があるわけではなかった。私が不満だったのは、「始めたことが続かない」という状態についてだった。

 たとえばだけど、教会の一角で毎週英会話教室を開こう、と牧師が言い出すとする。そのためにスタッフが割り当てられて、チラシを作ったり地域に配ったり、一応教室っぽく整えたりと、希望をもって活動を始める。しばらくすると、(うまくいけば)生徒が何人か集まる。そして毎週何曜日の何時からか、楽しそうな英会話教室が始まる。担当者は「この教室から救われる魂が起こされるのが主のご計画だと思います。ハレルヤ♪」とか、期待に胸を膨らませて皆に話す。

 だけど突然、「○○の地域に伝道旅行に行くよう示された」とか牧師が言い出して、教会を挙げて〇〇に出向くことになる。英会話教室のスタッフも当然のようにそこに連れて行かれる。で、「今週の英会話教室はお休みです」となる。
 次に「海外でこれこれのカンファレンスがある。それには出なければならない。英語ができる人が必要だ」みたいな話になって、また英会話教室のスタッフが引っ張って行かれる。またまた「今週の英会話教室はお休みです」となる。
 で、帰ってくると、「今、実は△△のプロジェクトを始めるように主から促されている。君、担当してくれるか」とか牧師が言い出す。英会話教室のスタッフは、「主からのコーリング」ばかりは断れない。
 というわけで、「英会話教室は事情により閉じさせていただきます」となる。あれ、その教室から救われる魂が起こされるんじゃなかったっけ?

 というのはほんの一例で、似たようなことが沢山あった。なんだかんだで一つのことが継続しなかった。私はその一貫性のなさに違和感を覚えていた(言い出す勇気はなかったけれど)。
 ここで「主にそう導かれたんだから仕方ないだろ」みたいな反論をしたい人には、その英会話教室の生徒さんたちにそれをそのまま言ってもらいたい。「続けられないなら始めるな」と言われたら、どう反論するだろうか。「続けられるかどうか事前に計画せよ」みたいなことを聖書は言ってるんだけど。

 教会が神様にどう導かれたにせよ、その生徒さんたちにとって、その英会話教室が「証」にならなかったのは間違いない。そしてそれを神様のせいにするのは、教会に泥を塗るようなものではないかと私は思う。

■一貫性の有無は伝道にも影響する

 というような経緯から、私は一貫性を持つことが大切だと思っている。クリスチャンであればなおさらだとも思っている。

 べつに押し付ける気はないけれど、一度言ったことは続けるべきだと思う。そしてそれ以前に、続けられるかどうかをよくよく考えたうえで発言すべきだと思う。その目的や動機、どこを目指すのか、どんな方法で続けるのか、みたいなことは最低限考えて、本当にそれを始めるかどうか、自分の中で吟味することを強くお勧めする。

 話を急に小さくするけど、SNSでクリスチャンの皆さんを眺めていると、一部にそういう一貫性のなさを感じることがある。
 たとえば、アカウント名やアカウント画像を頻繁に変えたり、アカウントを削除したかと思えばいつの間にか別アカで復活していたり、辞めたり再開したり、Aと言ったりBと言ったり、なんか右往左往しているように見える。もちろん個人の好みや都合の範疇の話なんだけど、精神的な不安定さが見え隠れしているような気がしてならない。

 もっともそれらは悪いことではない。不安定さは誰にでもある。完全に安定した人もいない。またどんなことにも一貫性を持つべきだという話でもない。辞めるべきと思ったら、長引かせないで辞めた方がいい場合もある。いろいろな事情があるだろうから、一概に言うことはできない。

 しかしごく短期間でAと言ったりBと言ったり、辞めると言ったり辞めないと言ったり態度をコロコロ変えるのは、「落ち着きがない」と言われても仕方がないだろう。そしてそういう落ち着きのない、今日はこうでも明日はどうなるかわからないみたいな人が、「聖書はね」とか言っても、説得力がないだろうと私は思う。

 同じ福音を聞くにしても、聖書の講釈を聞くにしても、言うことややることがコロコロ変わる人から聞きたいか、そうでない人から聞きたいか。
 答えは明白ではないだろうか。

■「継続」することについて

 最後に「一貫性」に関連して、「継続」の話をしたい。

 何事かを継続することは、それを始めることより大変だ、とよく言われる。私はその通りだと思う。何かを始めることは案外簡単にできるけれど、それをずっと続けることは案外難しい。長くやっていれば、良い日もあれば悪い日もある。やる気が失せる日もある。もう辞めようかなと思う日も、度々あるだろう。

 このブログにしても同様で、詳しく書かないけれど、イロイロな時を経てきている。もう辞めようかな、と思ったことは今のところないけれど、何の意味があるかな、意義があるかな、と思ったことは多々ある。

 そう考えると、「一貫性を持つ」ということは、「何かを継続する」ということと、ほぼ同義なのではないかと思えてくる。もちろん一貫性を持つために何かを辞める、ということもあるかもしれないけれど。

 このブログを始めてまだ3年半だから偉そうに言えないけれど、「継続」するためのコツは、「とにかく続ける」ことにあると思う。身も蓋もない言い方だけど。
 とにかく続けないと、続かない。当たり前だけどこれこそ「真理」だと思う。すごく嫌な時でも、やる気が出ない時でも、無心になったりヤケになったりどうでもいいやと思ったりしながら、続ける。続けてみる。結果なんか知らない。というスタンスも時には必要だと思う。

 最後に気の利いた聖書箇所を披露できればいいんだけど、ちょっと思いつかないので、敬愛するマンガ『スラムダンク』から名言を引用して終わりにしたい。
「諦めたらそこで試合終了です」(安西先生)

QooQ