カルトっぽい教会と「異端」の微妙な関係

2016年10月19日水曜日

カルト問題

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■カルトっぽい教会は「異端」なのか

 カルトっぽい教会についてずっと書いている。
 時々いただく質問に、こんなのがある。
「カルトっぽい教会とはつまり異端なのですか?」

 カルト=異端(?)。

 カルトっぽい教会は多くの場合、HPなんかで「正統派キリスト教会」であるとうたっている。
 教会を実際に見に行ってみると、いろいろ整っていて、牧師もマトモなことを言うし(性格的に変な牧師はいる)、信徒たちも生き生きしているように見える。4世紀に異端認定されたアリウス派みたいなことは言わない。週報に使徒信条を掲載しているところもある。基本的に伝道熱心で、活動的で、数か月通ったくらいでは、特に問題があるとは感じない。むしろ人によっては「すごく良い教会だ」くらいに思うかもしれない。

  教義的には、たとえば福音派なら「聖書の無誤無謬」を支持するし、リベラル派はそれを支持しないし、など教派による違いがもちろんある。それは教派間の違いであって、「異端」とはならない。カルトっぽい教会は福音派が圧倒的に多いと思うけれど、一応その教派の基本ルールから逸れることは言わない。教派内の集まりにも積極的に参加する。
 だから、カルトっぽくても、異端とは関係ないことが多い、というのが実態だと思う。

■マトモっぽいが徐々に変質する

 では、カルトは異端ではないのか?
 私なりの結論を先に書くとこうなる。

「カルトっぽい教会は、きわめてマトモな形で始まり、運営されていく。 しかし徐々に変質し、最終的には、異端と変わらない状態になる」

  はじめはマトモなのである。あるいは長い期間マトモなのである。牧師は熱く、信徒は熱心で、いろいろな活動実績を重ね、うまく行けば、会堂や敷地を拡大し、それなりに一目置かれるようになる。あるいは地域で20年30年と歴史を重ね、それなりに市民権を得ている。それを見て「異端だ」と言う人は、たぶんいない。

 それがいつの頃からか「変質」しだす。ずっと同じように見えるんだけど、徐々に変化していく。内部の人間にはそれがわからない。絵の一部が徐々に変化していくクイズみたいなものだ。徐々に変化していくから、はじめからその「部分」に注目していないと、その変化が全然わからない。たとえどんなに大きく変化したとしても。

 何故そうなるのか? そのキッカケや始まりは、教会それぞれだと思う。たとえば牧師個人の問題が、時を経て次第に大きくなり、かつそれを制御する立場の人間が誰もいない、という状況があるかもしれない。あるいは(そんなことあってほしくないけれど)はじめから金目当てで教会を始める人間がいるかもしれない。
 いずれにせよはじめのうち、まだ力のないうちは、ごく普通のキリスト教会として運営している。地道に伝道し、信徒を手厚く世話し、教会会計と報告をちゃんとやる。「聖書の学び」にも熱心だ。異端とはほど遠い、「まっとうな教会」に見える。

■要注意ワード:真理の回復

「まっとうな教会」から「異端的教会」へと徐々に変質すると書いたけれど、その境目は曖昧だと思う。時期的にどこまでが「まっとう」で、どこからが「異端」なのか、後から振り返ってもたぶんわからない。
 でもその時期の特定には、あまり意味がないと思う。大事なのはその変化に気付くことであろう。

 私が思うに、その変化の兆候を示す言葉がある。
 たとえば「真理の回復」という言葉。牧師がこんなふうに言う。
「祈っていたら、霊のうちに深く語られた。そして、失われていた真理が私に示された。これは真理の回復だ」

 つまり、現代キリスト教において完全に失われている(忘れられている)聖書の真理があって、それが時を経て、なんと「この教会で」回復した、ハレルヤ、という理屈。 それでどんなことが回復したかと言うと、たとえば「霊の戦い」とか「和解の務め」とか、「預言的アクション」とか「ダビデの幕屋の礼拝」とか。そして、教会はそういう社会的逸脱行動に走るようになる。しかもその逸脱は「主のため」となる。

 それら一連の逸脱行動が即「異端」と判断されるかどうか、微妙なところがあるだろう。ぜひ公会議を開いて、偉い人たちで話し合ってほしいものだ。でも私からしたら、人々を非常識に走らせたり、過剰な労働や金銭を要求したり、暴力的に威圧したりするのにキリストの教えを利用している時点で、「異端」と同じだ。公なジャッジなど必要なく、即離れるべき教会だと思う。

 とりもなおさずカルトっぽい教会は、一見マトモに見えても、次第に言うことややることが逸脱的になっていく。「中の人たち」はその徐々な変化に気付かないので、ずっとマトモだと思っている。あるいは「真理が回復している」という自負やプライドを強く持っている。その逸脱は限りなく「異端」に近いと思う。「異端」でないにしても、害があるのは間違いない。

■特別な油注ぎ?

 最後に、これもまた「異端」かどうか曖昧な話だけれど、ひとつ思い出話を書く。

 私のかつての教会での話。
「某国に行って、〇〇の体験をし、特別な油注ぎを受けよう」みたいなことが、盛んに言われる時期があった。
 その○○は日本ではできず、某国に行ってしなければならない。その「特別な油注ぎ」を先に受けてきた人たちは、確かに何か変わったように見えた。同じころ、教会の礼拝スタイルも「革新的に」変わっていた。これは「真理の回復」に違いない、と教会内では思われた。そして皆その「特別な油注ぎ」がほしくて、安くないお金を払って、団体で某国に行くのだった。私もその中にいた。

  某国でのイロイロは書くと長いので省くけれど、日本への帰国の際、牧師から一つの注意点があった。こんなのだ。
「某国で受けた油注ぎは、非常に強力なものだ。これを受けて日本に帰る際、日本を支配する悪霊たちがそれに気づいて、私たちを攻撃してくるだろう。だから帰りの飛行機が日本の海域に入ったら、注意しなければならない。よく祈って備えるように」

 半分脅しみたいな話なんだけど、私たちは真に受けた。先に行った人たちの話も、それを裏付けていたからだ。
「帰りの飛行機で耳が異常に痛くなった」
「日本の領域に入ったとたん頭痛が激しくなった」
「日本の帰ったとき、自分が霊的に武装していることに気付いた」
 彼らはそう口々に言った。だから私たちは期待半分、不安半分で某国に行ったのだった。

 で、帰りの飛行機。日本に近づくにつれ、私は耳が痛くなった。それも半端ない痛み方だった。じっと座っていられなくて、吐きそうだった。でもその苦しみの中で嬉しい気持ちもあった。それだけ「強い油注ぎ」を受けたんだ、という自負があったからだ。
 で、日本に帰ってきた。それからどれだけ「力強い歩み」ができたかと言うと、これがさして変わらなかった。気分的には(しばらくは)高揚していたけれど、冷静に考えてみれば何も変わっていない。しかし、あれ、いったい何だったんだろう、と考える間もなく、教会はどんどん忙しくなっていく。そういうことをゆっくり考える間もなかった。

 今振り返ると、帰りの飛行機で起こった耳痛や頭痛は、いわゆる飛行機頭痛や航空性中耳炎で説明できたのではないかと思う。飛行機ではよくあることだけれど、私を含むほとんどの教会員は飛行機旅行なんて滅多にしなかったから、何か特別な体験だと思い込みやすかったのかもしれない。現に教会はもう解散しているから、「特別な油注ぎ」も何もない。

 これはほんの一例だ。日本ではできない特別な礼拝行為とか、特別な油注ぎとか、それが即「異端」かどうかは曖昧だろう。けれど、それで信徒に変な自負心やプライドを持たせたり、信徒を奉仕で忙殺する理由にしたり、明確な権威構造をつくって信徒を威圧したりするなら、それは「有害な教え」であろう。「異端」かどうかに関係なく、問題にしなければならないと思う。

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